第53話 6階
「ではあの暴れん坊が下へ向かっているというのだね?」
「ええ、鷹司さんの命により1階の救済室に向かいました」
「あの鬼ではあまり期待はできないね。嶽の小僧は御しきれていないようだし、ちゃんと言う事を聞くか怪しいものだね」
「……私は鷹司さんの鬼を見たことがないのですが、どのような姿なのでしょう?」
「それはそれは身の毛がよだつような恐ろしい風貌でした。大きな身体に鋭い牙。鬼の象徴の立派な角が2本生えていて、人の身体より大きな刀を両手に携えていました。見た目だけでなくその強さも圧倒的でした。私が苦戦している5階の亡者も、まるで豆腐を切るように切り刻んでいましたよ」
那蛾はそう言うと、自分達に突進してきたナタを持った亡者の動きを止める。亡者は全身が赤く爛れて床にのたうち回った。このように病魔に侵され動けなくなった亡者達は那蛾が進んできた道に大量に転がっている。
千代はなるべく鼻で息をしないようにしながら那蛾の少し後ろを歩く。本当はもっと離れたかったが、ハクダが那蛾と会話をするためには距離を取りすぎるわけにはいかない。嗅覚を使わないように慎重に呼吸をして進んでいると、モヤの中から6階へ続く階段が現れた。
「やっと見つかりましたね。6階を超えたら屋上です。気を引き締めて参りましょう」
「ええ。5階の亡者よりも強い化け物の巣窟ですからね。私の力もどこまで通じるか分かりません」
「さて、上へ上る前に確認するけど、本当に嶽の小僧を助けに行くのかい?」
「……ハクダ様は反対なのですか?」
「屋上を目指すことを優先するべきだ。あの小僧も命をかけているはずだから見捨てたところで恨みはしないだろう」
「…………」
「ハクダ様一つよろしいですか?」
「なんだい?」
「私は嶽一族の鬼のことはよく知らないのですが、仮に鷹司さんが死んでしまった場合は鏖鬼とかいう鬼はどうなるのでしょう?」
「主人が死ねばその隷属鬼も現世にはとどまっていられないね。まあ、奈落は特殊な異界であるからどうなるか分からないが、鬼神の首輪はなくならないだろうから暴れん坊が自由になることはないだろう」
那蛾は何か考えているようにうつむいた。少ししてから思案げな顔を上げるとハクダに言った。
「ではやはり鷹司さんを助けに行くべきではないですか? 現状、我々では救済室より先に行く手立てがありません。あの鬼に頼る他ないのでは?」
「ええ、私もそう思います」
那蛾の言葉に千代は同意した。ハクダはそんな自身の巫女を見てため息をついた。
「お前は優しいからねえ、千代。しかし時には非情な決断を迫られることもあるよ。その優しさは優柔不断な甘さとも言える。縁雅の巫女であるならば目的を遂行するためにどんな犠牲も厭わない強靭な意志が必要だ」
「ですが……」
「だが呪須津の娘の言うことも一理ある。そこで折衷案だ。私が小僧の気配を辿ってみよう。私が力を使えばアレに気づかれる可能性は高まるが仕方がない。やってやろう。だがもしその道中で屋上への道が見つかれば、小僧は見捨ててそっちへ行くよ。異論は許さない」
「はい」
「うふふ、決まりましたね。それでは、そのような方針で参りましょう」
千代と那蛾は階段に足を踏み出した。しっかりとした足取りで慎重に登っていく。折り返しの踊り場を曲がり上を見上げた。ゆっくりゆっくり一歩ずつ進む。二人はあと一段というところまで進むとその場で止まった。
「ここだけ木造ですね……」
「ええ。不気味な感じが素敵です。荒れ果てたところが実家に似ています。おばけが出そうな雰囲気が良いですね」
6階は何十年も放置されたように朽ちてボロボロだった。窓は割れ床は腐り埃っぽかった。千代と那蛾はお互いの顔を見合わせると、最後の階段を上がった。
「バア!」
「っ!?」
6階に踏み込んだとたんに宙吊りの女らしきモノが突然二人の目の前に現れた。女は耳まで裂けた口をめいいっぱい広げて笑っている。大きな右目と小さな左目はいずれも濁っていてアンバランスな顔のパーツの配置が殊更不気味であった。
女は灰色の異様に長い腕を伸ばすと那蛾の首を掴んだ。
「あら……いきなり、ですね」
自身の首を締める化け物の腕を掴むと、那蛾はありったけの細菌を送り込んだ。カサカサのしわがれた腕にポツポツと水疱ができる。水疱は大きくなり全身に広がった。それでも女の化け物は全く意に返さずニタニタと笑っている。
5階の亡者であればすでに再起不能になっているが、首にかけられる力は弱まるどころか強くなっていた。那蛾のつま先が地面から離れた。
「……っ!」
体を持ち上げられ息ができなく足を前後にジタバタとさせる。化け物にできた水疱は破け肉が剥き出しになったが力は弱まらない。痛覚を倍増させているので本来なら痛みでのたうち回るはずなのだが、化け物が苦しんでいる様子はない。
那蛾の意識が遠のき気を失いそうになったとき、急に首が楽になり重力が戻ったかのようにストンと地面に落ちた。那蛾はその場で膝をつき荒く息をした。
「大丈夫ですか?」
いつの間にか千代が化け物の背後に回り刀を突き刺していた。女の体は硬直しており、全身を薄っすらと白く細長い何かが雁字搦めにしていた。
「ええ、助かりました……」
那蛾は立ち上がると涼しい声色で答えた。だがどことなく覇気がなく疲労しているようだった。
「千代」
「はい」
ハクダが見据える先、薄暗い木造の廊下から次々に異形の化け物が現れた。天井を這うトカゲのような人間、ズルズルと地面に蠢く肉の塊、浮かんでいる顔と脊髄だけの男、体中目玉だらけのワンピースを着た女。明らかに敵意を持った化け物が千代達にゆっくりと近づいてくる。
千代は化け物をまっすぐ見据え刀を床に突き刺した。
「呼び覚ますは白蛇の肝、捧げるは縁雅の命脈。縁雅一刀流『神降ろし』!」
刀の刀身が白く輝いた。同時に千代の体も白く高貴なオーラに包まれる。
「ゲゲゲ!」
トカゲ人間が天井から飛び降り千代に襲いかかる。千代は真正面から襲い来る化け物を斬り捨てた。白い刀身が体を透過する。トカゲ人間に傷はついていなかったが、ピクリとも動かずその場に倒れ伏した。
「ア゛ア゛ア゛!」
飛びかかってくる化け物達を千代は華麗な体捌きで躱し、まるで舞うように化け物達を斬る。斬られた化け物はトカゲ人間同様に倒れ動かなくなった。
千代はふぅと一息ついた。その気が緩んだ一瞬の間に、彼女の足首を何かが掴んだ。
「……っ!」
千代の周りを床から出た無数の手が囲んでいた。紫に変色している手は次々に千代の足を掴むと下へ引っ張り込む。千代の左足がまるで沼に嵌まったかのように床に沈んでいく。
「……このっ!」
刀を突き立てようとするが腕を掴まれた。全身に手が這いずり身動きが取れなくなる。ゆっくりと下へ引き込まれ膝まで床に埋まった。
「おいたはそこまでですよ」
那蛾の声が聞こえてきたかと思うと光り輝く蝶が千代を取り囲む。蝶は床から生えてきた手の化け物に群れると破裂するように弾けた。蝶に触れられた手は吹き飛び破片がポロポロと崩れていく。千代の周りでパチパチと花火のような閃光がきらめいた。
やがて手の化け物は腐葉土のような土塊となって千代の周囲に堆く積もった。
「大丈夫ですか? 千代さん」
「ええ、助かりました……」
千代は高く跳躍して那蛾の前に着地する。
「全く、こんな場所で油断するなんてどうかしてるよ。まだまだ鍛錬が足らないね」
体に巻き付いたハクダにちくりと苦言を呈されると千代はバツの悪そうな顔をした。千代は居心地の悪さを隠すように那蛾を見る。彼女の全身には陽の氣がみなぎっており、爛れて痛々しかった皮膚も少しづつ元に戻っていた。
「陽の氣も使えたんですね」
「あまり好きではないんですけれどねえ。ジンカイ様の力と反するので使いたくはないのですが、疲労の溜まった今の私では陰の氣で陰の氣を力ずくで抑え込むことはできませんでしたから」
「そっちの方がいいと思いますよ」
千代は陽の氣によって完全に肌が癒えた那蛾にそう言った。千代としてはおどろおどろしい姿となって臭気をばら撒かれるより、自身と同じ陽の氣をたぎらせている今の那蛾の方がずっと好ましかった。これから先、ずっとそのままでいてほしい。そうしたら友達になってもいいかもと思った。
「もちろん、ここでは陽の氣で戦うことにします。ご安心下さい」
那蛾は千代の心中を見透かしたかのようにニヤリと笑った。千代はドキリとして再びきまりの悪い顔をした。
「おしゃべりはそこまでだよ。ほら、そこの丁字路を右に行くんだ」
千代たちの数メートル先は突き当りであり、左右に廊下が伸びていた。ハクダに促されるまま二人は早足で進む。右に曲がるとすぐに別の化け物と遭遇した。
細長い体に不釣り合いなでっぷりとした腹で頭は3つある。顔は目と口のあたりに空洞があるだけだ。それぞれの表情が怒り、悲しみ、笑いを表しているようだった。
「化け物だらけですねえ」
「下の亡者の数よりマシですよ」
千代は一気に距離を縮めると三顔の化け物に刀を下から振り上げる。化け物の首が伸びたかと思うと上右左の3方向から千代に襲いかかった。しかし大きく開けた口が千代を噛む前に光の蝶が化け物の顔を爆撃する。そのまま千代の刀が胴体を切り上げた。
「なかなか良い支援をするね」
「ありがとうございます。うふふ。千代さん、私達良いコンビになれそうですね」
千代は引きつった顔が見えないように那蛾に背を向けた。そこで化け物の気配に気がついた。
「……挟まれてしまいましたね」
「そのようですね」
前に3体、後ろに2体の化け物が恨めしそうに殺意のこもった目で千代と那蛾を見ていた。両側からジリジリと距離を詰める。
「正面突破します。那蛾さん、援護を頼みます」
千代は前の3体に向かって突進した。彼女の邪魔をしないように蝶が舞い化け物たちを襲撃する。千代は絶妙な那蛾のサポートを受け難なく3体の化け物をさばいた。
背後の2体は那蛾に襲いかかろうとしたが、ハクダの力を更に取り入れフィジカルにも優れる千代は一瞬で後ろに移動すると、残りの2体もあっという間に斬り倒した。
「お見事です」
「急ぎましょう」
二人は先へと急いで進んだ。6階はほぼ一本道であった下の階とは違い、迷路のように入り組んでいた。行く手を阻む化け物達を斬り捨てながらハクダの指示の下、鷹司の気配を追って進む。
どれほど時間が経ったか、ちょうど化け物を50体倒したところで両開きの扉の前に着いた。
「この先に小僧の気配がするね」
千代はそっと扉を開けるとそこは広い空間が広がっていた。入口から中を覗う。
「ここは……体育館ですか?」
「6階に体育館があるだなんて、奈落は面白いところですねえ」
高い天井、広い床、奥には舞台がある。一般的な学校の体育館だったが、薄暗く廃屋のように朽ちていて不気味だった。
「あっ!」
千代が声を上げる。体育館の中央に鷹司がいた。彼は3体の化け物に囲まれ、痛めつけられたのか体中が怪我でボロボロだった。下半身のない内臓が飛び出た化け物が今にもその大きな拳でトドメを刺そうとしていた。千代は体育館の中に入ると刀を上段に構えた。
「縁雅一刀流、『空破』!」
その場で刀を振り下ろすと距離の離れている化け物たちが短い悲鳴を上げ地に伏した。千代はほっと胸を撫で下ろしたがすぐに気を引き締める。
「間一髪でしたね」
千代と那蛾は鷹司の下へ急いで向かう。鷹司は痣だらけで骨が折れているのか所々赤く腫れていた。意識はないようでぐったりしていた。
「ハクダ様……」
「小僧を治す余分な力はないよ。アレの欠片と戦うため少しでも温存しなければならない」
「しかし、少しくらいは……」
「だめだ」
「では鷹司さんはどうしましょう? 奈落に安全な場所などありませんからこのまま見捨てるのは気が引けます。ええ、彼も私のお友達ですから」
「残念だが死にかけの足手まといに情をかける余裕はない。小僧はどこかに隠して私達は屋上を目指すよ」
千代がハクダに何か言おうとしたとき、突然全身に悪寒が走った。それは那蛾やハクダも同様で、3人は反射的に上を見た。
高い天井をほぼ埋め尽くすほど大きな目があった。目は一度瞬きをすると3人にじっと視線を注ぐ。あまりのプレッシャーに千代と那蛾は雷に打たれたかのように硬直した。
――ミツケタ――
どこからか声がしたかと思うと目は消えた。ザザーと体育館全体に響き渡るほど不快なノイズが走る。そのすぐ後しわがれた声の構内アナウンスが流れた。
――下僕ドモ、侵入者ヲ排除セヨ――
千代の頬にヒヤリと汗が流れる。短いアナウンスが終わると止まっていた時が動き出したように千代と那蛾は荒い息をした。
「……どうやら見つかってしまったようだね。全く、こんな死にかけの小僧のために力を使うんじゃなかったよ」
ハクダは忌々しげに天井を睨んだ。
「アレが……“絶望”……」
千代はぎゅっと拳を握る。震える体を抑えるため全身の筋肉に力をいれるが収まらない。ほんの少し“絶望”の片鱗を見ただけで体の芯を貫くような強烈な刺激を受けた。隣の那蛾も自分と似たような反応であった。
「……やはり、屋上に“絶望”がいるのでしょうか?」
「さてね。そんなことより今は目の前の敵に集中したほうがいい。ほら、来たよ」
どこから現れたのか、天井、窓、舞台、入口。千代達を囲むように無数の化け物たちがワラワラと湧き出てきた。
「まだこんなにいたとは……」
把握しきれないほどの数に千代は思わずたじろいだ。
「那蛾さん、サポートをお願いします!」
それでもやるしかないと千代は腹を括った。幸い、那蛾は陽の氣の扱いと状況判断を的確に下す能力に優れ、思った以上に彼女の力には助けられた。二人で協力すればなんとかなるかもしれない。
千代はそう思い那蛾の方を横目で見た。
「那蛾さん……?」
那蛾は膝を付きハアハアと苦しそうに息をしていた。どんなときでも常に涼し気な表情をしていた彼女だったが、とっくに限界を迎えていたようだった。
「もう、しわけ、ありません……。どうやら体力の限界のようです。不甲斐ない……」
大粒の汗が額ににじみ出る。両腕をつき四つん這いになって今にも倒れ伏しそうだった。
まさかここまで那蛾が消耗していたとは思わなかった千代はぎゅっと唇を噛んだ。那蛾がこうなった以上、この状況を1人で打破しなくてはならない。手負いの鷹司と那蛾をかばいながらこの化け物の群れを制圧するには、すべての力を解放するしかない。
しかしこの力は“絶望”を倒すため取っておかなくてはならない。“絶望”はほんの一部しか姿を見せていないのに、あれほどおぞましく強力なプレッシャーを放っていた。全身全霊をかけて臨まなくてはすぐに殺されるだろう。
だが、力を温存した状態でこの苦境を打ち破れるとも思わない。千代がどうすればいいかと逡巡しているうちに化け物たちは四方から一斉に襲いかかってきた。
「千代!」
迷っている内に動きが遅れた。慌てて刀を構えるが間に合わない。化け物の軍団が彼女たちに肉薄する。先頭の化け物の指が千代の鼻先に触れたとき、黒い閃光が渦巻いた。
瞬間、化け物の群れが吹き飛んだ。千代たちの周りを高速旋回する黒い何かは、速度を下げると彼女たちの前に降り立った。
「死神!?」
ケガレにまみれ人の形をなしたそれは5階で見た死神だった。化け物よりも強くおぞましいケガレを放っているそれは、まるで彼女達を守るような動きをしていた。
「こんな時に!」
千代は咄嗟に死神の背に向け刀を構える。
「待て! 千代!」
「しかし!」
ハクダは千代の声を無視して死神の背中に語りかけた。
「お前を味方だと思っていいんだね?」
「……」
起き上がる化け物たちから死神は目を離さず右手に持った剣を構えていた。何も言わずただ彼女たちを守るように立っていた。
「千代、死神と共闘するんだ。多分こいつは神だ」
「しょ、承知しました」
有無を言わせないハクダの口調に気圧され、色々な疑問をよそに千代は言われたとおりにするしかなかった。