第61話 最悪の再来①
「縁雅一刀流奥義! 縁断ち!」
縁雅千代は最後の力を振り絞って刀を振り下ろした。千代の前に空間の亀裂が入り“絶望”との縁が絶たれた。
“絶望”は骨と皮と一房の髪しかない顔面を半透明な膜に押し付ける。校舎よりも大きな体、蜘蛛のように4つの手と4つの足で四つん這いになり、妊婦のような腹を抱えている化け物。この異形な怪物が眼前に迫っていた。
「はあはあはあ……」
「ちっ……小僧達はまだか」
奥義をもう4度撃った千代には力は残されていなかった。三度の縁雅の奥義はことごとく破られ、“絶望”の想像以上のパワーにハクダは悪態をついた。
「これが破られたらもう私達にコレに対抗する力は残されていないよ。全く、あの小僧は肝心なときに遅れるねえ」
「死神さん。あの憎きジンカイ様の敵を殺すにはどうすれば良いのでしょう?」
「無理ダ。ワレワレ、ノ、チカラデハ、倒セナイ。アノ者タチノ、帰還ヲ、待ツシカナイ」
「ああ……敵が目の前にいるというのに、何もできない無能な眷属をお許し下さい……」
那蛾は天を仰ぎ今はなき自身の祭神に懺悔した。少しくらいなら役に立つつもりでいた那蛾であったが、“絶望”は底なしの陰の氣の塊であり自分などこれに比べたら羽虫未満であると、彼我の力の差を嘆かずにはいられなかった。
「おい、古の神。アレがここの亡者共を喰らえばどうなる?」
「決マッテイル。モトノ、スガタニ……“堕チタ神”ニ成ル」
“堕ちた神”の復活を前にしてハクダは焦りを隠せなかった。アレが蘇れば世界が終わる。それは縁雅家の滅亡も意味する。ハクダは自身の眷属の滅亡をなによりも恐れていた。
「……小僧、早くこい……」
「シカシ、ヤハリ、オカシイ。ナゼ、急グ?」
「どういう意味だい?」
「“堕チタ神”ニ成ルニハ、成ルガ……陰の氣ガ、ギリギリダ。ラシク、ナイ」
「そんなことはどうでもいい! ヤツが復活すれば全てが終わりになるんだぞ!」
「……ハクダ様」
初めてハクダの激昂した姿を見て千代は“堕ちた神”がどれほど強いのか想像もしたくなかった。目の前にいる“絶望”すら相対するのがやっとなほどその存在が強大だというのに。
「アノ者ノ、存在ヲ、恐レテイルノカ……」
「その肝心の小僧は大遅刻だけどね」
千代がつくった結界にヒビが入った。“絶望”はその顔をグイグイと押し付けるとヒビがクモの巣状に広がり、やがて結界全体にまで及んだ。
「もう……限界です……」
結界が音を立てて崩れる。“絶望”が大きく口を開け校舎ごと千代達を飲み込もうと迫った。
「蝶蛆蛾蛾」
那蛾の手から無数の羽の生えた虫が解き放たれる。陽の氣でできた虫は群れをなして突っ込むが、“絶望”に触れることなくこの怪物が纏う陰の氣に触れ消えた。
「……っ!」
今持てる那蛾の全ての力を使っても“絶望”には何らダメージを与えることはできなかった。それほど相手は強大である。窓全面には“絶望”の口腔が広がり今にも全てを飲み込まんとしている。
「レディ達! さあ私の体を掴んで!」
カミヒトの眷属であるオシラキマンがそう言うと千代達の手を自身の体に触れさせた。その瞬間、まるで床が水になったかのように下へ沈んでゆく。千代達の視界が一瞬暗くなり落下感を覚えたかと思えば、すぐに地面に着地した。視界の先には“絶望”が校舎を食べているのが見えた。
千代の周りには全員揃っており、どうやら校庭に移動したらしくカミヒトの眷属によって難を逃れることができた。
「ありがとうございます」
「なに、礼には及ばないよ。お役に立てて何よりだ」
「しかし、状況は何一つ良くなっていないよ」
校舎から亡者達の悲鳴が上がる。“絶望”はケガレに満ちた校舎ごと亡者を喰らっていた。
「このままでは……」
――“堕ちた神”が蘇る
千代は最後まで言葉をつなげられなかった。大厄災の復活を黙って見ているしかできない。千代の胸には絶望が渦巻いていた。いや、千代だけではなく那蛾もハクダも古の神でさえも同じだ。ただオシラキマン1人だけが希望を捨てていなかった。
“絶望”が校舎を全て飲み込むと2本の足でゆっくりと立ち上がり天を仰いだ。その目からは血の涙がでている。口を大きく開けると奈落全体に響き渡るほどの咆哮を上げた。鼓膜が破れるほどの大音量に千代達は耳を塞ぐ。その叫びは歓喜の声とも悲鳴とも何とも言えない感情を含んでいるようだった。
“絶望”の頭部がサラサラと砂のように宙に溶けていく。顔、腕、背骨、骨盤、足と“絶望”の体が消えていく。異様に膨らんだ腹だけを残して。
腹部以外の体が全て細かい粒子となって消えると、脈打つ丸い腹が落下した。千代の目にはそれがゆっくり落ちていくように見えた。胎児を包んでいるような腹が地面に触れたとき爆発が起こった。
「きゃあああ!」
まるで爆弾でも落ちたかのような衝撃に千代達は吹き飛ばされる。巨人に殴られたような強い打撃を全身に感じた。目も開けることができず体の平衡感覚はなくなり体の自由がないまま飛ばされる感覚しかない。
弧を描く浮遊感を感じると背中に強い衝撃を受けた。息ができない。千代は何とか呼吸を整え立ち上がり周りを見渡せば、鬱蒼と茂った森がどこまでも続いていた。
「ここは……?」
「どうやら呪須津の敷地内のようです。現世に戻ってきたのでしょう」
千代達の周りには岩や土が散乱している。爆発で奈落が崩壊し、その入口があった瓦落多窟の残骸のようであった。二人は“絶望”の姿を探すがどこにも見当たらない。
「那蛾!」
千代が現状を把握しようとしていると、後ろから声がした。振り返ると呪須津家の当主で那蛾の祖父である屎泥処が幾人かのお供を連れて走ってきた。
「無事だったか! これは一体どういうことだ!?」
「お祖父様……」
爆発音を聞きつけ続々と呪須津の家人たちがやってくる。那蛾は俯き恥じ入るような顔を見せた。
「申し訳ありません。ジンカイ様の犠牲を無駄に……」「上に何かいます!」
千代が叫んだ。その声にみな上を向くと上空に浮かぶ人影を見た。そこには黒い着物を着た女がいた。千代は困惑する。あれが“絶望”から出てきたモノか……。
遠くに離れているので顔は見えないが、見た目は自分たちと同じ普通の人間のように思えた。巨大な化け物とは打って変わってただの人のようになっていた。
「ハ、ハクダ様……あれがそうなんでしょうか?」
千代が尋ねるとハクダは彼女を守るように巻きついた。白く大きな体は震えている。
「ハクダ様?」
ハクダは戦慄き見たこともないほど険しい顔をしていた。
「“えば”……!」
宙に浮かぶ黒い着物の女が手を上げた。次の瞬間、凄まじいケガレが女から発せられた。掌の上には膨大なケガレでできた巨大な玉が浮いている。女が手を振り落とすと黒い球体が地面に向かって勢いよく落下した。
「まずい!」
ハクダはこの場にいる全員に結界を張る。黒い玉が地面に触れると弾けるようにケガレが飛び散った。濃く死の気配がするケガレが濁流のごとく渦巻く。ハクダの結界があっても濃密な死の空気に包まれる感覚がして、全員体が硬直し心は恐怖に満ちた。
千代は目をつむり丸まって震えていた。辺りのケガレが薄くなったのを感じると恐る恐る目を開ける。千代は眼前に広がる景色に絶句した。
鬱蒼と呪須津家本邸を囲んでいた森は全て灰になっていた。まるで山火事があったかのように全てが灰燼に帰している。この灰色の世界は視線の及ぶ遥か先まで続いていた。
カチカチと歯が鳴り震える体を抑えられない。今まで見たこともない強大すぎるケガレに千代の思考は停止し震えることしかできなかった。千代だけでなく那蛾も屎泥処も他の呪須津家の家人も同様だ。
「はあはあ……千代……」
千代は黒い和服の女に釘付けになった。女はゆっくり地面に降りてくる。
「千代!」
視線をそらしたいのにできない。金縛りにあったように千代の体は動かなかった。
「千代!!」
「は、はい!」
「今すぐ私の本体を呼べ! その後はすぐにここから離れるんだ!」
「しょ、承知しました」
千代はハクダの喝により体が動くようになり、慌てて刀を地面に突き刺した。地面に八卦の文様が浮かび上がる。
「天津御空照らす日の御前に、
縁の糸を紡ぎし我らが祖の御業、
千代が声、風を渡りて参上らせ奉る。
白き鱗まといし結の大神よ、
喜びの縁を結び、禍の縁を解き、
清けき水の道より、今ここに姿を現したまえ。
八重垣巡らし、悪しき結びを絶ち、まことの結びを固めたまえ。
恭しく請い願い奉る。縁雅一刀流 真奥、蛇神招来」
祝詞が終わると八卦の門が広がり白光が輝く。静謐な霧が流れ神氣が充満する。霧の中には大きな影が一つ。そこには縁結びの神ハクダが鎮座していた。
「千代、それからジンカイの眷属共よく聞きな。すぐにここから離れ他の五家と零源にこの状況をすぐに伝えるんだ。奴が復活した以上もう“堕ちた神”の呪いは必要なくなり消えたはずだからね」
「あの……恐れながら申し上げます。それは一体どういった意味で?」
「時間がない。お前の孫娘に聞け。その小娘はジンカイから事情を聞いて知っている。千代、お前は零源の巫女のところに行け。灼然を呼び指示を仰ぐんだ。まあ、あの小僧のことだからすでこちらに向かっているとは思うが」
千代は震える体を抱え小さく頷いた。
「それから一番大事なことを言うよ。もし私が敗れ奴に追いつかれたら自害するんだ。姿が見えてからでは遅い。気配を感じたらすぐに死ね。アレに囚われれば死してなお永劫の苦しみを受けることになる」
誰も彼も二の句が告げなかった。ややあって千代が絞り出すように返事をした。
「…………はい」
「すぐに行け! 小僧の眷属よ、任せたぞ」
「仰せのままに」
「那蛾さん、行きますよ。立てますか?」
千代はずっとへたり込み震えていた那蛾に手を差し伸べた。彼女の怯える顔は初めて見る。きっと自分もこのような顔をしているのだろうと思った。
“堕ちた神”が着地した。ハクダはこの大厄災に面と向かって退治する。象でも一口で丸呑みできそうなほど堂々たる巨躯の蛇神が睨んだ。
「久しぶりだねえ、“えば”」
「……」
「どうしたんだい、さっきから黙り込んで。まさかこのハクダを忘れたわけじゃないだろうね?」
「……」
“堕ちた神”は黙ってハクダに右手の掌を向けた。
「ふん……私とは何も話すことはないと言うんだね。不敬なやつだ。この私が眼中にないとはな。白鱗天縁大神ハクダ様を舐めるなよ!」