第21話 菩薩院桂花
鼻腔をつくい草の匂い、背中には畳の感触。目を開けると見慣れた天井があった。ゆっくり上体を起こせば目の前には小さなテーブルと開かれたノートパソコンがある。画面にはこの動画は再生できませんの文字。
どうやら元の場所に戻ってこれたようだ。まだ頭が少しボーっとする。
「お気づきになられましたか」
突然横から話しかけられ体が跳ね上がる。声のする方を見れば僕の斜め後ろ、老婦人が正座で座っていた。その背後には先程の編笠を被った着物の女性が控えるように立っている。
老婦人は黒留袖に帯は錦織といった出で立ちで、佇まいから気品と厳かさがにじみ出ている。まっすぐこちらを見据える双眸はゆるがない強い意志がこもっていた。恐らくこの人が菩薩院桂花さんだろう。
しゃんと背筋が伸びていてとても90歳を超えた人とは思えない。セツさんに聞いたときに感じた印象通りだ。
僕は慌てて桂花さんと思われる老婦人の方を向き居住まいを正した。
動揺した僕とは対照的に老婦人は落ち着いた物腰で三つ指をつき優雅に一礼する。
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。菩薩院桂花と申します。野丸様には聖子、破魔子共々ご迷惑をおかけしております」
「……野丸嘉彌仁です。こちらこそ聖子さんや破魔子さんにはお世話になっています」
やはりこの老婦人が菩薩院桂花さんで間違いないようだ。しかしなぜこの人がこの場にいるのだろう? 昨日、破魔子ちゃんに桂花さんとの面会のアポイントを取ってもらえないかお願いしたのだが、桂花さんは忙しく破魔子ちゃんといえど用意に約束を取り付けることはできないため、一応頼んでみるが確かな約束はできないとのことだった。
僕の無理な願いのために何とか頑張って説得してくれたのだろうか。
「わざわざご足労いただいてありがとうございます。破魔子さんから聞いて急いでこちらに来てくださったのですよね? 本来ならこちらから伺うべきだったのですが」
「いえ、本来ならば本日訪れる予定はなかったのですが、虫の知らせがしたものですから」
「虫の知らせですか……」
桂花さんの背後の着物の女性をちらとみた。
「危ないところを助けてくださりありがとうございます。彼女のおかげで帰ってくることができました。青時雨さんといいましたか。彼女のことを伺っても?」
「青時雨は菩薩院の家霊の分霊であり私の眷属です」
オシラキ様の分霊……つまり青時雨さんは破魔子ちゃんのキュウちゃんと同じというわけだ。オシラキ様の分霊(破魔子ちゃんの命名によるとコシラキ様)は菩薩院家の血族に取り付き、その力を吸って独自の形態に進化するようで、進化する前はみんなクロイモちゃんのような姿らしい。
破魔子ちゃんのキュウちゃんが動物型だから、他のコシラキ様も勝手に似たようなものだと思っていたが、まさか桂花さんのコシラキ様が人形で言葉までしゃべるとは思わなかった。
「次からはああいった場所に迷い込んでしまった時は、戻りたい場所を強く念じるとよろしいかと思います。そうすれば戻れる場合もありますから」
「……あそこは一体何だったんでしょう? いや、あそこにいたモノは……」
僕が尋ね終わる前に桂花さんは人差し指を唇の前に添え、それ以上言わないように無言の圧力をかけた。
「私も独自に追っているのですが、アレの呪いの範囲は思った以上に広いのです。これ以上は謹んでください」
桂花さんはピシャリと言い放つ。その言いぶりから桂花さんは堕ちた神のことも、その呪いの性質も知っているようだ。彼女は堕ちた神についてどのようなことを知っているのだろう。情報交換したいが他者に喋れない呪いというものは何とももどかしい。
悶々とした思いでいると襖越しに失礼しますと聖子さんの声がした。
「あの、お茶をお持ちしました」
どうやら聖子さんはすでに帰ってきていたみたいだ。僕が返事をすると襖が開いた。お盆の上に2人分のお茶を乗せた聖子さんが大広間に入ってくる。心なしか少し緊張しているような雰囲気だ。
お茶を僕の前の小さなテーブルに置くと聖子さんもその場に座った。
「ありがとう。あなたはもう下がりなさい」
「……曽祖母様、私のことでこちらに訪ねて来たのですよね? でしたら私もここにいます」
「私は下がりなさいと言ったのですよ」
「私にも話を聞く権利があると思うのですが」
「私は野丸さんと二人でお話がしたいのです」
「……」
「これが最後ですよ。下がりなさい」
「…………はい」
聖子さんは立ち上がり僕を一瞥するとスゴスゴと大広間から出ていった。さすがの聖子さんでも当主である桂花さんには頭が上がらない様子。あんなにしおらしい聖子さんは初めてだ。
襖が閉じ彼女の気配が遠くなるまで待っているとおもむろに桂花さんが口を開いた。
「あの娘が突然菩薩院家を出たいといったときは驚きました。家人が詳しく聞けばこちらでお世話になりたいとのこと。野丸さんはいかがお考えでしょうか?」
「僕としてはそちらがよろしければ構いませんが」
「左様でございますか。それでは聖子のことをよろしくお願いします」
またも桂花さんは三指をついて優雅に一礼した。意外なことに桂花さんはあっさり聖子さんが実家をでることを了承した。
「反対しないのですか?」
「なぜですか?」
「……聖子さんが菩薩院家で特別であることは承知しています。てっきり彼女を手元に置いておきたいと考えているのかと思いまして」
なぜ聖子さんが退魔の一族である菩薩院の生まれでありながら、それらに一切関わりがないように育てられてきたのか。ずっと気になっていたことを知るチャンスだ。
「……確かに聖子は菩薩院で特別な立場です。しかしそれは野丸さんとは関係のないこと。私達の事情はどうか気になさらずに聖子のことをよろしくお願いします」
「彼女の特別な体質が理由ですか? 確か陰陽反転とか言いましたっけ?」
「…………」
桂花さんは僕の言葉が意外だったらしく黙り込んでしまった。うつむいて何かを考えている様子。桂花さんはしばらく黙考していたがやがて静かに口を開いた。
「五八千子さんの予言の通りあなたは規格外の何かのようですね。私も零源の巫女や灼然様の力はよく知っておりますから、あなたの力を疑ってはいませんでしたけど、まさか聖子の特殊な体質まで看破しているとは思いませんでした。破魔子の事といい、アレの欠片を打ち破った事といい流石でございますね」
当然ながら僕は聖子さんの特殊な体質など全く知らなかった。聖子さんの特殊性に気づいたのは聖女様であるし、陰陽反転という言葉は水晶さんから教わった。
「やはり彼女の体質が関係しているのですか?」
「……ええ、関係がないとは言えませんね。しかし事情はもっと込み入っています。こればかりは外部の人間に話すわけにはいかないのです。どうかご理解を」
そう言うと桂花さんは丁寧に頭を下げた。彼女の厳然たる様子からこれ以上情報を聞き出すことは不可能に思えた。結局、聖子さんの事情について何もわからずじまいだ。
「……本当に聖子さんを僕の下に置いてもよろしいのでしょうか? 今の僕は退魔師の真似事をしていますし、それに関連した厄介なこの世ならざるモノとこれからどんどん関わっていくと思います。そういったモノから彼女を遠ざけたいんですよね?」
一番知りたいのは聖子さんを超常現象に近づけるとどのような悪影響があるのかということだ。なぜならばすでに彼女を超常現象の極みとも言うべき異世界に関わらせてしまったからである。もし深刻な悪影響があるのならばもう向こうへ連れていけないかもしれない。
……そうなったら聖子さんは怒り狂うだろうけど。魔法に強い興味を示していたし。
「それならば心配いりません。あの娘にはそういったモノが見えなくなるような処置を施しましたし、何より聖子には我が一族の家霊の加護がありますので。野丸さんは御自分の活動に従事してくださっても問題ありません。ただあの娘はできるだけ関わらせないでください」
「……仮に見えてしまったとしたら?」
恐らく菩薩院家が施した処置というものはこっちの世界限定で、異世界では効力を発揮しないものと思われる。現に聖子さんは邪神や毛玉のおっちゃんなど普通の人には見えないものまで見えてしまっているわけだから。
「それ自体に問題はありません。ただ聖子には菩薩院の家業とは無関係でいてほしいのです」
見えること自体に弊害があるわけではないのか。そういうことならばたぶん大丈夫だろう。事情を知ってるっぽい水晶さんも聖子さんをやけに僕の眷属にするよう勧めていたし、きっと異世界へ連れて行っても大した影響はないだろうさ。
しかしなんだろう……。桂花さんは相変わらず無表情で感情が読めないが、今言った言葉に切実な思いを感じたのは気のせいだろうか?
「わかりました。そういうことでしたらこれ以上は聞きません。聖子さんは僕が責任を持って預からせていただきます」
「ありがとうございます。しかしもし聖子を手に負えないと感じたのならば、すぐに菩薩院の家人に仰ってください。すぐに連れ戻しますので」
聖子さんは奇抜な格好やときおり奇妙な行動をしたり押しが強い面もあるが、常識をわきまえているし意外に面倒見もいい。今日もアリエさんの日本の文化を学ぼう研修を買ってでたし、邪神に対してすら世話を焼いていたもんな。一緒に仕事をする上で迷惑をかけられることはないんじゃないだろうか。たぶんだけど。
「その辺りはたぶん大丈夫です」
「……そうですか。あの娘はだいぶ変わっておりますが、心根は優しい娘なのです。どうか、末永くよろしくお願いします」
「ええ、お任せください。彼女は優秀ですから、僕の方でも助かっています」
話が一段落したところで僕と桂花さんは聖子さんが淹れてくれたお茶を飲んだ。対面に座っている桂花さんを改めて観察してみる。
後ろに結った髪はすべて白髪であるが生き生きとツヤがあり、血色の良い肌は年の割にはシワが少ない。体幹もしっかりしていて、体全体から一種の凄みを感じる。発せられる言葉も鋭く冷然としている。
全く隙がなくセツさんの言う通り厳しそうな御婦人であるが、それでも聖子さんを思う情というものは確かに感じられた。
「そういえば……」
優雅にお茶を飲んでいた桂花さんが湯呑みを置きチラリと僕を見る。
「破魔子もお世話になったようですね。あの子の分霊のケガレがごっそりと落ちていたので家人達がひどく驚いていました。ええ、もちろん私もです」
桂花さんの目はあなたがやったんですよねと、言外にいっていた。
「ええ、まあ……その通りです。破魔子さんがしゃべったんですか?」
「いいえ、破魔子は何も言わなかったそうです。ただ、あなたとお出かけをして帰ってきてから、得意顔で見せびらかすように家中を歩いていたものですから、簡単に想像できます」
今言った光景が目に浮かぶようだ。何度も見たあのドヤ顔で家中を闊歩したんだろうなあ。
「分霊のケガレは菩薩院の家霊を犯しているケガレと同一です。菩薩院きっての才媛と呼ばれた私でも祓うことは不可能でした。それほどのケガレをあなたが祓ったわけですから、家人達は私を含めあなたに強い興味を持っています。さて、あなたはどのようにしてケガレを浄化したのでしょう?」
今度は桂花さんが探りをいれてきた。さて、何と答えたらいいものだろうか。僕自身もよくわからないわけだし。願い玉で破魔子ちゃんが乙女戦士化したらなんかキュウちゃんも白くなっていました、なんて説明しても何言ってるんだコイツとなるだけだろう。
破魔子ちゃんも秘密にしているようだし、とりあえず今は僕も黙っていることにしよう。
「申し訳ありませんがそれは言えません」
「なるほど。では、その力を菩薩院のために使う気はありませんか? もちろん、十分な対価は用意させてもらいます」
これはオシラキ様を蝕んでいるケガレを浄化しろということかな?
やってやれないことはないだろうが、しかし、聖子さんの実家とはいえ、まだ謎だらけの菩薩院家にそこまで深入りしてもいいものだろうか? 聖子さんについて秘匿していることも多いし、菩薩院家を信じる根拠は少ない。
僕は聖子さんや破魔子ちゃんの味方ではあるが菩薩院家の味方というわけではないのだ。少なくとも今はまだ。
「……そうですね。考えさせていただきます。もっとお互いのことをよく知ってからの方がいいと思いますよ」
「それもそうですね。いきなり不躾な申し出をしてしまいました。ご容赦ください」
あっさり引き下がった桂花さんはもうこれで用はないと言わんばかりに立ち上がる。
「私はこの辺で失礼させていただきます。本日は突然お魔邪魔して申し訳ありませんでした」
「いえ、こちらこそ助けていただきありがとうございます」
僕が玄関まで見送ろうと立ち上がると天井から何やら不気味な声が聞こえてきた。
「あ゛っあ゛っあ゛っ」
僕と桂花さんが同時に見上げると、いつの間にかクロイモちゃんが天井に張り付いていた。
「これが聖子に付いていた分霊ですね」
「聖子さんの肩に乗っていたものが家に居着いてしまったんです。やっぱり返した方がいいですかね?」
破魔子ちゃんは我が家に居るのはクロイモちゃんの意思なので、返す必要はないと言っていたのだが、元々クロイモちゃんは菩薩院家からやってきたわけだから返却するのが筋であろう。
クロイモちゃんを可愛がっている天女ちゃんは悲しむだろうけど。
「いいえ、その必要はありません。分霊の意思で野丸さんを選んだわけですから私が強制的に連れ帰ることはできません。しかし興味深い現象ではありますね。分霊が菩薩院の血族以外の者に付くなど前代未聞でありますので」
クロイモちゃん、残留決定である。よかったね、天女ちゃん。
しかしクロイモちゃんが我が家に居ることはやはりイレギュラーであるらしい。分霊《コシラキ様》というのは宿主の力を吸ってキュウちゃんや青時雨さんのように独自の形態へと進化するらしいのだが、未だその気配はない。
「あ゛~」
この子はどのように進化するのだろう。できれば可愛らしいマスコットキャラみたいになってほしい。
桂花さんはこの後も予定が詰まっているらしくいそいそと帰っていった。聖子さんもお供として桂花さんに付いていくと本日は早めに退社を願い出た。僕とアリエさんは彼女達が車に乗り込み、見えなくなるまでその場に佇んでいた。
「あの御婦人、とてつもない強さを秘めていますね……。ひと目見ただけで強者の風格を感じましたよ」
「日本で最強の退魔師らしいですからね。ところで、初めての日本はどうでしたか?」
僕の問にアリエさんの顔が曇ると彼女はボソリと呟いた。
「……この世界に馴染めるか不安になりましたよ。ここは刺激が強すぎます……」
「すぐに慣れますよ。カトリーヌさんは楽しむほど余裕がありましたから」
辺鄙な自宅周辺でも驚いているのだから都心へ連れて行ったらどのような反応をするだろうか。彼女がこちらの世界に慣れて来たら観光案内でもしてみようか。