第57話 北の公爵②
「…………っ!!」
爪を剥がされ激痛に顔が大きく歪む。それでも歯を食いしばり声は出さなかった。
「まだまだこれからだ」
愉快そうに笑うと、次は左の薬指の爪を剥ぎ取る。声を出すまいと必死に痛みに耐える左側の顔とは対称的に、愉悦の表情を浮かべる右側の顔は酷く醜悪だった。
「シュウ!! やめて!! やめなさい!! 白霊貴族!!」
「……俺は、大丈夫だよ……姉ちゃん……」
「くっくっく。やるな。これならどうだ?」
中指の爪が剥がされた。立て続けに襲う激痛にのたうち回りたかった。しかし体の自由を奪われ、それすらも出来ないシュウは唯々耐えるしか無かった。それでもロゼットの為に、歯が欠けるほど強く食いしばり涙がポロポロ流れても声は出さなかった。シュウはもう限界だった。
「お願い……。もうやめて……」
ロゼットは自分が傷付くよりシュウが苦しむ方が辛かった。なぜ自分たち姉弟がこんな酷い目に合うのだろうと嘆いた。ロゼットは必死にカトリーヌに祈りを捧げる。
「随分と辛そうだな? 私はまだ余裕だぞ。さあ、次は耐えられるか?」
北の公爵は右手の人差し指で左目を突き刺した。シュウの絶叫が響く。この残忍な公爵はその叫び声を音楽を楽しむかのように心地よさそうに聞いていた。十分に堪能した後、シュウの叫び声をかき消すように大きく笑う。
「すまんすまん! そういえば私は痛みを感じないのだった! ハハハハハハハ!」
アリエは飛びかかり、剣を振るった。ゼクターフォクターはこれを素手で受け止める。
「お前の目的は時間稼ぎじゃなかったのかね?」
「死ね! 下衆が!!」
アリエはもう我慢できなかった。たとえ勝てないとわかっていてもこの凶悪な白霊貴族を許すことは出来ない。残りの体力は僅かだ。渾身の力を振り絞り『疾風』を発動する。狙いはゼクターフォクターの胸の中心に埋まっている立方体。あそこからおぞましい力を感じる。アリエは観察してここがゼクターフォクターの本体だと見抜いた。
刺し違えてでもゼクターフォクターを殺す!
アリエは突風のようになってゼクターフォクターに迫り、本体と思しき六面体の物体に黒い刃を突き立てた。しかしアリエの刃は空を切る。ゼクターフォクターが視界から消えた事を認識する前に、腹部に強烈な痛みを感じた。体が吹き飛び、何度も地面を弾みながら石造りの建物に直撃しようやく止まった。腹部に受けた衝撃は芯を貫き、内蔵を破裂させていた。
「さて、邪魔者は居なくなった。拷問を始めようか、ロゼット」
「……いや……来ないで!!」
足に傷を受け恐怖でうまく体が動かせないロゼットは、イモムシのように地面を這いつくばり逃げようとする。そんなロゼットをゼクターフォクターはわざとゆっくり追いかけ楽しむ。未だ激痛に呻くシュウは必死に逃れようとする姉を認めると、最後の気力を振り絞ってゼクターフォクターに懇願した。
「お願いだ……姉ちゃんをいじめないで……。俺達が何したっていうんだよ……なんでこんな目に合わないといけないんだ……」
「何をしたかだと……? 私の邪魔をしたではないか! 貴様らの所為で2百年を無駄にした! 2百年! 悠久の時を生きる我々からすれば玉響に等しいが、それでも貴様ら矮小な人間が私の貴重な時間を奪っていい道理はない!」
ゼクターフォクターは激昂した。彼ら白霊貴族は人間を下等なモノとして見下している。白霊貴族の中でも位の高いゼクターフォクターは殊更その傾向が強い。故に少しでも人間から損害を受ける事はあってはならないのだ。
「しかも貴様には格別な力を与えてやったというのにやられおって! 使えない女め! 私の計画がまたしても無に帰す所だった。念の為にこの体にも少し我が魂を残しておいて正解だったよ」
「……邪魔とは、あなたの目的は……なんですか?」
息も絶え絶えな瀕死のアリエが気力を振り絞り、何とかここまで歩いてきた。もう自分は生きていられないだろう。この僅かな灯火を少しでも時間を稼ぐために使わなくては。
「まだ意識があるか。どれ」
ゼクターフォクターはアリエに向け冥氣を放つ。アリエにはこれを避ける力は残っていなかった。ああ、こんな奴の奴隷になるのかと悔しさでいっぱいになった。だがアリエが白霊貴族となることは無かった。冥氣がアリエに触れた瞬間、黄金色の炎に包まれ霧散した。カミヒトの神正氣がアリエの中に残っていて守ったのだ。
「……貴様、何をした?」
「……さあ? あなたがヘナチョコだっただけでは?」
「ふん、安い挑発だ。既に虫の息ではないか。しかしここまで粘るとは思わなかった。力が溜まるまでの時間つぶしのつもりだったが、存外楽しめたぞ。どれ、褒美をやろう。良いものを見せてやる」
ゼクターフォクターはシュウの意識を引っ込め、右手に膨大な冥氣を集める。アリエはその禍々しい力に息を呑み、凶事を予感した。このままでは未曾有の大惨事が起きる! 自身がどうなろうと絶対の止めなくてはならない。しかしボロボロの体は立っているのがやっとだ。
ゼクターフォクターは右手を地面につけ冥氣を濁流のごとく流した。
「絶 対 零 域!」
セルクルイス全体に歪が広がる。温度が急激に下がり肌をさす冷気は極寒のようだ。まるで時が止まっているかのような静の世界。セルクルイスは次元ごと冥府に近づいたのだ。
アリエが呆然としていると、遠くから大勢の悲鳴が聞こえてきた。セルクルイスの住民達だ。あらゆる方向から聞こえてくる悲鳴の大合唱はまさに阿鼻叫喚。アリエは街全体が地獄に落ちてしまったのではないかと錯覚した。
「フハハハハハハハハ! 遂にやったぞ! “伝説の何か”の邪魔はもう無い!」
「……何をした? お前の目的は何だ!」
「なに、現世と冥府の境界を少し曖昧にしただけだ。おかげで大量の眷属を作ることが出来た」
「まさか……」
アリエは絶句した。先程の悲鳴は住民が冥氣の襲われた時のものだった。セルクルイスの住民は10万人を超える。それらすべてが白霊貴族となれば、一体世界はどうなってしまうのか……。
「これだけ贄がいれば、より広範な領域が冥府と繋がる! 東の公爵が作ったものよりもな。くっくっく。冥府から数多の同胞が来ればカトリーヌなど恐るるに足らず!」
「……贄?」
「そうだ。お前たちが白霊貴族と呼んでいる紛い物を捧げる事で、この地は完全に冥府となるのだ! そしてここを始めに現世を冥氣で満たし、この世界すべてを我々の物とする!」
「それが……お前たちの目的か……! 一体何のために!」
「《《王》》がご所望だ。我々の崇高にして偉大な《《王》》! すべての存在の頂点に君臨するべきお方! だというのに、忌々しい“伝説の聖女”が王を封印しおった! だがその封印ももうすぐ解ける……。これだけの贄がいれば王も地上に来れるだろう」
いつの間にか中央広場にゼクターフォクターによって白霊貴族にされた住民達が集ってきた。
「「「「「ホ ホ ホ ホ ホ ホ ホ ホ」」」」」」
「「「「「ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ」」」」」」
不気味な声を発するソレらは東西と南北をつなぐ2つの大街道や、複雑に入り組んだ路地裏に大挙して押し寄せていた。白霊貴族の軍勢にアリエとロゼットは言葉を失う。戦意は失せ、胸にはただ絶望のみがあった。
「人間よ。なぜ私が地上に存在できるのかと問うたな? 死出の旅路の土産に教えてやろう」
なぜ今更答える気になったのか。そんな事はどうでもいい。茫然自失としたアリエは力のない目でゼクターフォクターを見つめる。
北の公爵は自身の胸に半分ほど埋まっている物体を取り出した。それは白い下地に赤黒い幾何学模様が書いてある立方体だ。
「これは分魂匣と呼ぶ。私達白霊貴族は大量の冥氣なしでは地上に存在することは出来ないが、自身の魂を分離しこの分魂匣にすれば地上に出てこれるのだ。まあ、大きなデメリットはあるのだがな」
分魂匣は冥府の白霊貴族の半身を分け現世に送る禁術である。彼らはキューブの形を取れば、冥氣がなくとも現世に存在することが出来る。しかし、その状態では身動きが取れず、キューブに触れた人間に取り憑かなければならない。取り憑く事のできる人間も相性があるため、誰でもいいわけではない。特定の場所に送ることも出来ないので、人間に取り憑けるかどうかは完全に運である。
更に分魂匣は脆く、黒聖持ちの人間であれば誰でも破壊することが可能だ。それ故分魂匣を現世に送り込み直接人間に取り憑く白霊貴族はほとんど居ない。リターンよりリスクのほうが遥かに大きいからである。
それでもゼクターフォクターがこの方法を取ったのはなぜか。分魂匣を地上の任意の場所に送り込む方法を編み出したのか。それとも大きなリスクを背負ってまで地上に出なければいけない理由があったのか……。
何にせよ分魂匣は白霊貴族にとって機密であって人間に漏らしてはならない。それはゼクターフォクターも重々わきまえている。それどころかゼクターフォクターは4体の公爵の中で一番慎重である。例え有利であっても自分たちの弱点を話したりはしない。傲慢ではあるが決して油断はしない。
しかし今のこの状況に珍しくゼクターフォクターは酔いしれていた。すでに人類との対決で白霊貴族の勝利を確信していたのだ。事実、冥府より本物の白霊貴族が大量に来れば人類の苦境は必須である。更に《《王》》まで地上に現れれば、人類の勝利は限りなく不可能に近いだろう。
「今宵はいい夜だ。こんな夜は舞踏会を開きたくなる。だが死にかけの人間と奴隷共だけでは興が乗らん。やはり同胞が居なくてはな。しかし贄を使い、ここを冥府に繋げるのも時間が掛かる。仕方がない。それまで貴様らを嬲って暇をつぶそう」
アリエは震えるロゼットを抱きながら睨む。この外道には弱みを見せたくない。涙が溢れそうになるのを必死に我慢して、精一杯威嚇して睨みつけた。
「なにを悔しがる必要がある。光栄に思い給えよ。下等な人間ごときが私の暇つぶしの道具になれるのだから」
――――――――――――――――――――――――――――
全身にべっとりと付く自身の血が気持ち悪い。僕は今、地面に倒れ死んだふりをしている最中である。
ゼクターフォクターを名乗る白霊貴族に、土手っ腹に風穴を空けられ気を失ったのはほんの少しの間で、すぐに意識は戻り腹部の痛みも全く無かった。内臓や背骨まで逝っちゃってたのに、まるっと完治しているものだからビックリだ。これはもしかして巫女様がくれた写身の宝鏡が身代わりに僕の傷を引き受けてくれたのではないだろうか。
そういうわけで体は大丈夫なのだが、体を射抜かれた事実は僕にトラウマを与えた。新しく現れた白霊貴族にすっかり怖気づいてしまった。一度は奮起したのだが、また心が恐怖で支配された。今すぐに逃げないと……。
しかし僕一人で逃げるわけにはいかない。アリエさん、元に戻ったロゼットさん、それから気を失っているモンレさんを含めた十数人の騎士達。彼らも助けなければいけない。気になるのはシュウ君だ。彼は最初からゼクターフォクターで僕達を騙していたのか。それとも体を乗っ取られているのか……。
僕は死んだふりをしながら必死に考えた。この状況から打開できる策はあるのかと。アリエさんと白霊貴族の問答を聞きながら、ない頭を振り絞って打開策を考えているとシュウ君の声が聞こえてきた。
「ううう……。兄ちゃんごめんなさい……」
その後のやり取りを聞くに、やはり彼は体を乗っ取られているようだ。その悲痛な声に胸が痛む。シュウ君は全く悪くないのに。どうにかしてあげたい……。でも怖くて、生きていることがバレないように震えを抑えるのに精一杯だ。じっと耳をそばだてている事しか出来ない。
ゼクターフォクターは惨酷だった。ロゼットさんを痛めつけ、勝負と称しシュウ君を拷問した。ロゼットさんのうめき声、シュウ君の爪を剥がす音、痛みに耐え歯を食いしばり、隙間から漏れる息の音が痛々しかった。耳を塞ぎたいほど辛く悲しかった。
そしてやるせない怒りがふつふつと湧き上がる。
ゼクターフォクターがシュウ君の目を潰した。絶叫が僕の耳に響いた時、僕の中の何かがプツンと切れた。
ゼクターフォクターの高笑いが聞こえた時、僕は生まれて初めて殺意を抱いた。逃げることはもう考えていなかった。この醜悪なモノを倒すことしか考えられない。この手で倒したいと強く思った。しかし、今の自分の力ではそれが出来ない。殺意と悔しさで胸が一杯になった時、懐に入れていた水晶さんが淡く光った。
『EX神術を使用できる条件が整いました。EX神術を使いますか?』
EX神術!? なにそれ!? 使う使う! 使うよ! 使うに決まってるじゃん水晶さん!




