第35話 奈落①
僕と縁雅千代さんと嶽鷹司君は、呪須津家の祀っている神であるジンカイさんの領域である瓦落多窟の入口で待っていた。この洞窟の奥に“堕ちた神”の核の一つである“絶望”がいる奈落という異界がある。
ジンカイさんによるとこの奈落は生前罪を犯した亡者が集まる異界なので、生身の人間は入ることができないのだそうだ。しかし呪須津の宝剣であれば奈落の入口を無理矢理こじ開けられるので、生きている僕達でも侵入できるというのだ。
呪須津家の当主である屎泥処さんが、その宝剣を取りに行っているので僕達はここで待機している。その間に僕は鷹司君くんと千代さんにこれから赴く奈落の説明をした。とはいっても彼らに“堕ちた神”に関する情報は何も言えないので、あやふやな説明しかできなかったが。
奈落は死した罪人が罪を償うための異界であり、古い神様が創ったと思われること。その奈落を何者かが改変して何やら良からぬことを企んでいること。ジンカイさんは何者かを監視していたこと。何者かはとんでもなく危険であることなど、詳細は省かざる終えなかったが言える範囲のことは全て言った。
鷹司君から色々質問されても答えられなかったので、彼は少し不機嫌になった。千代さんの方は真面目に僕の話を聞いていたが、特に何も尋ねられなかった。
「お待たせいたしました」
待つこと十数分、屎泥処さんがやって来た。小柄なこの老人の傍らには一人の美人が立っている。ゆるいウェーブのかかった長い黒髪に白い和服を着ていて、憂い気なタレ目気味の目が特徴的だ。彼女の年の頃は鷹司君と同じくらいだろうか。幽微でおぼろげな美人さんだ。
僕と目が合うとにっこりと微笑んだ。こんなまともな見た目の人が呪須津家にいたんだ。
「こちらが呪須津の家宝である灰燼朽錆剣でございます」
ギョロ目の当主は刀身が御札でグルグルに巻かれた剣を両手で大切そうに持っていた。宝剣は刃渡り50センチほどの両刃で、御札の隙間から赤錆が見える。随分と古いようで剣全体が錆びているようだ。
「野丸様、これを那蛾に持たせますので、どうかジンカイ様の敵を討ってくだされ。那蛾の才能は呪須津家の中でもピカイチでございます。きっと野丸様のお役に立てるでしょう。那蛾、ジンカイ様はお前を選んだ。呪須津の巫女として恥ずかしくない働きをするのだぞ」
「もちろんでございます、お祖父様。野丸様、不束者でございますがよろしくお願いいたします」
「……」
ちょっと待って。今この美人さんを那蛾って呼んだよね? 確か僕をもてなしてくれた包帯グルグル巻きの女性がそんな名前だった気がする。そういえば声が似ているな。僕の脳裏に彼女の腐った腕の皮膚に湧いた蛆虫が蘇る。それと同時にまた吐き気が込み上げてきた。
「……あのもしかして、先程お茶を点ててくれた方ですか?」
「まあ、もしかしてお忘れになってしまったのですか? 女性の顔を忘れるだなんて、野丸さんは酷いお方ですね」
大げさに悲しそうな表情をする美人さんは、やはりあの激烈に臭った呪須津那蛾さんであった。あの腐敗臭はマジでトラウマになるほど酷いものだった。しかし今はどうだろう。激臭は全くなく全身が皮膚病と思われていたが、今の彼女はお肌がツルツルだ。
「すみません。顔は拝見できなかったもので。それにしてもこの短時間で随分と変わりましたね」
「うふふ。私だって平日は学校に通っていますし、街にお買い物にも行くのですよ? 大型連休ですから修行のため重い病気に罹ってみたんです。呪須津の者であれば病にすることも治すことも容易いものでございますわ」
……あれ、わざとだったのか。
クスクスと上品に笑う那蛾さんは、僕をもてなしてくれたあの包帯女と同一人物だとはまだ信じられない。
「……そういうことだったんですね。しかし僕達に付いてくるとなると命の危険があります。それほど危険な場所へと赴くのです。那蛾さんはそれを理解しているのですか?」
ジンカイさんはお供をつけると言っていたが、まさかそれが那蛾さんだとは思わなかった。恐らくまだ高校生である少女に命をかける覚悟があるだろうか。まあ、鷹司君も千代さんも高校生だけど。
「当然でございます。ジンカイ様の敵を討つお手伝いができるなど、嬉しく思いこそすれ臆するなどありえません」
涼しげに言ってのけたがすでに覚悟は完了しているようだ。
「話が済んだのならさっさと行くぞ。時間がないのだろう? おい、そこの呪須津の女。俺達と共に来るのは構わないが足手まといにだけはなるなよ」
「うふふ。ええ、皆様のお役に立てるよう死力を尽くしますわ」
「それじゃあ那蛾さん、よろしくお願いします。みんな、行こうか」
各々の顔を見れば誰もが気後れしている様子はなくとっくに覚悟は決まっているようだった。頼もしささえ感じる。
「野丸様、どうかお気をつけて」
「はい、それでは行ってまいります」
屎泥処さんを始めとした呪須津家の面々が、皆深く頭を下げ僕達を見送った。
瓦落多窟はジンカイさんが亡くなってから洞窟に満ちていた毒瘴が消えたので、鷹司君達でも問題なく入れた。
狭い洞窟内を縦一列になってライトを照らしながら進む。10分ほど歩いたところで広い空間に出た。僕がジンカイさん達に話を聞いた場所だ。この奥に奈落の入口があるらしい。
ジンカイさん達が存在した形跡は全く無かった。何か形見になるものでも残ってたら良かったのだが、丸々綺麗さっぱり消えてしまった。何かあったら呪須津家も喜ぶんだろうけど残念だ。
「あの先にあります」
ドーム型の空間の先に、奥へ続く穴がぽっかり空いていた。高さは2メートルほどだろうか。僕達は奥へと歩を進めた。心なしか皆少し緊張感が増したように思える。
何があるかわからないので慎重に歩くこと数分、やけに広い場所に出た。暗いのでよく分からないが、広さはジンカイさんがいた所よりもさらに大きく思える。そして異様なのが地面だ。真っ平らな暗黒が下一面に広がっていた。
「これが奈落の入口か……」
地面に大穴が空いていると思うほど真っ暗である。ライトで照らしても何も反射せず黒ばかりであった。ここまで純度の高い闇は初めて見る。ここが奈落であることは間違いなかった。
試しに石を投げてみたが、コテンコテンと転がっていき普通にその場に留まる。僕は片足をそろりと暗黒面に出した。つま先で軽く触れてみたが何も起こらなかった。やっぱり生身の人間では入れないようだ。
「失礼します」
那蛾さんが奈落の入口の上をテクテク歩き、先へ進んだ。鷹司君と千代さんが彼女に続く。出遅れた僕もおっかなびっくり彼女達の後に続いた。みんな度胸あるなあ。
那蛾さんは中央あたりで止まると僕達の方へ振り向いた。宝剣の切っ先を暗黒面に突き立てると刀身に巻き付いていた御札がパラパラと落ち、錆びついた刃が露わになる。
「皆さん、準備はよろしいですか?」
僕と鷹司君は頷いた。いよいよ奈落へ突入だ。緊張感が最高潮に達する。しかしここで意外にもずっと黙っていた縁雅千代さんがか細い声で待ったをかけた。
「……少しお時間を頂けますか?」
なんだろうと思って彼女を見れば、リュックから何かを取り出していた。千代さんの手にはちっこい刀の模型のような物が乗っている。お土産屋で売っている刀のキーホルダーみたいだ。
千代さんは手のひらサイズの刀を握りしめブツブツと祝詞のような呪文を唱える。すると刀はグングンと大きくなり普通の日本刀の大きさにまでなった。
千代さんはふぅと息をつくとキリッとした目つきになった。
「お待たせして申し訳ありません。これで準備は整いました。さあ、参りましょう!」
彼女はいつもの蚊の鳴くような声ではなく、ハキハキと通る声で言った。ユラユラとした体幹は芯が入ったように微動だにせず、眠たげだった表情は引き締まり、凛とした目つきはまるで別人だ。あまりの変わりように僕は驚いた。一体彼女に何があったんだろう?
「随分と雰囲気がお変わりになりましたねえ」
「今回は長かったようだが、まさかこの時のために力を溜めていたのか?」
那蛾さんは僕と同じ感想だったが、鷹司君の方は千代さんが様変わりした事情を知っているようだ。
「あの、説明してもらっていいですか?」
急いだほうがいいんだろうけど、気になるじゃない。
千代さんは意志の強そうな瞳で僕を見据える。
「はい。私は縁雅の巫女としてハクダ様の神気をこの身に宿すことができるのです。十分な神気を溜めるには、ハクダ様の神域に長時間滞在しなくてはなりません。しかし私とて現実世界の生活がありますから、長い間神域にいることは日常生活に差し障りがあります。そこで私は自分の魂を2つに分けて、片方の魂を神域に留めることにしました。その副作用として身体能力や認知能力が著しく下がってしまうのです」
優等生然とした口調で千代さんはそう言った。
なるほど、つまり今の千代さんが本来の千代さんであり、これまでの千代さんは魂を分割した代償のせいで不安定だったわけだ。千代さんと初めて会ったのが確か天女ちゃんの入学式のときだったので、少なくても一ヶ月はずっとあの状態だったということだ。
その間、ハクダ様の神域で力を溜めていたというのだから、戦力として大分期待できるのではないだろうか。千代さんの力は未知数だったのであまり当てにしていなかったが、これは嬉しい誤算だ。
「うふふ。いいですね。それでは皆様、参りましょうか」
呪須津那蛾さんは僕達3人の顔を見回してから宝剣を奈落の入口へと突き立てた。直後に地面が消えたかと思うと、僕の視界は真っ暗になり体が落下するような感覚を覚えた。下へ下へと落ちてゆく。音も何も聞こえず他の3人の姿も見えない。
地面が消えた瞬間から空間が切り替わったのを感じた。ここはすでに奈落という異界であり、“絶望”を倒さない限り出られないだろう。本当に地獄に落ちてゆく感じがして、飛行神術のドラゴニックババアを召喚したい気持ちに駆られたがグッと我慢した。“絶望”へはこのまま落ちていかないと辿り着けないだろうから。
数分程度だろうか、暗闇の中を心細い気持ちで落下していると急に地に足がついた感覚がした。そして直後に視界が戻る。僕の前に広がる光景を見れば、よく見慣れた建物に戸惑ってしまった。
「……学校?」
空は薄暗く月も星も街灯もない中で、ぼんやりと学校全体が不自然に浮かび上がっていた。小学校か中学校か、見た目はどこにでもありそうな普通の校舎だ。学校の敷地内以外は全てが真っ黒だった。
「皆さん、無事ですね」
横から縁雅千代さんの声がした。鷹司君や那蛾さんもいる。皆同じところに着いたようで安心した。
「奈落というからどのような場所かと思えば、意外だったな」
僕も罪を犯した亡者がいるというので、もっと殺伐とした地獄のような場所を想像していたが、何の変哲もない学校とは思はなかった。辺りが暗いため夜の学校のようで頗る不気味ではあるが。
「しかし落下した時間を考えれば、ここは現世から相当隔絶した異界です。油断は禁物ですよ。気を引き締めて行きましょう」
「ここにジンカイ様の敵が……。私、ウズウズしてきましたわ」
「……よし、行こう」
僕達は目の前の校門をくぐった。広い校庭の先にある長方形の建物を目指して。少し歩いたところで異変に気がついた。前言撤回、あれは変哲のない校舎ではない。
校舎の窓という窓から無数の顔がこちらを見つめていた。皆無表情で老若男女入り乱れた顔が僕達にじっと視線を注いでいる。あれは全て亡者であろう。しかも大罪を犯した犯罪者のだ。
「うふふ。歓迎されているようですね」
「鬱陶しいな」
「あれほど大量の亡者を取り籠めているとは。やはりここは危険な場所ですね」
ジンカイさんによれば“絶望”は亡者達を使って陰の氣を作り出しているようだ。さて、ここからが本番だ。何としてでも“絶望”を倒して、皆で元の世界に戻るぞ。
僕達は真っ直ぐ玄関へと向かった。