閑話 その頃の聖子
菩薩院聖子は聖都ホシガタのカトリーヌの住まいである五聖殿、正式名称は“カトリーヌ様が御和す難攻不落にして雅やかな聖なる五色の宮殿”へと来ていた。
床は白大理石のように光沢のある天然石材でできており、汚れ一つない純白な壁には金や宝石でできた飾りがこれでもかと掛けられていた。穹窿上部の壁面には意匠を凝らした数多の聖女のステンドグラスが、等間隔で半球を一周している。ドームの天辺はカトリーヌと思しき清楚で威厳をたたえた聖女の天井画が聖子を見下ろしていた。
ここは五聖殿の入口である玄関ホール。このホールの中央に聖子とカトリーヌ、そして黒い喪服のようなドレスを纏った女が一人いた。
カトリーヌは中が空洞の黒い箱を抱えていた。この黒い箱の中央に腕一本入りそうな穴が空けてある。カトリーヌは聖子にその穴に左手を入れるように促した。
「一体、何をなさるおつもりなんですか?」
「余計な詮索はなしと言ったはずよ」
「ウフフ、そうでしたね」
「じゃ、よろしくね」
「フフ、承知いたしました」
カトリーヌに促され、全身黒尽くめの女が聖子の前に立った。丈の長い真っ黒なドレスを着ており、手袋もハイヒールも黒だ。顔はヴェールで覆われており全く素肌が見えない。カトリーヌの話によるとこの女は“救世求道会”という邪教の者のようだ。
この救世求道会というのは、最古の邪教を自認しており、世の真理を明かすために活動する無害な邪教であると主張している。カトリーヌ教としては完全に信用していないものの、彼女達の呪術は有用であるため、秘密裏に救世求道会の力を借りる場合もあるそうだ。
「ではお手を」
聖子は言われた通り、右手を差し出すと黒尽くめの女は両手で優しく包みこんだ。すると女から言いようのない不快なエネルギーが聖子に流れ込んできた。得体のしれないエネルギーは聖子の掌を通して体に流れ込んできた。それが心臓にまで到達すると、全身鳥肌が立つような寒気に襲われる。
カトリーヌの事前の説明によると、これは“正邪逆転”という魔法の練習らしい。誰でも習得できるようなものではなく、選ばれた才能ある人間だけが使える高度な魔法だという。聖子はカトリーヌにその才能があるのだと言われた。
女から流れてくる不快なエネルギーは邪氣といい、これを逆転させ色聖に変えたり、あるいは色聖を悪氣に変えることができる魔法だというのだ。
聖子としてはいくらすごいと言っても、そんな地味な魔法より空を飛んだり派手な攻撃魔法のほうがよかった。もっといえば、この邪教の女が使う呪術というものに強く興味が惹かれた。
それをカトリーヌに言っても、「この魔法が最優先よ! 他のは後よ、ア・ト! まずはこの魔法を修めてからだわ! そう、これは魔法なのよ!」と、“正邪逆転”を覚えさせることを優先し、やたらとこれが魔法であることを強調していた。
カトリーヌが変わり者であるのは、聖子も短い付き合いの中で十分理解していたので、さして気にしなかった。それよりも高度な魔法を覚えさせようと言う割に、魔法の理論を全く教えてくれず、「何となくでいいのよ!」と適当だったのはどうかと思った。
邪氣が聖子の心臓を過ぎた辺りで不快感は消え、左半身にくると今度は神聖なエネルギーに変わるのを感じた。さらにそれが左手に移り、予めカトリーヌに持たされていた空の霊光石に流れていった。
「ぐふっ」
カトリーヌは空の霊光石が真紅に輝く赤聖の霊光石になったのを確認すると、嬉しさのあまりおかしな声が漏れた。聖子はその顔をみて、“正邪逆転”が成功したのだと分かった。自分は何もしていないのにと、聖子は手応えも達成感もなく、肩透かしな気分だった。
カトリーヌは救世求道会の女に見えないように、そっと2つ目の空の霊光石を聖子へと手渡した。
「じゃんじゃんやっちゃって!」
「ウフフ。そのお顔を見ると、良い結果になったようですね」
「詮索は禁止よ!」
「失礼失礼。初めての五聖殿で舞い上がってしまったので。邪教徒の私なぞを招くとはさぞかし重要な儀式みたいですね?」
「いいから黙ってやりなさい!」
「ウフフフフ……」
その後も聖子は右手に邪氣を流され、自身の中で赤聖へと変化し、左手に持っている霊光石にその赤聖を流し込む作業を、赤聖の霊光石が10個以上出来上がるまで続けた。
「ウッヒョ~! 大成功よ!」
真紅に輝く霊光石を見て、カトリーヌは下衆な笑顔で声を上げた。
「……まさか本当に色聖の霊光石ができあがるとは」
「セイコすごい。色聖の霊光石なんて“伝説のマーケット”でしか手に入らないレア物なのに」
五聖殿の最上階、カトリーヌは自身の居室でロアイト、マリンに今日の成果を報告していた。聖子は先に超越神社へと戻っているので、ここには3人だけだ。
「どうよ、私の見立ては! これで次の大瘴海は楽勝ってもんよ」
「さすがにそれは無茶なのでは?」
「セイコの体が持たない」
「何言っているの。セイコのキャパは相当なもんよ。あの忌々しい瘴氣だってあっちゅう間に黄聖に早変わりよ! 全部は無理でも相当な瘴氣はさばけるわ。というわけで、ロアイト。空の霊光石を大量に集めといて」
「……分かりました。でも、あまりセイコさんを酷使しないで下さいよ。彼女はカミヒトさんから預かっている大事なお客様なんですから。カミヒトさんの不興を買うのは得策ではありませんよ」
「そう、カミヒトがいないと美味しいタレが食べられない」
「わーってるわよ」
「それから、セイコさんの特殊な力を魔法などと偽って利用しているのも、カミヒトさんに対する裏切りですよ」
「だいじょぶ、だいじょぶ。ちゃんと考えてるから! 全ては私に任せて、あんたらは私の言う通りに動けばいいのよ!」
ロアイトとマリンは顔を見合わせ、心の中で盛大に息を吐いた。カトリーヌがこう言ったときの半分は全くあてが外れ、側近である自分達が尻拭いをしたことが数え切れないくらいあったからだ。
「カミヒトを言いくるめるなんて簡単なもんよ!」
カトリーヌは胸を張ってそう言った。
超越神社で聖子はひとり物思いに耽っていた。手にはカミヒトから貰った守り刀を持っている。魔除けの効果があるというこの小刀は、鞘に白い蛇が渦を巻いている文様が施されていた。縁雅家の家紋だ。
聖子は縁雅の家紋を指でなぞりながら、最近毎日見る変な夢のことを考えた。
その夢は暗がりの中で1人の少女が、自分とカミヒトの名前を呼ぶところから始まる。この少女は自分が初めて会った異世界の住人であり、カミヒトによれば人間ではなく邪神だという。最初信じられなかったが、カトリーヌも邪神であると断言し、極めて危険な存在であるから関わってはいけないと、忌避感たっぷりに言っていた。
少女は不安そうにキョロキョロと何かを探しているようだった。その心細げな顔は、昔迷子になった妹の破魔子に似ていた。
あの時は確か家族で遊園地に行ったのだが、2人共はしゃぎ過ぎたためか、両親とはぐれて妹と一緒に迷子になってしまった。幼かった破魔子は今にも泣き出しそうで、ぎゅっと自分の手を握って離さなかった。
邪神の少女はしばらく一生懸命に探すのだが、やがて自分を見つけるとパアっと明るい笑顔になる。まるで両親を見つけた破魔子のようだった。もしかしたら、あのときの自分も同じような顔をしていたかもしれない。
少女は駆け足で聖子の方に寄ってくるが、あと数メートルというところで突然見失ったかのようにピタリと止まり、また不安そうな顔になる。キョロキョロと顔を動かし自分の名前を何度も呼び、どんどん泣きそうな顔になる。
聖子は少女を呼び止めようとするのだが声がでない。気がつくと自分の身体に大きな白い蛇が巻き付いていた。白い蛇は少女を睨んでいる。少女は聖子の名前を呼びながら遠ざかっていく。自分はただそれを見ていることしかできなかった。
少女の姿が視界から消えると目が覚める。異世界に通うようになってから見るようになった夢だ。
果たしてこれはただの夢なのだろうか?
聖子は再び白い蛇の家紋を指でなでた。