由緒正しき巫女装束ではありません(壱)
千の祖父が鏡を持って本殿にこもり、一週間が経とうとしていた。断食でもしているのか、食事を運んでも手をつけない。
「じいさん、食べないと死んじゃうよ?」
「いらん、いらん」
とぼけた返事ばかりで、本殿へこもった理由も言わない。本来は神様の座す場所。滅多に立ち入ることもないのに。
千は諦めきれず向拝を上った。いつも開けっ放しの扉には打掛がかけられ、びくともしない。どうにかじいさんの足の爪先でも見えないものかと、隙間を探す。すると右側の蔀戸が腕一本ぶんだけ開いていた。
「うーんっ。……さすがに届かないか」
なかに祀る絵巻に続きが書かれていないか、気になっていたのだが為方ない。腹の足しにでもなればと千はおにぎりを中へ放り投げた。
「おむすびころりーん。……ん?」
せまい本殿の中心部に、無造作に木の人形が置かれている。まるでいつもの祖父のように、白がくすんだ狩衣を着て。
「傀儡……? まさかね」
カヲルに教えてもらった傀儡を戻ってから一度作ってみたが、コピーロボットは夢のまた夢。オウム返しをしてくる木製目覚まし時計といったところか。
ただ、父の耳もとで『仕事しろー』『ただ飯はー食わさんー』と喋らせると、効果覿面である。翌日にはパートへ出られない母の代わりに日払いバイトへ行く。使用方法は異なるが、なかなかのお役立ちアイテムだ。
引きこもりの祖父に怪我人の母、怠惰な父と問題だらけの家族であるが、本日は土曜日の正午。
「おばあちゃん、無理しないでねー!」
「千速もな」
腰の曲がった祖母にすべてを託し、千は魔法円を踏んだ。
千はいつでも蹴られるよう、膝に力を入れて目を開けた。前々回は出鼻でパンツを見られ、前回は真下に居たのだから当然の配慮である。
「おっ、来た来た」
予想は外れ、カヲルは離れた場所で手を振った。
「師匠、今日は仕込みなしですか」
「期待してた?」
「警戒してました」
「先週号で、師弟関係による性的な強要を学んだ。俗に言うセクハラというやつだ」
「弟子なら許されると思ってやってたのですか」
「思ってた。だが千は今週も来てくれた。あんなにセクハラしたのに」
「では今日で考えさせていただきますね」
「もちろんだ。今日は自粛するー」
「今日だけか。がっかりです」
なにを言い返そうとご機嫌だ。鼻歌まじりに魔法円を描いている。
「また転移ですか」
一度だけでも倦怠感がひどいので、二度は避けたいものだ。
「遠くはないが、今日の行き先は馬では行けない場所だ」
「山奥とかですか」
「ああ。先週の地震で山滑りが起こり、奇妙な裂け目ができたらしい。滑落したものがいるようなんだが、どうやら人間ではない」
「では今日は、妖怪救助ですね」
「そのとおり。俺につかまれば、霊力は削られないはずだ。……できた! さあ行こう」
さっそく握手の強要をせがむので、反省の色なしである。千は差し出された手の指先を、父の靴下と同程度につかんだ。
降り立った先では倦怠感こそないものの、盛大に尻もちをついた。衝撃のあったわりに痛くないなと思ったら、腰にカヲルの手が添えてある。自粛皆無の師匠へ制裁を与えるため、みぞおちに膝を入れた。
「なぜまた宙に浮いてるんです?」
「た、たきつぼのなかだからな。ふつうに描いたとして、この狭さでは少しの地殻変動で位置がズレる。滝に入ったら死んでるし、運が良くてもずぶ濡れだ」
「なにゆえこんな辺鄙な場所に」
「転移術を使える場所が、ここまでなんだ。この先は呪力が通らない」
宙に魔法円を描ける陰陽師はただひとり、カヲルしかいない。そのため急遽借り出されたと鼻高々に言うが、その技を習得したきっかけ、パンチラじゃなかった?
滝壺の入り口から三分も歩いただろうか。陽の光が届かなくなってきたころ、裂け目に着いた。洞窟のなかとは思えぬほど、果てしなく深い闇が足もとにひろがる。
「さて。どうやって下りようか」
「そこは、バーンッと魔法の滑り台を」
「さっきも言ったがこの辺り一帯、小さな呪術も使えない」
「では、せめて命綱を──」
望む前に足が空を切った。
──あ、死んだ。
そう覚悟するほど、深い闇を背中に感じた。
空中でカヲルに身体を引き寄せられたが、落ちる感覚は止まらない。
ほぼ直角の崖を無抵抗に滑り落ちると、やがて鈍い衝撃が訪れた。
事態は暗転し、その先にあるのは、
墨を流したような闇。
まるでまぶたを失ったかのような感覚に襲われた。
「千、無事か」
「カヲル……!」
数秒、無意識に息をとめていた。
千の声は枯れ震えている。
「落ち着け。話し続ければ、心は狂わない」
一日の半分を闇に暮らす、カヲルは知っている。真の闇は人間を容易く壊す。特に女は弱く、呼吸を乱し死に至ることもある。不自然に抑揚する千の背中を、ぽんぽん宥めた。
「ごめんなさい……! 私が、足を滑らせて」
カヲルを巻き込んでしまった。息継ぎがうまくいかず、喋りきれない。
「いや、何者かに足をとられたのだろう。いやな気配があった」
「落とさ、れた……?」
「とにかく、今は下手に動かないほうがいい」
動こうにも、動けない。身じろぎすら叶わない。少しでもカヲルから離れてしまえば、宇宙に放り出される。そんな気さえする。正常心を取り戻そうと自分の脈をとるが、口を閉じれば今度は耳鳴りが襲った。
「頭がおかしくなりそうです」
「なにか話題を」
「思いつきません」 恐怖が頭にこびりついて離れない。
「では俺が話そう。そうだな──、皇子だった俺が、雇われ陰陽師へ落ちぶれた譯でも話そうか」
「それはそれは愉しそうですね」
「そうだろう。なるべくあいづちをうて。恐怖がやわらぐ」
カヲルはゆっくりと、細切れに話した。
「先帝は後宮に多くの側室をかかえていた。俺の実母は元皇后だった。後宮で一番に皇子を孕んだ。だが少し後に桜の壺の女御という側室が懐妊し、そして同じ日に産んだ」
「同じ日に、皇子がふたり」
「先帝は桜の壺の女御の皇子を、春宮へ入れた」
春宮とは、皇太子──次代の皇帝だ。
魑魅魍魎はびこる貺都は、陰陽師の血を濃く継ぐ皇族が支配する。その頂点となる陰陽師こそが皇帝であり、春宮もまた強さで選ばれる。
同じ日に産まれては尚更、力比べ。
カヲルは一番になれなかった。それだけのことだ。
「では師匠は」
「第二皇子として後宮で育てられた。俺は気楽なもんだったが、母上は荒れたらしい。皇太后になるために、育てられた人生だったからな。先帝に愛されるでもなく、産んだ子は皇帝になれない。それでも後宮は鳥カゴだ。愛でられようが放っておかれようが、カゴからは出られない。出られないのにカゴの鍵は、いつだって開いていた」
「どういう意味ですか」
「男は入れたのさ。皇后から薔薇の壺の女御へ自ら位を落とした母上は、内大臣と間もなく懇ろとなった。後宮の管理を一手に担う内大臣を、怪しむ者など誰もいなかった」
「でた! 夜這い合法文化!」
「俺には、セクハラ文化のほうが不健全だと思うがね。夜這いだろうが合意のうえで母上は、子をなした。不義の子だ」
「弟さんですね」
「名をクウガという。まだ七つでな。可愛いよ。周りは腫れ物のように扱ったが、それでも後宮から出されることはなかった。先帝が孫のように可愛いがっていたから」
「よかったじゃないですか」
「だが謀叛があった。内大臣と右大臣が皇帝の暗殺を企てたんだ。伯父にあたる右大臣は斬首された」
「とつぜんの死刑!」
「謀叛、謀大逆は三世代まで処される。本来ならば俺たちも族誅にある立場。追放だけで済んだのは、今の主上の計らいだ。生きているだけ奇跡といえる」
「今の主上って……」
春宮に選ばれた、──同じ日に生まれた腹違いの兄弟では。
「師匠、よくそんなに明るく生きていられますね」
「うわー、はっきり言うなお前」
「だって、師匠、なーんもしてないのに!」
「空気みたいに言うな」
「想像以上に重いお話しでした。陥落皇子だなんて、もう二度と呼びません」
「別に気にしてないよ。今の生活のほうが俺には合ってるし、気に入ってる。ただクウガ、──義弟がな。まだ産まれて七つだぞ。背負うものが重すぎる」
いや、あなたもまだ十六歳の少年ですよ。
千は心の奥で叫んだ。
「その、クウガくんは今はどちらに」
「こもりがちだから、行き合うこともないか。俺の邸に居るよ。ここから出られたら、紹介しよう」
「うう、おねがいします」
「もう泣くなよ」
しゃくり上げて気づく。
母が泣けるドラマばかりに夢中になるのは、感情移入することで精神を安定させているのかもしれない。涙は乱れた呼吸と動悸をなだめさせた。耳鳴りもなく、今はカヲルの心臓の音が、耳に落ち着く。
「私、どうやら落ち着いたようです」
「おっ、頼もしいな。じゃあすまんが少し肩を貸してくれ」
「いいですけど。──っ!」
千は、カヲルの背中に腕をまわし、息をひいた。金色の立派な上衣が破れ果てている。手のひらには、ぬるりと生温かい感触が伝った。血だ。