第48話 5階①
5階は空気が重かった。それだけでなく薄っすらとモヤがかかり暗い構内と相まって見通しがとても悪い。不気味さが更に増している。
例のごとく僕達が5階に踏み入れるとドアが一斉に開いた。しかし声も物音もせず静まり返っている。4階や3階では喧しく戸惑いや不安な声が上がったがここは全くの無音だ。
「静かですね」
「そうだね。ここは亡者の数が少ないのかな?」
この階の亡者は一番理性がないはずだから、もっと動物的に本能のみで動くものかと思っていたが、あまりにも静かで気味が悪い。
「かもしれませんね。とにかく急ぎましょう。ここも屋上へ行く通過点に過ぎないのですから」
僕と千代さんは天井を這ってモヤのかかった廊下を進んだ。
「このまま何事もなく屋上まで辿り着けるといいですね」
「そうだね」
僕達は小声で話しながらぼんやりと光る蛍光灯を頼りに歩く。視界は数メートル先しか見えない。音も動きもなくこの階はまるで時間が止まっているかのようだ。
「それにしても死神って何なんだろうね?」
「分かりません。しかし凄まじいケガレでした。アレも“堕ちた神”の一部なんでしょうか?」
千代さんが自分に巻き付くハクダ様に尋ねた。
「いや、恐らくヤツとは関係ないだろうね」
「アレは奈落のシステムの一部ではないのですか? 関係がないなら死神とは一体どういった存在なんでしょう?」
今度は僕が聞いた。ハクダ様は舌をチロチロ出しながら不機嫌そうに言った。
「そんなの私が知るわけないだろう」
「ハクダ様でも分からないんですか……」
悠久の時を生きる神様でも分からないのだ。ならばいくら考えても無駄であろう。ここでふと僕はあることに気がついた。ハッとして千代さんを見る。
「今、“堕ちた神”って……」
“堕ちた神”は自身を隠蔽するためにこの世界全体に呪いをかけている。“堕ちた神”に関する情報を言った者、聞いた者はこの呪いにより攻撃される。その力は強力であり到底人間に耐えられるものではない。
ハクダ様も僕に“堕ちた神”のことを伝えたがために全身を切り裂かれたし、奈落と“絶望”のことを教えてくれたジンカイさんはその存在が消滅してしまった。力のある神でもこうなのだから千代さんがそのことを知れるはずがない。
人間で“堕ちた神”認識できているのは僕以外には菩薩院桂花さんしかいない。灼然さんも当然ご存知だが、彼の肉体は滅び今は霊体だ。あと異世界では聖女様と竜頸傭兵団の面々か。
驚いてどう聞いたらいいのか迷っている僕にハクダ様はそっけなく言う。
「一人までなら私の力で“堕ちた神”の呪いを完全に遮断することができるんだよ。先代の巫女が死んでから私は千代を選んだのさ。新しい縁雅の巫女としてね」
「……なるほど」
居力無比な“堕ちた神”の呪いでも対抗手段がないわけではないのだな。それでも力のある神様が人間一人にしか呪いの効果を無効できないとは、やはり“堕ちた神”はとんでもなくヤバい奴だ。
とはいえ“堕ちた神”討伐のために千代さんの協力が得られるかもしれないというのは朗報じゃないか。
「呪須津の娘も恐らく知っているはずだよ。あの娘もジンカイに選ばれただろうからね」
……ならば那蛾さんは仲間入りは確定か。呪須津家はジンカイさんの敵討ちを望んでいるわけだし。きっと喜んで手助けしてくれるだろう。でもちょっと嫌だな。
「他の御三家にも千代さんや那蛾さんに該当する人がいるのでしょうか?」
「恐らくはね。菩薩院でいえば桂花がそうだね」
ということは桂花さんがアレを認知できたのは菩薩院家の家霊であるオシラキ様の力によるものか。では嶽一族ではだれなんだろう?
「あの、鷹司君ももしかして……」
「あの小僧は知らんだろう。奴にはそれほど強い鬼神の加護は感じられない」
「……そうですか」
鷹司君が“堕ちた神”を認知できてないのはちと残念だ。“絶望”以外にも“堕ちた神”の核は4つもある。すべての核との戦いは熾烈を極めるであろうから、信頼できる仲間は必須だ。
ただでさえ“堕ちた神”の存在を知っている人は少ないのに、鷹司君以外の嶽の人と共に力を合わせることができるか甚だ疑問だ。なんだかかんだで鷹司君は信頼ができるし、嶽一族の中では一番まともらしいから、嶽の誰かから助力が得られるのであれば彼がいいな。
そんなことを考えながら天井を進んでいるとふいに上から声をかけられた。
「ドウシテ、アナタ達ハ逆サマナノ?」
僕達の前に一人の女性がいた。いつの間にいたのか全く気が付かなかった。彼女は鶏ガラのように痩せさらばえ、ボサボサの長い髪を無造作に垂らしている。薄汚い白いワンピースを着ていた。見た目は完全にホラー映画にでてくる幽霊だ。
「ドウシテ、アナタ達ハ逆サマナノ?」
その目はまっすぐ僕達を捉えていた。まさか彼女には僕達が見えているというのか。千代さんを見れば驚いた顔をしている。どうやら彼女の姿を消す術はこの亡者には通用しないらしい。
「アナタ達ハ下ノ階カラ来タノヨネ?」
しかもこちらが何者かまで分かっている。これでは同じ階の住人のフリをするのもできないか。ならば5階では亡者との激突は避けられない。彼らとバトルになりそうな予感がするぞ。
僕は結界をブオンと展開した。と同時にフッと体が軽くなったかと思うと頭から真っ逆さまに落ちた。床に追突する寸前でフワッと体が反転してゆっくり着地した。上下逆さまの視界がもとに戻る。隣には千代さんがいた。どうやら彼女が葉隠という術を解いたらしい。
視界が正常になった僕は声をかけてきた亡者を見る。夏仕様のワンピースから見える体は骨と皮だけで病的である。奈落の亡者はほとんどみんな痩せていたが、彼女は輪をかけて酷かった。
「アナタ達ハ下ノ階カラ来タノヨネ?」
女の亡者はギョロッとした目で僕を見た。
「ええそうです」
とぼけたって無駄だから正直に答える。
「ナゼ、下カラ来タノ?」
「その前になぜ僕達が下から来たと分かったんですか?」
5階の亡者は4階よりも理性がなく凶暴なはずだ。僕は警戒を怠らず、でもできるだけ会話を試みることにした。
「カンタン。アナタ達ハワタシ達トハ違ウ」
そりゃそうか。ここの階の住人が皆彼女のように不気味な姿であったら、僕達との見た目の差はまるっきり違うだろう。それに僕達は亡者ではなく生身の人間だから、彼女は直感的に異物であると認識しているのかもしれない。
「ドアガ開クノハ、ワタシ達ガ下ノ階ニ強襲スルトキト、化ケ物カ死神ガ、オソイニ来ルトキダケ。ソレ以外ダト下ノ階カラ登ッテクル変ワリ者シカイナイ。アナタ達ハ化ケ物デモ死神デモワタシ達ノ仲間デモナイ。ダカラ下カラ来タト思ッタ」
「なるほど……」
やはり化け物と死神は明確に違う存在であるらしい。でも両者に共通することは2つとも亡者を襲うということだ。
「ナゼ、ココニ来タノ?」
「……屋上まで行きたいんです。もしよろしかったら上に続く階段まで案内してくれませんか?」
まあ、素直に案内してくれるとは思わないけど一応言ってみた。
女の亡者は僕の言葉を聞くと落ち窪んだ目を見開き大声で叫んだ。
「ダメ! 上ハ化ケ物ノ巣窟! 化ケ物ニ捕ラワレタラ永遠ニ奈落カラ出ラレナイ!」
女の亡者は結界にビタッと張り付いて真剣な剣幕だ。怖い。しかしなぜだろう。彼女は僕達を心配している様に見える。それから思ったよりも理性的で話がちゃんと通じるぞ。
「化け物とはどういったモノなんですか?」
千代さんが亡者に尋ねた。僕もそれすごく気になる。
「ワカラナイ。タダ階下ニ現レテハ亡者ヲ拐ッテイク。化ケ物ニ捕マッタ者ハ二度ト帰ッテコナイ」
「では化け物はどのような見た目をしているのでしょう?」
「イロイロ。ドレモコレモ皆ンナ異形ノ形ヲシテイル」
「襲いに来ると言いましたが、強襲のように化け物も上から来るのですか?」
「化ケ物ハ違ウ。神出鬼没。ドコカラ現レルカ分カラナイ。窓ノ外カラキタリ、トイレニ現レタリ、隙間カラ手ガ出テ亡者ヲ拐ッタリ」
「死神とは別物なのでしょうか?」
「化ケ物トハ違ウケド、ドチラモ変ワラナイ。両方、亡者ノ敵。ドッチモ怖イ」
「死神とは何なのですか?」
「分カラナイ」
結局化け物と死神に関しては不明だということだ。死神はまだしも6階には化け物がいるらしいので、できるだけ情報を得たかった。しかも複数いるっぽいし。
「アナタ達ハナゼ屋上ヘ?」
今度は女の亡者が僕達に尋ねた。さて、なんて答えたものか。ここも正直に答えようか。
「屋上にある絶望に用がありまして」
2階の自衛隊服を着た亡者によると、屋上には絶望がありそこへ行くと未来永劫この地獄で苦しみ続けることになるとのことだ。この絶望が“堕ちた神”の核の一つである“絶望”かどうかは定かではないが、怪しさ満天なのでこうして僕達は屋上を目指しているわけだ。
そういえば、一階の救済室に向かった鷹司君達は上手くやっているだろうか。あっちもあっちで何かありそうなので心配だ。
亡者は目をパチクリさせて僕を見た。
「屋上ハ危険」
「承知の上です」
「ナゼ行クノ?」
「奈落にいる貴女方を救うためです」
亡者はもう一度目をパチクリさせた。黙って僕の顔を凝視する。少ししてから口を開いた。
「付イテキテ」
そう言うと彼女は僕達に背を向け歩き出した。まさか本当に案内してくれるとは思わなかった。僕と千代さんは黙って彼女の後に続いた。
「まさか信じたわけじゃないだろうね?」
ハクダ様がそっと僕に呟いた。
「もちろん信じていませんよ。ただなるべく争いごとは避けたいもので」
「無駄だと思うけれどね」
僕の願望を両断するかのようにハクダ様ははっきり言った。