ブラジャーをみたかっただけのようです(壱)
「不知火神社に、診療所をつくろうと思う」
お賽銭を数えることが趣味の堅実な娘が、突拍子のないことを言い出した。千の母親は両手で大事に持っていた鏡を、両足に落っことした。
「ッア──────!!!!!」
実にいいリアクションだ。産みの親の白目など、なかなか見れるものではない。鈍い音がしたが、千は胸を張って言った。
「私に任せなさい。この女陰陽師、千速が治してしんぜよう」
「あんたが? なーに言ってんだか」
今どき両手を天に向ける母親もめずらしい。娘を小馬鹿にしたこと、吠え面かかせてくれるわと、夜なべでこさえた治癒符をぺたり、両足に貼った。
「なにこれ、新手の湿布?」
「否。いや、そうとも言えるかもしれないな」
「まわりくどいわね。でも、たしかに痛みはひいたかも」
「そうであろう。そうであろう。やはり私の呪力に嘘偽りなどないのだ」
ペリリ、はがせばあら不思議。二倍にふくれあがっているではありませんか。紫色に変色した母親の素足は、見るに耐えない。
「え!? なんで!?」
「あちゃー、結構ひどいわね」
「ちがうよ、この護符のせいじゃないの」
「わかってるわよ。お父さんとおじいちゃんを呼んできて。あんたは約束があるんでしょう、今日は土曜日よ」
そう言いながら私を手で払った。
「ごめんなさい、私」
「誰も、ずいぶんと遅咲きの中二病だと。だなんて、言わないわ」
「いやそんなこと言われるとは、微塵も思わなかったけどね」
ともあれ千は、全速力で境内を走った。将棋をうつ父と祖父の首根っこをつかみ、母親のもとへと更に走る。
千は、目をしょぼしょぼさせた。
──護符が効かないなんて。試しにと、じいさんの少ない毛を剃らなくてよかった。朝に鏡をみたら、ショック死をしていたところだ。診療所を開くなどと、世迷言がよく言えたものだ。
父が母をおぶさり、病院へむかう後ろすがたを見送ると、とぼとぼと足を納屋へ運んだ。じいさんが鏡をみるなり、真っ青な顔をして神殿へ駆け込んでいたが見なかったことにした。今は恥ずかしくて顔向けできない。千は寝不足の身体にむち打ち、納屋で光る魔法円を踏んだ。
「こんにちはー。ひゃっ」
異界の魔法円は宙に浮いていた。千は、着いてすぐに尻もちをついた。
「いたたた……」
「むぅ」
カヲルが下敷きになって、むくれている。
「師匠、なにゆえ下敷きに。大丈夫ですか」
「大丈夫ではない。千こそ、なにゆえ制服ではないのだ」
「そんな毎度、着てられませんよ」
減るもんじゃないからと前回は着ていったが、スカートはしわくちゃ、足は冷え冷え、精神はゴリゴリに削られ散々だった。小人に扱われるのも、スカートのなかをのぞかれるのも、御免こうむる。
「師匠、まさかまたのぞこうと……」
「馬鹿を言え。この一週間、千のパンツを心待ちにするほど、暇ではない」
「そうですよね」
千は胸を撫で下ろした。
今日はパンダだ。
「……パンダ、だと?」
「読心術ですか」
「読んでいない。一週間をかけ、糸口を見出し、みつけた答えがパンダさんだ」
やはりな。と口もとに手をそえる。
その怜悧な顎先に蹴りを落とそうと、立ち上がった拍子に足を滑らせ、二度もカヲルの腹に落ちてしまった。
「ガハッ──! 不意打ちなり」
「ごめんなさい! みぞおち大丈夫ですか!?」
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」
「どうしました、師匠。まるで陰陽師のようです」
「陰陽師だ。早く下りてくれ。俺が神を冒涜する前に」
そんなに重かったか。千はしゅんとした。今度は慎重におりようと足もとをさぐれば、床一面に治癒符がばらまかれていた。滑った原因はこれか。
「こんなにたくさん、どうしたんですか。今日のお務めに必要なのですか」
「いや、まったくもっていらないな」
「はっきり否定されましたね」
身体が拒絶反応を示し遠くへ離れると、カヲルもまた上体を起こし、さっそく腹に護符を貼った。
「この通り、弟子の暴力対策だ。先週は足りなかったから、多めに描いた」
「さっそく使わせてしまったというわけですね」
「まったくだ」
「師匠に無駄な時間を割かせてしまい、申し訳な……くは、ないな。自己責任では?」
「そのとおりだな」 アホなの?
「さすがにこんなに使わないでしょう」
「いや、使う予定だった。
──いつ死にかけてもいい。俺はな、その心づもりで望んでいたんだ。それなのにお前というやつは、女子高生の制服を差し置き、巫女装束を選んだ。正真正銘、生娘である千が、神に使えし巫女の、袴すがた……。頑ななまでに隠し通したパンダ柄のほうが尊いと今、悟ってしまったではないか」
長年の研究が報われた博士のような様相を呈しているが、一寸意味がわからない。
「宙に魔法円を描く技を習得するに、一週間かかった。愚策で終わりかけたが、頑張って描いてよかった!」
「夏休みの宿題か」
千は軽いジャブをくりだしかけたが、グッとこらえた。その手で散らばった護符をひろい集める。
「あまったら、もらってもいいですか」
「どうした。家族に怪我人でもでたか」
「はい。お母さんが足に怪我を。私が描いた護符を貼ってみたのですが、その……効き目がなく」
「千が? 勤勉だな。いいことだ。どれ、描いたものがあれば見せてみよ」
「これなのですが──」
徹夜でこさえ、札束のようにまとまった護符を渡す。
「ふむ。なるほど」
「どこか描き間違えてますか?」
カヲルが難しい顔をして、唸った。
「いや大したもんだ、キレイに描けているよ。ただ試すにも、千に蹴り落とされる理由がすぐに思いつかん」
「そうですか。残念です」
千は疑心を抱いた。
ん? ということはなにか。
いつも蹴り落とされるための理由を、練りに練っているのか? 護符の数だけシナリオがあるとでも?
「そういうとこ、ほんとうに気持ち悪い」
「お褒めの言葉に預かり、感謝する」
「褒めてないから預からないでください。なんなら今、理由なしに殴りましょうか」
「何を言っている。千は、筋合いなしで人を傷つけたりしない。本当はとても心の優しい女だと、俺は解釈をしているつもりだぞ」
一瞬、時が止まったかのように思えたが気のせいだ。千が顔を赤くしたが、カヲルは気づかない。大人びてはいても、やはりまだ十六歳の少年なのである。
漫画を横にずらすと、嬉しそうに白い小袖と袴を差し出した。
「制服姿を見たかったが、どのみち今日はこれに着替えてもらう」
「これは……、んん?」
上下ともに心許ない薄さである。
「すでに軽蔑の眼差しを感じるので先に言っておくが、水中に潜りやすいよう、特別に仕立てたものだ」
「今日のお務め、お水に入るのですか」
「今朝がた、妙な地震があってな。そのせいか隣山の妖が荒れている。俺は沼の中の様子を見ておきたいんだが、千は泳げるか」
「沼でですか」
泳げるかどうかというより、感染症が気になるところだがここで逃げたら女じゃない。試されると燃えてしまう、それが千という娘である。
「沼は初めてですが、がんばります」
「がんばらんでいい。沼底にある祠に綻びがないか調べるだけだ。千は沼の生態系に乱れがないか回遊しながら探してくれ」
「回遊……沼を……」
「無理はしなくていい」
「やります!」
千は、意気込んだことを邸を出てすぐに後悔した。
馬を走らせ谷を渡り、隣の山の山道に入ると、陰陽師らしき人間とちらほらすれ違った。みな一様に黒い狩衣で、疲弊と返り血を肌に染めている。仮に現実だとすれば命がいくつあっても足りない。沼はさぞかし腐敗した死体で汚れていることだろう。
馬の歩を進め、中腹に建つ紅い鳥居を潜ると、急にひと気がなくなった。昼間だというのに霧がかり、虫の気配もない。
「山の聖域に入った。沼はすぐそこだ」
「沼……? これが?」
千の頭に描いていた沼とはかけ離れた、美しい水溜まりがそこにはあった。水は沼底の苔がみえるほど澄んでいて、陽の光が水面に静かに揺らぐ。ボートで一周すれば三十分かかるであろう広さの沼は立ち入るなとばかりにびっしりと木の枝に囲われていた。
「海とは違う。身体が沈みやすいから気をつけ────聞いてない!」
カヲルが馬を木につなぐわずかな隙に、千は枝にぶら下がっていた。
「お先に」
「待て! つめたい、やっぱり無理ー、こわーいとかないのかよ!」
「だって、こんなに綺麗なんですよ!? 時間がもったいないです」
「まあ、待て。説明くらいさせろ」
カヲルが呪を唱えると、水面に衝撃波が走り、煙が上がった。水中にふつふつと細かい泡が泳ぐ。
「これは?」 せっかくの透明感がもったいない。
「水中で息苦しくないように、空気を送り込んだ。五分は潜れる」
「なんでもありですか。まあでも、師匠が五分というならば、私は一〇分ですね」
「ほーう。大口を叩いたからには、ついてこられるんだろうな」
カヲルはニタリと笑うと、水飛沫をあげて飛び込んだ。先手を打たれてしまい、競争心に火がついたのは千のほうだ。
「私、負けず嫌いなんですよね」
千は眼鏡をはずし思いきり息を吸いこむと、枝をしならせ沼へ指先からつっこんだ。
沼のなかは魚たちがざわめいていた。シャボン玉のような空気のあわ玉に、人間たち。その幻想的な世界で、カヲルは千を待ち、沼底から半分ほどの深さでゆっくりとたゆたんでいた。
一方、千は手をふる師匠を無視。軽々とカヲルを追い抜かすと、沼の底に手をついた。
──ふん、アワビが食べたいとばあさんに言われるたび、海女さんといっしょに素潜りしていた私ですよ。
実際食べていたのはトコブシという別物であったがそれは置いといて。
水面のほうへ振り返り、改めてその情景に酔いしれた。降り注ぐ光に反射する苔や水草の色が、あわ玉に淡く映る。その隙間をぬう魚たちが放射線を描き、まるで宝石に閉じ込められたような、そんな怖さすら感じた。
千は思う。
カヲルのあのエメラルドの瞳は、神さまがこの沼をふたつ、はめ込んだのではないか。
──あれ……、見えてる。なんで。
カヲルが人魚のように泳いでくるのが、はっきりと見える。金ピカ袴の、光の反射作用──?
自分はその重そうな着物のままなのかい。などと、ぼんやり考えていると、カヲルに腕をつかまれ一気に水面へ上がった。
「ぷはっ、お前、すごいな!?」
「師匠っ、水に潜ったら、目が見えるのですが!」
「見えなきゃ、為事にならんだろうが」
「そうですけど!」
目をキラキラさせ、カヲルの肩をつかむ。その反動で、たわわな胸が半球浮き上ったことを、本人は知らない。
カヲルはソッとその手をはずした。
「気安く触るな」
「えー! それはさすがに傷つきますよ、私!」
散々、足を撫でまわしておいてそれはない。
「と、とにかくだ、それだけ泳げるなら問題ない。俺は祠へ向かうから、千は岸辺を泳いでいろ。何かあれば、すぐに知らせてくれ」
自分で引っ張りあげておいてまた直ぐに潜ってしまった。何かとは、大雑把すぎやしないだろうか。知らせろって、水のなかをどうやって?
沸々と怒りがこみ上げてくる。
つまりは、はなから期待していないということだ。為事の邪魔だから泳ぎでも愉しんでいろと。
「……馬鹿馬鹿しい」
当然だ。囮にしかなれない弟子になにを期待すればよいのか。
千は早々に怒りに見切りをつけ、沼の底をみつめた。