ブラジャーをみたかっただけのようです(弍)
物心がつくころから視力の悪かった千にとって、水中は朧げでしかない。手をのばせば指先もぼやけるそんな世界で、情景を愛でることに理解ができなかった。だから今日だけは目に刻むのだ。
静かに潜り直すと、見えてくる世界も変わった。流れのない水のなかは、光の柱が立った。側面では水草が生い茂り、絡んだ落ち葉が花のように揺れる。魚が横切るたびに細かい泡が雪のように散らばり、スノードームのようだ。苔むした岩肌に手をつくと、あたたかいと知った。苔はやわらかいのに、濃淡なくびっしりと生えている。何年も人の立ち入りがない証し──。
千は目を疑った。
反対方向へ泳いでいったはずのカヲルが前で泳いでいる。陰陽師は万能か。二手に分かれようと言われたのだ、千は引き返そうと身体の舵を切った、次の瞬間──カヲルの首があらぬ方向へ折れた。
「ん──────!」
頭に浮かぶ文字は「死」に支配された。
カヲルの身体は流されたゴミのように、抵抗なく浮いている。千は無我夢中で泳ぎ、手をのばした。指はかすりもせず、代わりに黒い水草が絡んだ。
カヲルの背後にある岩間から気配を感じたが、その隙間から突出した黒い水草が邪魔をしてよく見えない。
水草を指でかき分けると、女と目があった。
女の血走った目は、にたりと半弧を描いた。
黒い水草は指にからんだまま解けない。
──水草ではない、髪だ。
そう気づいたとき、千は口を開き大きな泡を二、三吐いた。
泡が弾ける。
欣────────────。
風鈴のような涼やかな音が波紋となって逃げていった。
『ほぅ、ずいぶんと入れ込んでいるようだ』
髪を伝う振動の高低起伏で女の言葉がわかる。女が音へ気を取られている間に、千は岩場を足つぎにして、水面を目指した。細い髪の束がテグスのようについてくる。まるで釣られた魚だ。岸へ上がろうと枝に手をかけた瞬間、水中で蕩揺していた髪が直線に伸びきった。
千の腕が肩ごと沈む。
「危なかったな」
引力から開放され水面から顔をあげると、死んでいたはずのカヲルが陸で刀をふるっていた。指に絡んだ髪が遠くで断ち切られている。
「師匠、ご臨終なさったかと!」
「死ぬかよ。あれは偽物、人形だ」
「人形?」
千が岸へあがり再び沼を見やると、藻のように散らばっていた髪は正中部に集まり、人型となり浮き上がっていた。髪をかきあげ露わとなったのは、見目麗しい女。その傍らには首の折れたカヲルが立っていたが、女に突き飛ばされ沼に沈んだ。
「あれが人形──」
女は柳眉を逆立て、言った。
『そう見せつけられては、妾も見逃せぬというもの。覚悟しい』
「待て待て、この娘は俺の弟子だ! ただの弟子! 手を出されては困る」
カヲルが水を滴らせながら、取り鎮めようとする。
「ほら、今朝に揺れがあったろう。沼の祠が崩れちゃいないか、見にきただけだ。現に傀儡の首が折れているではないか」
『妾の眠りを妨げるほどの昂りと熱を感じたが?』
「至極当然、あなたに会える喜びの証といえよう」
『心にもないことを。この娘、手入らずではないか。下手に手が出せぬほど大切か。ちょうどいい、御霊ごと吸いつくしてくれるわ』
「お、俺が面倒な生娘を相手にする譯がないだろう! それも、こんな小童」
『その豊満な身体をもってして、さすがに小童は無理があろう』
視線が千の胸もとへ注がれる。
異議なし──。
カヲルはやむなく刀の先尖を下げると、やわらかな土の茂みに放り投げた。それからぼそり、つぶやく。
「あーあ、この沼お気に入りだったのに……」
指を激しく交差させ印を結ぶ。女はさせまいと千へ髪をのばすが、身体を包む衣がそれをはねのけた。
「無駄だ。お前だけには触れられぬようにしてある」
『妾を裏切るか……!』
「裏切るね。千の命には変えられない」
『そこまでして──』
女はその言葉を最後に断末魔をあげ、呆気なく沼に沈んだ。女の髪が水に溶け、瞬く間に黒く濁っていく。一面、墨のように染まると、やがて女が居た場所に、着物を着た木の人形が浮かんだ。
そばへ寄ってきたカヲルへ、千が訊ねる。
「もしかして……、私、また囮でした?」
「違う。すべて俺の落ち度だ」
「あの人形は──」
「俺に似せた傀儡だ。彼女は人柱を要する沼の主だった。生け贄をやめないか忠言したところ、祠に俺の傀儡を祀ることで鎮まった。沼の手入れが上手く、俺もよく遊びに来ていたんだが、なにしろ嫉妬深くてな……巻き込んでしまい、すまない」
「師匠は、言葉足らずです。いつもいつも」
千は苦虫を噛み潰したような顔で、カヲルを睨んだ。
「……お前。まさか、俺が言ったこと鵜呑みにしていないか」
「私は生娘で面倒とか小童とか、そういうことですか」
「あのときの場を収めるための、妄言。すべてまやかしだからな! 現に俺は、少し近づいただけで──」
カヲルは千の肩をつかむと、目線を下へずらした。千に着させた着物の小袖は、水に濡れると溶けたように軽くなる。また沼の主の髪を織りまぜることで、結界作用があった。ただ水からあがると、肌の色がわかるほど透けてしまう。
パンダのパンツは然り。たわわな胸を包みこむ、白いレースたっぷりのブラさえも。
「めちゃくちゃ手を出したい」
「お気遣いは、いりません」
千は近づいてきた顎に、間髪入れず膝を入れた。カヲルが己れの人形とともに沼へ沈んでいく。
振り返ることなく馬に跨ったが、来た道を帰りながらも千は困った。
カヲルの邸には風呂がない。もういっそのこと、魔法円を踏んで帰ってしまおうか。その日中の往復は身体への負担が限りなく、禁じられてはいるが。その心配は杞憂に終わった。
寝間着を着替えにしようと取りに西の対へ行くと、縁の下に大きなタライが置かれていた。なみなみと湯がはられ、ミケが一番のりしている。すべて見透かされているようで向かっ腹がたち、ミケを帳台へ追いやってから身体を清めた。
「ごめんね、ミケ。もしかして洗ってほしかった?」
着替えて帳台へあがると、ミルクパンほどの大きさに丸まっている。桶では股を開いて泳いでいたのに。
「あれ、ネコって泳げたっけ。そもそもお風呂が苦手では」
「にゃ、にゃお」
「まあ、ミケたんは特別だもんね?」
そもそも、ミケほど表情豊かなネコはこの世に存在しない。
「あーあ。もっと泳ぎたかったなぁ」
千は仰向けに寝そべると目を瞑り、沼のなかを思い返した。首の折れた人形が、水草から垣間見た女の瞳が、それを邪魔をする。主を失った沼は穢れで濁ったまま。再生には時間がかかることだろう。
「ミケ、私ね。今日もカヲルの為事の邪魔をしたの。祠が壊れていないか見に行っただけなのに、沼の主を怒らせて、カヲルの手を汚させてしまった。カヲル、よく遊びに行ってたって……きっと、思い出の場所だったのに」
今回に関しては、もう言い逃れできない。
「私、まるで疫病神みたい」
せっかく教示をしてもらっても、湯呑みの茶を沸かす程度。電気ケトルのほうが効率的だ。徹夜で描いた護符も効き目なし。時間の無駄だった。
「陰陽師なんて、なれっこない。私、もう来ないほうが、いい。ううん、来てはだめだ。カヲルの邪魔をしないためにも」
おままごとのような師弟関係はやめよう。
目の端から涙がこぼれ落ちる。
その涙を舌ですくう、ミケを脇に引き寄せた。ミケは耳を垂らし、総身をふるわせている。
「悲しんでくれるの? ありがとう」
千は寝入り端に思った。
カヲルはホッと胸を撫で下ろすだろう。
疫病神が居なくなるのだから。
翌朝、なにもなかったように縁には朝御膳が置かれ、右手にカヲルが座っていた。千は鬱々たる思いで隣に膝をいれた。
「おはようございます。昨日はお湯をいただきありがとうございました。師匠も無事帰れたのですね」
「顎がはずれて岩場に頭を打ちつけたがな」
「それはそれは」 申し訳なくはない。
「護符をたくさん用意していらっしゃいましたし、なんの心配もしていませんでした」
「それなんだがな」
カヲルが袂から取り出した治癒符に見覚えがある。自分で書いたのだから当然だ。
「俺が持っていたのは、これだけだ。つまりは、千の描いた護符には効能があった」
「私の、護符が?」
「千、以前、湯呑みの茶程度しか沸かせないと言っていたな。では今、あの桶の水を沸かせてみろ」
カヲルは縁の下を指差して言った。湯はすでに冷たい溜め水となっている。
不安だったが、習った呪術を実家でしか試していないことは事実だ。千は御膳にのったすまし汁の湯気を向こう側へ投影し、集中した。
「……わぁ!」
思わず嘆声をこぼすほど桶の湯が沸き上った。湯気は屋根までのぼっている。
「できました! 師匠!」
「上出来だ。これではっきりしたな」
干魚に箸をつけながら話す。
「以前、足を運んだ際に気にはなったが、あちらの世界は異様に神の気配が薄い。呪術そのものの威力と効果が減るのだろう。治癒符が効かない原因はお前ではないよ。もっとも母上の怪我は、ほかに祟りや呪の類の気がないか、調べる必要があるが。──ほら」
嬉々として湯気に見入る千に、皿をすすめる。
「食べたら傀儡の作り方を教えてやろう。便利だぞ」
「……っ、でも、私……」
皿に目を落とす。大好きな蒸し栗だ。それでも申開きをするならば今だと、箸をとらず息を吸った。これ以上迷惑をかけられない。ふたりの師弟関係は、今日で終止符を打たなければ。
「師匠、お話しが──」
「言っとくけど! ブラジャーが、みたかっただけだから!」
──は?
千のまぶたが半分落ちた。俗に言う目が据わるというやつだ。
「漫画ではしょっちゅう出てくるけど、こっちではないだろう。千の身体の曲線を見てると、どうもつけてるみたいだなと思っていたわけ。それで先週、宙吊りになったときに確信したんだよな。正面からしっかり見たいって」
「あの、師匠?」
「少しみたら、ちゃっちゃと為事終わらせて帰ろうって、思ってたんだけど、もう想像以上のエロさでさー。泳いでるとこも、ほら、めちゃくちゃドキドキしちゃったし! そりゃあ沼の主も怒るよな!?」
「それでは確認ですが、私に一切罪はないですね?」
「うむ。すべての責任は俺にある」
「よくわかりました」
千はそれから黙々と食べた。カヲルは「え? 蹴らないの?」と拍子抜けしたが、食事中だからかという納得と覚悟を胸に、こちらもしっかりたいらげた。
「ごちそうさまです」
「あの、千。それで……、来週も来るよな?」
「来ますよ。まだまだご教授いただかないと」
「やったー! じゃあ来週は水着な! ほとんど紐みたいなやつ。俺が沼掃除しとくから!」
「……着てくるわけ、ないだろうがぁー!」
千は両足を使って飛び蹴りした。
縁の下に落ちたカヲルは桶にダイブ。全身火傷を負い、千の描いた護符は晴れて完売御礼となった。