夢が叶って胸いっぱい、来週はお暇いただきたい(壱)
週明けの不知火家は混沌としていた。
バイトに勤しんだ父はぎっくり腰。祭祀に家事に追われた祖母もぎっくり腰。本殿から出てきたじいさんは、干物のようにやつれ「祟りじゃ」「呪いじゃ」と、うなされ続けている。
母は──。
「たべたい……たべられない……これがのろいか……」
千が焚いたキャラメルポップコーンの香で、ゾンビ化していた。
「匂いじゃ、腹の足しにならないね」
「この匂いをおかずにしてご飯食べるから大丈夫!」
だから婿探しへ行ってらっしゃいと言うが、相変わらず足を引きずっている。
「じいさんの言う通り、やっぱり祟りなんじゃ」
「うーん、だとしても、痛み止め飲めば動けるし、二日くらい千速に頼らなくてもなんとかなるわよ」
後ろ髪がひかれるが、にこやかに送り出されては行くしかない。千は心に決めて、魔法円を踏んだ。
差し出した漫画を横へやると、カヲルは千の淹れた茶を啜った。
「ほう、御祖父さまが祟りであると」
着いてすぐに話しを切り出してみると、カヲルは思いのほか相談に乗ってくれた。
「じいさん、割れた鏡を持って本殿で申し開きをしたらしいのですが、どうも神さまがお怒りのようでして」
「怒りが鎮まらないと。しかしおかしな話だ。不知火の祭神に、そのような力があったか──」
「まあ、荒神と言っても過言はないですけどね」
父の祭祀ではカラスが荒ぶり、落ち葉の上に黒い羽が散らかる。千が祝詞をあげればおさまるが、その場しのぎ。今朝もカラスは納屋の前を並び、通せんぼしていた。
「幸い今日の依頼は難しくない。弟に任せて今から母上を診に行こうか」
「弟さんも、お務めされるのですか!」
「紹介がまだだったな。任せついでに会っていけ」
カヲルが腰をあげ、足を向けた方角は、北の対。陥落したわりに、改めて広い邸である。
千は思い出していた。
寝殿造の名称を少し調べたが平安時代、寝殿造の通りでいくと、北には──。
「千、今だ」
「は、はい。どうぞお納めください」
カヲルに言われるがまま、風呂敷ごと漫画を差し出す。
するとカヲルはピッチリと閉められた御簾の裾から、漫画の角を少しだけ滑り込ませた。
「悪いが急ぎだ、ここを開けろ」
「……先に読んで、いいの?」 あどけない声が板間を這う。
「いいぞ。ただし、作者コメント以外な」
いや、そこ。と、千が口を出す前に御簾があがった。ちいさな手がのびて、嬉しそうに漫画を抱きとめる。そこにはまるでカヲルをちいさくしたような、破壊的な可愛らしさがあった。
千に稲妻が走る。
「弟のクウガだ。かわいいだろ」
かわいい。かわいいが過ぎる。
さすが血のつながった兄弟。金髪碧眼、見事にそっくりカヲルをちいさくしたような美しさだ。それでいて幼さゆえの清らかさ。たまらない。カヲルの存在が消えるほどの尊さがそこにあった。
「はじめまして。わたくし弟子の千と申します。よろしければ、ご一緒に風呂などいかがですか」
「千!?」
いきなり風呂に誘われたクウガは、仔犬のように震えた。兄に助けを求めるが情けないことに半べそをかいて、クウガへ敵意を向けている。
「クウガ、俺より先に千と風呂なんて、許さんからな!」
ぶんぶん首を横にふる。すると今度は、千がカヲルを敵と見做した。
「師匠と入る予定は未来永劫ないですけど!?」
「え!? なんで!?」
「なんでは、お返しします。こんなかわいいコが真っ黒なのに、なぜ放っておけるんですか!」
クウガはせまい肩をすぼめた。冬が始まろうというのに、薄っぺらい下衣一枚。その白妙は墨でまだらに染まっている。同じように、白い手足もまた、墨で汚れていた。肘膝は特にパンダのように黒い。
カヲルは簾をあげきり、部屋へ明かりを入れると、きまりが悪そうに話した。
「クウガは墨絵師なんだ。一日じゅうこうして絵を描いてる」
「すごい……! 桜ですね?」
十畳ある局一面に半紙が散らばり、その一枚一枚が花を咲かせている。
「墨で描いているのに、色が浮かんで見えます。季節も異なるのに、まるで春風が吹いているようです」
「うまいもんだろ」
褒められ慣れていないクウガは、隠すように乱暴に半紙をかき集めながら、つぶやいた。
「急ぎって、なに」 その耳は赤い。
「ああ。すぐそこの港で、網に男の遺体がかかった。それも五体。人間の仕業でなければ、お前の力で炙りだせるだろう。頼めないか」
「先に読んでいいのでしょう? やるよ」
クウガは衣桁にかけた半紙を一枚、引き下ろすと、筆を走らせ直角、均等にマスを作った。七歳とは思えぬ正確さだ。すぐに見覚えある図が浮かび上がる。
千は舌を巻いた。
「囲碁?」
「一種の方位術だ。よく見ておけ」
師匠に言われた通り、クウガの筆先に集中する。点々と垂らされた印から墨がにじみ、陰影を作り出していく。山並みであったり、海の波間であったり。市場には人影まで、ひとりでに描かれた。
「印は、実際に建てられている石標。石標の位置を定めることで、その一角の現状を縮図にできる」
「現状? 今の様子をですか。人工衛星が泣きますね」
「それだけじゃない。瘴気の溜まり場はこうして、わかりやすく浮き出る」
墨一色で描かれた地図を浸食するように、おどろおどろしい血痕が表れた。
「一匹……、ただかなり濃いな」
クウガがマス目を数える。
「北に四、西に三。漁場だね。今日は海が荒れてるから、ひと気もない」
「消せるか」
「やってみる」
細筆にもちかえると、乱暴に曲線を滑らせた。美しい地図を覆い被せていく、その絵はおよそ七歳の描く落書きと程遠い。始点は力感をはらんだ眼を創り、墨の涸れた払いは鋭い毛なみとなった。今にも動き出しそうなその怪物──たとえるなら、四獣白虎。血痕は鞠のように、虎の前足に挟まれた。頭上には爪より鋭利な牙が二本、さし迫る勢いだ。
クウガが筆を置く。
「ごめんね」
言葉どおり申し訳なさそうに、絵の上の宙をなぞる。まるで虎の背を撫でているようだ。墨だらけのちいさな手。爪の色はマニキュアを塗ったよう。もう一生落ちないだろう、だなんて千が考えているうちに、虎の牙の先尖が血痕に到達していた。
「終わったな」
「え?」
顔を上げ、またすぐに地図へ視線を戻したが、血痕は跡形もない。墨で重ねた、というより漂白剤を染み込ませたように消えている。
「え? え?」
「見事だったぞ」
千の頭には疑問符が浮かぶばかりである。
カヲルが弟の髪をわしゃわしゃ撫でている。
ということは、妖怪退治が紙面上で解決したということだ。部屋から一歩も出ずに?
今さら地図を凝視するが、虎はピクリとも動かない。
「私にも、でき……ないな」
絵心に関しては、決して己れをおごってはならないと心に決めている。カヲルも、ほがらかに笑いながら言った。
「俺にもできないよ」
「師匠にも?」 なんでも出来ると思っていた。
「皇族はひとつ、異能をたずさえ産まれてくる。地の相を読み、呪術を遠隔化するなんて離れ技、歴史上クウガだけだ」
「ほう。では、師匠にもあるのですね。師匠だけの、異能というやつが」
「俺は……、ほら、陥落皇子だから」
また力なく笑うが、陥落したら没収とかそんな譯あるまい。千は深追いするのをやめた。というより、そんな暇はなくなった。クウガがカヲルの袖を引っ張る。
「兄上、これ……! 燃えてる、どうして」
また目を離した隙に、地図が様変わりしている。ちいさな焦げ目が点々とつき、発火し始めていた。瘴気となる血痕はじんましんのようにぷつぷつと湧き上がり、地獄絵図さながらである。
カヲルの顔つきが変わった。
「無数の点に、飛び火──。油断していたな。千はクウガと待っていろ」
「いっしょに行く!」 隣でクウガも頷く。
「今回は庇いきれない。頼むからふたりとも動くなよ!」
そう言うなり、カヲルは庭から出て行ってしまった。置き去りにされてはどうしようもない。千はくすぶる地図の火を足で踏み、消しとめた。
「どうしよう……、ぼく、失敗しちゃった」
クウガがぼそりと、つぶやく。
「え? 成功でしょう」
「でも結局、兄上の手をわずらわせてしまった」
「師匠は、クウガくんのこと見事だったって言ってました。それに、油断してたって、自分に対する言葉でしょう。だからこそ、ひとりで行ったのですよ」
言いくるめられたクウガはきょとん、とするばかりである。
しかし千こそ、待っているだけの娘ではない。先ほどカヲルが腰に手をそえた際、あるはずの鞘がなく、くうを切っていた。つまりは、帯刀せずに出たのだ。届けてやりたいが、カヲルでさえ刀を取りに行く猶予のない状況化。千の騎馬で間に合う可能性は、ゼロに等しい。
「さて、どうすれば」
「消し炭になった地図をながめていても、なにもでないわよ」
背中へ声をかけられた。凛として、それでいて色香の漂う声だ。いや、香りもある。嫌味のない、酸味のある薔薇の香りーー。視線を下げたまま、やおらに振り返る。板間には花が咲いたように、薄紅色の着物の裾が何枚も広がっていた。
「はじめまして、カヲルのお弟子さん。わたくしのことは、どうぞ北の方とお呼びください」
「北の方、さん」
「北の対で暮らしておりますから。譯あって名乗れませんの」
「はぁ」
「ふふ。あなたのことは、カヲルからよく聞いておりますよ」
おそるおそる顔をあげるも、あまりの美しさに一寸、目をそむけたくなった。白い袴に薔薇の羽織り。首から上は、誰がどう見てもティアラが似合うプリンセスだ。陶器のような白さの顔。絹糸のような金色の髪をしだれさせている。まるでサファイアのような瞳は今にもこぼれ落ちそうだ。それでいて、あどけない笑い顔。カヲルと同年に見える。
千は、知っている。北の方のその意味を、辞書で紐解いたばかりだ。ネットで調べても一番上に出てくる。
正妻。または、正室の敬称と。
「その、とても、いい香り……ですね」
「ありがとう。とても珍しい薄紅色の薔薇を、カヲルがみつけてくれたのよ。今日はじめて調香してみたのだけれど、どうかしら。私、綺麗?」
「綺麗ですよ」 その美しさを疑うことが、馬鹿げてる。
「嬉しいわ。ところでそう、のんびりお話ししていられないの。これを持って」
北の方はふくよかな胸もとからちいさな小包みを取り出すと、千の差し出す手のひらへ置いた。
「カヲルと合流するまで香りがもれないように注意して。クウガは、ここへ朱雀をお喚び。さあ急いで」
パン、パン。と二度手を打つ。その合図は引き金を引いたように、クウガの手を動かした。クウガは墨を散らし、一瞬で鳥の絵を描きあげると、今にも飛び立ちそうなその姿を、北の対の庭を背景に添える。
巫ッと、息を吹きかければ半紙が紅く染まり、宙に消えた。
「千、行こう」
「え!? は、はい」
クウガに手を引かれ庭へ降りると、屋根と同じ高さの鳥が羽根を下ろしていた。なるほど馬に追いつく乗り物は翼しかない。想いもよらぬ形で、夢は叶うものだ。願望と規格外をあわせ持つ。まさに異世界ファンタジー。
千は手のなかの小包を谷間へ押しこむと、覚悟を決めて頭を下げた。
「朱雀様、よろしくお願いします!」