第62話 最悪の再来②
菩薩院邸の大座敷で菩薩院桂花と1人の男が相対していた。男は黒のスーツを着ており、大柄で峻厳な面差しをしている。年の頃は中年で泰然とした空気をまとっていた。男の名は嶽帝。嶽一族の当主であり鷹司と冷華の実の父である。
「して、私に何の御用でしょうか。桂花様」
「その前にお茶でも一杯いかがでしょうか」
「ご厚情はありがたいが私も忙しい身。簡潔にご用件をお聞かせ下さい」
「せっかちなところは相変わらずですね」
桂花は傍らに控えている供の者に茶道具一式を片付けさせた。襖が閉まる音がして二人きりになると桂花はおもむろに口を開いた。
「それでは単刀直入に聞きましょう。嶽一族は何を企んでいるのでしょうか?」
「仰ってる意味が分かりませんな」
「艶鬼様からどのような司令が下ったので?」
「そのような事実は一切ありません」
「嶽の領域内から不穏な空気の流れを感じます。まさかとは思いますが三家の約定を破るなんてことはありませんよね?」
「それは邪推というものです」
「だといいのですが。あなたはとても聡明な方。それがいかに危険なことかはご承知のはず」
「……いくら桂花様といえど我が一族の内情に干渉するとはいただけません。御容喙なきよう願い上げます」
嶽帝の態度は慇懃であるが、視線はするどく明確に拒絶の意志を表していた。桂花は大男の威圧する眼差しを落ち着いた様子で受け流す。
「御用向きはそれだけでございますか? 予定が詰まっておりますので、失礼ながらここらで辞去させていただきます」
嶽帝はこの話題に触れられたくないようでそそくさと立ち上がった。桂花は止めもせずじっと正面を見据えていた。鷹司の父が一礼して桂花に背を向ける。帝が一歩歩み出そうとしたとき異変が起きた。室内全体に突如としておぞましいケガレが満ちたのである。
桂花は咄嗟に立ち上がり、二人は唐突な異常事態に臨戦態勢に入る。ケガレはこの大座敷だけではなく菩薩院邸すべてを包んでいるようだった。
「な、何だこれは!?」
いや、ケガレはそこにあるわけではなかった。よくよく冷静に感知してみれば遠くから直ぐ側にあるかのように錯覚するほど強烈なケガレが流れてきた。帝はケガレの方角を険しい顔で凝視する。同じ方向を見る桂花は震えていた。
「まさか……そんな……」
「桂花様!」
何人かの家人が大座敷に無断で入ってきた。当主である桂花や客人がいるのにこのような無礼な振る舞いをするのは、それだけ混乱していたからである。突如発せられた凄絶で禍々しいケガレに菩薩院全体が騒然となった。
桂花は深呼吸して、恐れも驚きも焦りも無理やり心の奥に閉じ込めて毅然として家人に命じた。
「緊急事態です! あなた達は縁雅家と霊管に連絡をしなさい! 西の御三家には私からします! 帝さんは嶽一族の取りまとめを! すべての家が連携して事に対処する必要があります!」
「桂花様、このケガレは一体何なのですか!? 何かご存知の様子ですが……」
「詳しく話している暇はありません。私は直接このケガレの元に向かいます。帝さんは早く嶽にお戻りになって」
「しかし……」
「桂花様!」
菩薩院桂花は走り出した。齢90を超えるとは思えないほど俊敏な動きで菩薩院邸の廊下を駆け抜けた。
都内某所に宗教法人全国霊障支援管理協会、通称霊管の4階建てのビルがある。そのビルの殺風景な会議室に3人の男女がいた。机を挟んでドア側には五八千子の母である零源珠姫と叔父である零源龍彦が座っており、部屋の奥側にはオカルト雑誌現幽の編集長柏崎がいた。
柏崎は呪いの動画を雑誌を通じて全国に拡散した容疑で霊管に連行された。柏崎も例の動画の被害者であったため、表向きはお祓いをするという名目であったが実際の目的は尋問することである。珠姫と龍彦は保護した現幽編集部の社員である山田、岩代、堂上の3人と柏崎を1人ずつ順番に取り調べていた。
特に柏崎については入念かつ徹底的に追及した。
「マガツマさんとやらについてはそれが全てか? 本当にそれ以上知らないのか?」
龍彦は自分より10歳以上年上の柏崎にドスの利いた声で問いただした。柏崎はわざとらしく縮こまると素直に答える。
「ええ本当です。これからより詳しく調べるところだったのですよ。それは堂上からも聞いたでしょう?」
マガツマさんは小中学校を中心に流布している都市伝説で、内容は種種雑多であるが大別すれば次の2つの特徴を持っている。
1つは学校内で1人きりの時、自身にまつわる不幸な話をするとマガツマさんがその不幸を取り去ってくれるという。もう1つはこれも学校内で数人で怪談を順番に話していくと、マガツマさんが現れ最後にとっておきの怖い話をしていくという話だ。
内容自体は普通の都市伝説と言えるが、その提供元がrindo_hasimotoという例の呪いの動画を柏崎に提供した人物だった。さらにrindo_hasimotoは嘉彌仁や菩薩院桂花から身元を探ることを止められているので危険人物である可能性が極めて高い。霊管はrindo_hasimotoを最重要人物に指定しその取扱について最大級の怪異と同レベルの“壱”にした。
「私からもお尋ねしたいのですが、部下の紫雨と近藤の安否はまだ分からないのですか?」
「ああ」
「どうやら紫雨さんも白星降村に向かわれたようなのです。今我々が全力で捜索していますのでもうしばらくお待ち下さい」
珠姫の頭に娘の顔がよぎる。昨日娘と電話して白星降村に赴くことを聞いた。娘の予言ではそこで凶事が起こりこれを放置すれば日本が大変な事態になるということだった。そしてその場に自分も必要だという。娘の並々ならぬ決意に珠姫は止めることはできなかった。
珠姫が娘のことを思い心配でたまらない気持ちをどうにか抑え込んでいると急に体全体に悪寒が走った。全身に纏わりつくような不吉なケガレ。まるで自分がケガレでできた海に落ちたように錯覚した。
「義姉さん!」
龍彦が反射的に立ち上がる。珠姫を守るように辺りに注意を払った。このケガレはどこから湧いたのか探っても出処が掴めない。異様な事態に動揺したのは龍彦や珠姫だけではなかった。
「珠姫さん!」
霊管の職員であり妖怪でもある湿原濡が会議室のドアを乱暴に開けた。彼女の顔は青く体は震えている。恐怖で頭が混乱しているようで二の句が継げない様子だった。会議室の外から霊管の職員たちの騒ぎが聞こえてきた。
「ど、どうしたんですかね? 急に……」
柏崎は何も感じなかったようで職員達の異様な雰囲気に戸惑っていた。珠姫は立ち上がると柏崎を置き去りにして龍彦と濡を連れて部屋を出た。
「あ、あの! ちょっと……」
珠姫は廊下を早足で歩き混乱している職員たちに一喝した。
「落ち着きなさい! まずは何が起こってるのか状況を把握するのが先決です。このケガレがどこから出たのかすぐに調べなさい!」
珠姫の号令にそれまで騒然となっていた職員たちは規律正しく動き始めた。
「龍彦さんは御三家に連絡を!」
「はい!」
慌ただしく動く職員の中、珠姫は窓から西の空を見る。このケガレはどうやら西側から流れているようだった。
「五八千子……」
珠姫は祈るように娘の名前を呟いた。
(大丈夫かい、光子?)
「……ええ、何とか。あなたこそ大丈夫?」
(もちろんだよ)
光子は夫で唐傘の付喪神である甲子椒林傘を開き、今しがた白巫女から放たれたレーザーを防いだところである。“呪縛”と白巫女両方を相手にしている光子の顔には疲労が如実に現れていた。
当初の予定では三すくみに持っていき膠着状態を作ってカミヒトが来るまで時間稼ぎをするつもりであったが、“呪縛”と白巫女は執拗に光子を攻めた。二人は完全に連携している訳では無いが互いの利害が一致したのか、光子を先に始末することにしたようだ。
強大な魔のモノを2つ相手となると、さすがの光子と甲子椒林傘でも防御だけで精一杯だった。さらに破魔子達はかなり疲弊しているようで戦力としては数に入れられない。悪く言えば足手まといである。
破魔子達もそれを自覚しているようで、特にアリエは自身の不甲斐なさに苛立ちを隠せなかった。
「ハマコ! 乙女技はいつになったら使えるようになるのですか!」
「お、思った以上に体力の消耗が激しいから、時間がかかるかも……」
「何か手はないのですか!?」
「落ち着いて下さい、アリエさん。このような時こそ冷静になるべきです」
「そ、そうですよぉ……。大きな声を出しては破魔子ちゃんが可哀想です」
「……っ!」
アリエをなだめる五八千子と天女であったが、彼女の窮地に焦る気持ちを理解し危機感を募らせているのは二人も同じだ。それだけ状況は悪い。この窮地をどうにか打開したいと皆が必死に考えている。
光子の体に“呪縛”の黒い影が引っ付いた。体が呪いに蝕まれ力がうまく出せない。そして白巫女はこの好機を見逃さず、すかさず掌に膨大な冥氣を集結させた。先程のレーザーよりも強い攻撃であることは明白だった。
「あなた! 耐えて!」
(ああ、任せてくれ)
避けることはできず真正面から受けるしかない。光子は背後の破魔子達をかばうように傘を突き出した。
来る……!
光子は身構えたが白巫女の攻撃は来なかった。代わりに遥か悠久の昔に嫌と言うほど味わった忌々しいケガレを全身に感じた。
(こ、これは!?)
「まさか……!」
“呪縛”の異界であっても届くほど強烈なケガレは忘れたくても忘れられない“堕ちた神”の物だ。光子は信じたくなかったが体は覚えており芯から震えだした。
「ああ……カミヒトさん……。間に合わなかったの?」
(不味いね……)
光子は天を仰いだ。その表情は強張っており恐怖と諦念がにじみ出ていた。破魔子達4人はいきなり襲ってきたケガレに声も出せず固まっている。それは白巫女も同様でケガレの方向を驚き怯えた表情で凝視していた。ただ1人“呪縛”だけは愉悦に顔を綻ばせていた。
「ハハハハハハ!! ツイニ……ツイニ成ッタゾ! 長年ノ悲願、“エバ”ノ復活ダ! コレデ、コノ憎キ世界ハ終ワリダ! ハハハハハハ!」
光子は“呪縛”を睨んだ。しかし震えて体が動かない。破魔子はへたり込み目には涙を湛えていた。アリエの心は折れ、天女は何時でもハツラツとした陽気な雰囲気は消え、萎んだように絶望していた。それほどまでにこのケガレは邪悪で強力だった。
白巫女は怯えの中にわずかに怒気を孕んでおり、強く拳を握って半ばやけくそ気味に“呪縛”に向かっていった。
「お前を食べれば! あんなのに負けないもん!!」
「ハハハ! 虫ガ図ニ乗ルナ。貴様ヲ喰ラッテヤロウ。サレバ、“エバ”ニ合流シ、サラナル高ミヘ……!」
“呪縛”と白巫女が激突した。光子はそれをぼんやり眺めていた。
(光子! 諦めてはならない! まだ勝負はついていない!)
光子はだらりと腕を下げ俯いていた。
(光子!)
光子は甲子椒林傘の言葉にも何も反応しなかった。涙がポツリポツリと地面に落ちる。破魔子もアリエも天女も呆然とした様子で動かなかった。しかし皆が絶望の渦にいる中、五八千子だけは希望を捨てていなかった。
「まだです! まだ私達の未来は終わってない! 皆さん、白巫女に加勢して下さい! “呪縛”を“えば”の下に向かわせてはなりません!」
「ヤチコちゃん……」
五八千子は声を振り絞って叫んだ。
「ここで諦めては本当にこの世界は終わってしまいます! どうか、皆さん立って下さい! 立って戦って下さい! カミヒトさんが必ず救ってくれます! だからお願いします! 諦めないで!!」
(ああ……なんて事や。カミヒト君は間に合わんかったんか……)
灼然は囚われていた。“堕ちた神”の核の気配を察知し、今まで慎重にその居場所を探ろうとしていたが罠にかかり捕まってしまった。
(しくじった。深追いなんかするんやなかった。肝心なときに動けへんなんて、何をやっとるんや僕は……)
“堕ちた神”が復活した。灼然はこれまでになく焦っていたが、彼の霊体は完全に捕縛され霊能力が全く使えずにいた。
「“憎悪”……!」
憎々しげに自身を捕らえた核の名を叫ぶ。灼然は“憎悪”の中に囚われているため、この核の感情が直接伝わってきた。歓喜、嘲り、高揚、陶酔感。それらが灼然を苛立たせた。同時に自分の無力さが憎かった。
(カミヒト君……)
希望はほとんど絶たれたが、灼然はすがる思いで祈った。