第60話 冥霊山②
「こんなときに意地を張ってどうするの。僕が支えるから」
「必要、ないと……言っている!」
今度は力強く僕の手を払った。プライドが高く人に頼ることを知らないとは思っていたが、まさかここまで筋金入りだとは予想外だ。そんなに人に頼ることが嫌なのか。それとも僕がただ嫌われているだけなのだろうか。少しずつ心を開いてくれていると思っていたんだけど。
僕は鷹司君から数歩離れたところで彼の後について行った。なにかあったとき後ろからすぐ助けに入れるようにするためだ。付かず離れず一定の距離を保つ。そして僕達二人は何とか急斜面を登ると元の登山道に戻ってきた。登山の再開だ。
二人とも無言で歩く。喉はカラカラだが暑さがない分だけさっきよりずっとマシだ。ただ毒に侵された鷹司君はすごく辛そうだ。よろめきながら歩く鷹司君をハラハラとしながら見守っていると、急に空腹を覚えた。呪須津家で盛大にリバースしてしまってお腹の中がスッカラカンだからな。
最初はあまり気にしなかったのだが、この空腹感がどんどん強くなり、やがて無視できないほどの苦痛を覚えるようになった。お腹と背中がくっつくどころではない。今までにない食べ物への渇望と飢えの苦しみを感じる。まさか、これも罰の一部か。ならば当然彼も……。
案の定、鷹司君もお腹を抱えて苦しそうにしていた。しかも体の線が細くなっている気がする。いや、実際に細くなっていた。長身で細身だが筋肉質の体は、今は一回りほど細くなっていた。毒の次は飢餓か。厄介だな。
そう考えていたらどこから甘い匂いがしてきた。反射的に周辺を見回す。すると少し先に美味しそうな柿がなっている木を発見した。柿だけではない。水々しい果物がそこかしこにあった。桃やぶどう、梨、りんご、びわ、栗……。僕達が求めていた物がそこにあった。
鷹司君は脱兎のごとく果物の方へ駆けていった。僕は急いで彼の後を追った。鷹司君が柿をもぎ取ろうとしたが、僕が後ろから羽交い締めにする。
「離せ!」
「ダメだ! あれもきっと毒だ! 食べたら今度こそ死んでしまうかもしれないよ!」
こう言ってみたものの僕自身も目の前の果実を貪りたくて仕方なかった。空腹と渇きを同時に癒せる果物が今の僕には天上の食べ物のように感じられた。だけど、なけなしの理性がそれを否定する。すんでのところで思いとどまることができた。
鷹司君を果物の群生地から引き離す。彼はものすごい抵抗したが、毒に侵されガリガリになった体では僕にすら力では勝てない。果樹園が見えなくなり匂いが届かないところまで来ると、やっと彼は正気を取り戻した。
「醜態を、さらした……。恩にきる……」
僕達は再び登り始めた。道中、何度もきれいな水や果物が僕達を誘惑してきて、その度に僕は欲を抑えながら暴走する鷹司君を制止した。秋が深まった見事な紅葉を楽しむ余裕もない。お互い心身ともに疲れ果てて、ようやく3つ目の鳥居が見えた。鳥居は下2つの物と同様半分朽ちていた。さて、この先にはどのような試練があるのか。早くこの苦痛から解放されたくて僕と鷹司君は急いで鳥居の先へ進んだ。
するとまたもや景色が一変した。辺り一面は白一色だった。数メートル先が見えないほどの猛吹雪。肌を刺す凍てつく風。予想通りそこは冬景色だった。
――己の業を省みよ――
響いてきた声は夏の試練と秋の試練のときの声と同じだ。なんだか古の神の声に似ている気がするな。ただ今はそんなことどうでもいい。身も心も凍ってしまいそうな冷気に体が固まり思考が鈍くなる。こんな厳しい寒さじゃ鷹司君は耐えられないぞ。僕だってあやしい。
そして思った通り鷹司君がその場に倒れた。見るからに限界を超えている彼にこの冬山を超える力は残っていない。僕は彼の腕を自分の肩に回し立ち上がった。鷹司君の体は氷の塊かと思うほど冷たい。心臓がキュッとなる。
「はな……せ……」
僕は無視して鷹司君の体を支え歩き出した。何を言われても離さないつもりだ。というか僕の皮膚が彼の体と凍着しているため、無理に引き離そうとしたら皮膚がべりっといってしまう。つまりこの雪山を超えるまで僕と鷹司君は一心同体一蓮托生だ。
鷹司君は抵抗する気力もないようで黙って僕に支えられていた。先の見えない吹雪の中をゆっくり歩む。手足の指はかじかんですでに痛み以外の感覚はない。呼吸をするたび冷気が気管支を刺激する。鼻も凍ってもげそうだ。薄着なものだから肌の裂傷もきつい。
それでも進むしかない。この先に“春”が来ることを信じて。亀のような歩みだが立ち止まらなければきっと辿り着くはずだ。
「鷹司君、大丈夫? 眠ったらダメだよ」
「…………ああ」
よく雪山で遭難したら眠ってはいけないという。この眠気は低体温症が進むと現れ、眠ると更に体温が下がりそのまま心停止に至る。なので鷹司君の様子を見て声を掛けている。猛吹雪の中を突き進み、何度も何度も鷹司君が起きているか確認した。
「鷹司君、起きてる?」
「…………」
「鷹司君?」
「…………起きている」
「そう、良かった。返事がないから心配したよ」
「……昔を思い出していた」
「昔?」
彼の顔を見ればこんな極寒の最中にいるのにどこか懐かしむような表情をしていた。
「何を思い出していたの? できれば聞かせてほしいな」
「……」
返事は返ってこない。会話をすれば眠気もごまかせると思ったのだが、鷹司君は口をつぐんできた。プライベートなことは話したくないんだろう。僕は黙ってただ吹雪の中を進んだ。
「……まだ俺が幼い頃、兄におぶってもらったことを思い出した」
やや間があってから鷹司君が話しだした。どうやら会話を続行してくれるようだ。
「……詳しくは思い出せないが、確か俺が怪我をして兄に家まで運んでもらったような気がする」
「そう……。お兄さんはどんな人だったの?」
「優しくて穏やかで……争いごとの苦手な人だったな」
「確かお姉さんもいるんだよね? お姉さんも優しかったの?」
「いや、姉は、暴君そのものだ。いじめられた記憶しかないな……」
高圧的で隙のない鷹司君がいじめられていたなんて、今のイメージとは違ってなんだかおかしいな。こんな状況だというのに少し心が軽やかになった気がする。彼が自分の弱みをさらして、ほんのちょっとだけど心を開いてくれたのが嬉しい。
「……何がおかしい?」
「いや、何でもないよ」
「……」
「……」
深々と雪が止めどもなく降ってくる。そういえばいつの間にか風が弱くなったな。どこまでも深い白が美しい。相変わらず体はきついけど、ほんのちょこっと雪景色を楽しむ余裕がでてきた。しばしの無言の後、おもむろに鷹司君が口を開いた。
「……貴様に伝えたいことがある」
「どうしたの? 改まって」
「一昨日、嶽一族がある重大な方針を立てたと言ったな……」
「そういえば、そんなこと言っていたね」
魔境神社に着いて二日目に鷹司君が僕の力がみたいとかいった理由で、彼と一緒に霊管の案件をこなしに行ったときのことだ。最後の案件をこなした帰り際にそのような会話になったんだっけ。
「それがどうかした?」
「鬼神様は全ての妖かしを滅せよと親父に命令したらしい。理由は分からないが嶽一族では鬼神様の命は絶対だ。故に嶽一族は今後、妖かし討伐に全力を尽くすことになる」
「そうなんだ。じゃあ、鷹司君はこれから忙しくなるんだね」
「最初は人に仇名す妖かしを主として討伐するが、後々善良な妖かしも殺すことになるだろう。無論、蓬莱天女もだ」
「えっ?」
天女ちゃんという予想外の名前が出たことで僕は驚いてしまった。全ての妖かしってまさか本当に全てだとは思わないだろう。仮にも菩薩院家や縁雅家と並ぶ御三家の一角である嶽一族であるならば、当然有害な妖怪に限定するだろうと無意識のうちに解釈したからだ。
「……だから君は迷ってるって言ったんだね。それが本当に正しいかわからないから」
「そうだ」
「ありがとう教えてくれて。でもそれって部外者に話したらダメなやつだよね? 僕に言っちゃって君は大丈夫なの?」
「最重要機密だからな。バレたら当然ただでは済まない。よくて監禁と折檻、最悪の場合、鬼神様に食われるかもな。それでも貴様には伝えておきたかった」
「そっか……。じゃあ、嶽の人たちにバレないように対策を考えないとね」
「そうしてもらえると助かる……」
嶽一族の企ては重大な懸念事項であり決して看過できないが、事前に彼らの計画を知れたのは僥倖だった。鷹司君に感謝しないとな。
雪の山道を突き進む。鷹司君はもうしゃべる力すらないようでほとんど彼の体重が僕にかかっている。もう限界が近い。ゴールはまだか……。
もうどれほど登ったのか分からない。僕の体力と気力もほとんど尽きかけたとき、数百メートル先にやっと例の鳥居が見えた。
「鷹司君、あとちょっとだよ」
最後の気力を振り絞り鳥居まで鷹司君を担いで登る。鳥居の目の前まで来たとき清々しほどの達成感を覚えた。振り返ると雪は止んでいて眼下には白銀の世界が広がっていた。雲間から陽光が漏れ出しキラキラと雪を照らしている。思わず見とれてしまうほどの美しさだ。
「……きれいな、ものだ、な……。今ままで、ここを登ってきた、亡者共も、この景色に、感嘆したのだろうな」
「うん、そうだね」
もっと眺めていたかったが僕も鷹司君も限界だった。名残惜しいが早くこの場から脱出したい。僕は最後の力を振り絞り鳥居を越えた。瞬間、温かな日差しが体を溶かし体の苦痛が一切合切吹き飛んだ。喉の渇きも凍傷の痛みも空腹もなくなり、むしろ心身ともに活力がみなぎるのを感じる。
蝶が舞い花が咲き乱れ小鳥のさえずりが耳に心地良いそこは春爛漫の楽園のようだった。隣を見れば鷹司君は痩せほろり衰弱していたのが嘘のように堂々と溌剌として立っている。
――罪は消えた。しばし楽園を楽しめ――
どこからともなく聞こえてきた例の声は穏やかに言った。