第11話 煤子様
結界を越えた瞬間、周りが激しくざわめいた。注連縄に結んである鈴たちが耳に痛いほど鳴り響く。土塀や屋敷もガタガタと地震でも起きたかのように震えている。全身が粟立つのを覚えた。きっと鶏を超える鳥肌になっているに違いない。頭から血の気が引いていく。凄い勢いで引いていくのを感じる。……ああ、気を失いそうだ。
僕はブラックアウトしかけたがなんとか持ち直した。手のひらが温かい。視界を手の方に向けると水晶さんがいつもより多めに光っていた。いつもは近くで見ないとわからないほど淡い光なんだけど、今は離れているおじさんたちにも見えそうなくらい光っていそうだ。
しばらくすると光が弱くなる。周りの激しいざわめきも収まった。水晶さんの力だろうか。僕が気を失わなかったのも水晶さんのお陰だろう。
『煤子様とお話しましょう』
水晶さんから次なる指令が来た。抵抗する気力もなくなった僕は素直にいうことを聞くことにした。結界石の正面に回り、空洞の入り口を見た。
中には子供くらいの大きさの黒い何かが体育座りをしていた。顔は膝に埋めているので見えない。
「……こんにちは」
恐る恐る尋ねてみる。
「あんちゃん、だあれ……?」
……返答があった。煤子様は顔を上げ、その風貌に僕は驚いた。顔は真っ黒で目も口も見当たらず、かろうじて耳と真ん中の突起が鼻だとわかった。しかし異様な風貌に対して声は子供のそれだ。声の質から男の子のような印象を受けた。
「……近くの神社の神主かな」
緊張で声が上ずった。そして神主ではなく祭神だけれど。
「かんぬしさま…?」
「そうだよ。君の名前を教えてくれるかな?」
「すすこさまってよばれてる」
「ここにどれくらいいるのかな?」
「わからない。ずぅっと待ってる……」
「待ってる?」
少しのやり取りだが煤子様は普通の子供のように思えた。知らず知らずのうちに口調が優しくなる。体の震えは相変わらず止まらないけど。
「かんぬしさま、おっかあしらない?」
「お母さん?ごめん、わからないや」
「そっかあ…。おっかあ、まだ来ないのかな……」
「お母さんを待ってるの?」
「うん、すぐに迎えに来るからって。おらぁ、ずっとここで待ってる……」
ずっとと言うのは何年くらいなんだろう。伝承になっているくらいだから、相当な時間が経っているだろう。言葉のなまりからしても近代以前だろうか。そんなに長い間一人でずっとここに居た事を思うと胸がチクリと傷んだ。
「……ううう」
煤子様が苦しそうにうめき声を上げた。
「どこか痛むの?」
「……うん。起きてるときはいたい。体全部がいたい……」
「起きてるときは?寝ているときは痛くないの?」
「うん。たぶん痛くない。でも起きておっかあ待ってないと……うう、苦しいよ……」
どうしよう。すごく苦しそうだ。もう浄化したほうがいいんだろうか。水晶さんどうしたらいいでしょうか。水晶さんを見るが何も反応がない。まるで自分で考えろと言っているようだ。
そういえばおばあさんから飴をもらったな。気休めにでもなればいいなと思い、飴を上げてみることにした。
「これ、いる?」
袋から開け、煤子様の口付近に飴を持っていった。
「わあぁ……あめだあ。おらあ、これ好き」
僕の手からパクっと口に入れた。入れたというか吸い込まれたように見えた。
「これ、なめたことあるの?」
「うん、おばあちゃんがいつもくれんだ」
「おばあちゃんてあの人のこと?」
僕は一生懸命お祈りしているおばあさんを指さした。
「真っ暗でなんにも見えない」
そういえば目がなかった。声だけで判断しているのかな。
「僕のことは見える?」
「うん、見えるよ」
見えるらしい。もしかしたら結界の外は見えないのかもしれない。ふと煤子様の周りを見てみると、風車やめんこやビー玉やけん玉など昔のおもちゃがあった。かろうじて原型を留めていたが、いずれも黒く変色していてボロボロだった。これらもおばあさんが供えたのだろう。
煤子様は飴をコロコロしていた。表情はわからないが、雰囲気で喜んでいるとわかる。
「うっ…」
煤子様がまた苦しみだした。周りに黒いモヤのようなものが見える。
「大丈夫!?」
黒いモヤが煤子様の周りにまとわりつき、蝕んでいるようにみえる。どうしよう、早く浄化しないと。しかし、どうすればいいのか分からない。僕はそっと煤子様に触れてみる。
すると突然、北側の山が強風でも受けたように荒々しく撓り、地震でも起きたように地面がガタガタ揺れた。この異常事態と共鳴するように、霧のようだったモヤは収縮していき、より濃くなって、無数の手のような形になった。
「あっ……」
黒いモヤでできた手は煤子様の全身を覆い、体に深く食い込むように掴む。そしてそのままどこかへ連れ去ろうと引っ張り出した。
「……!?」
咄嗟に煤子様の腕を掴む。モヤの手は山の方に連れて行こうとしているようだ。すごい力だ……、僕まで引っ張られそう。
「あんちゃん、痛いよぉ、こわいよぉ……」
……くっ!このモヤめ!
怖いけど、ここで離してはいけない気がする。煤子様とはほんの少ししか話していないが、僕はこの哀れな子の魂を救ってあげたいと思った。このかすかな義侠心が僕を奮い立たせる。
負けてたまるか!ビビリの僕でも根性見せるときだってあるんだぞ!
煤子様を連れて行かせまいと虚勢を張った時だった。僕の体から黄金色の光が出たかと思うと、その光は一瞬で黒い手を蒸発させた。僕たちは綱引きの綱が切れたように、後方に勢いよく吹っ飛んでいった。
「……あいたたた。……大丈夫?」
「……うん。あんちゃんの体、あったかいね。からだ、痛くない……」
どうにか連れて行かれずに済んだと安堵したのもつかの間、ガサガサと、木々の間を何かがすごいスピードで駆け抜けてきた。
「!!!?」
突然、僕たちの前に現れた醜悪なソレに恐怖で身動きが取れなくなる。僕は煤子様を抱きしめ、身を強張らせている。
ソレは大きな蜘蛛の化け物だった。それも顔と足の部分は人間という極めて嫌悪を催す姿だ。
蜘蛛の足の部分には人間の腕がついており、爪の長い女性の手だったり、毛深い手だったり、筋肉で逞しかったり、子供のようだったりと、てんでバラバラだ。顔は顎は天に額は地面側と、逆さまについている。長い髪は地面に引きずられていて、男か女かわからない醜い顔だ。
それがもう、悪意のある目つきでニタニタとこちらを見るもんだから、マジで失禁しそう……。