まじめに修行したいだけなのに(弍)
邸の回廊と外堀を一周ずつ回ったが、使い奴とすれ違うばかりで変化はない。池のある庭かと内へ入ると、女の高らかな声が耳をついた。まさかと、女主人の部屋をのぞけば宣告通り、カヲルと酒を酌み交わしている。もう今にもアハンなことが始まりそうな雰囲気だ。
フツフツと腸が煮え返ってくる。
千は心のなかで叫んだ。
お酒は二十歳になってからー!
「もう一発蹴り落としてやろうか」
『呪い殺してやろうぞ』
「そんな物騒な。──え?」
御簾から顔を離せば、向かいにぬらりひょん。
『主である私の部屋でよくも。妻もろとも皆殺しにしてくれる』
千は腰を抜かした。
大きく出たが、茶を沸かすていどの呪文でなにができようか。
「おやおや、千も罠にかかったか」
沙、と御簾を上げカヲルが現れた。殺意むき出しのぬらりひょんが飛びかかろうとするが、その二本足は板場に貼り付き動かない。目を凝らせば蒼白い魔法円が浮かび上がっていた。御霊を呪縛する方術だ。
「なるほど。思ったより怨が強いな」
「怨?」
「ぬらりひょんは、この邸のご主人だ。老いた自身を自嘲し妖怪に化けた怨霊さ」
「ひぃっ、あなただったの!」
えりもとを乱し肌を紅潮させた女主人を目に入れたぬらりひょんは、そんな妻を見たくもない、いや己れを見られたくない──とでも、言いたげに顔を背けた。こちらへ無防備になった後頭部にはえぐったような傷あとがある。
「あたまが痛そうですね。それに傷口が池の石にピッタリ合いそうです」
「サラリと確信をつくなよ」
カヲルは頭をかきながら、女主人へ面倒くさそうに話した。
「あんた、この邸の当主だった旦那を、正しく弔いもしなかっただろ。それどころか忌中だというのに、遺産で好き勝手をしていたな。家財が少ないわりに、酒とつまみは豪華で、年ごろの使いやっこが多い。あいつらが困っていたのは、妖怪ではなくあんたに対してだ」
千は目をまるくした。
「えー! じゃあ旦那殺して、その遺産でいたいけな少年たちをもてあそんでたってこと!?」
「だからお前は、もう少し言葉を選べ!」
カヲルに言われて、ハッとする。
女主人とぬらりひょん、両者からの視線がいたい。特に女主人からは強い殺意が感じられ、手には小刀が握られていた。
カヲルが鞘に手をかける。
「俺の弟子にかすり傷ひとつつけてみろ。今すぐあんたの首を切って、検非違使に突きだす」
「くっ……!」
さっきまで酒を呑み交わしていた男に裏切られたのだ。
女主人は目を血走らせ、カヲルに刃先を向けた。
カヲルもまた鞘から刀を抜いたが、
『よしなさい。私は七代続くこの邸を護りたいだけ』
ふたりの刀を言葉で止めたのは、ぬらりひょんだった。
『私が消えれば終わる話しだ。そうだろう? 若き陰陽師よ』
「はい。ですが、よろしいので?」
『ああ。邸と領地の権利は、すべて隣町に住む弟夫婦へ」
「わかりました。私がそのように取り計らいましょう」
そう言うと、カヲルは女主人に向けていた刀を、ぬらりひょんの首へ、やおらに落とした。ふくらんでいた頭がみるみるうちに、梅干しのようにしぼんでいく。
「終わりました?」
千の問いにカヲルはうなずき、刃身に力をこめた。
「うそつき──────!」
首は池まで転がり落ち、消えた。
*
うんうんうなされていた千は、気づけばカヲルに支えられながら崖に沿った山道を馬で走っていた。
「ナマクビコロコロー!」
「その件については、すまないと思っている」
ほんとうにすまなそうに言うので、千の重いまなこはすっかり開いてしまった。
「ぬらりひょん……じゃなくてご主人は、殺されたんじゃないんですか。彼女に」
「そうだな。あの様子じゃあ、巻き添えの使いやっことともに、遺体は池に沈んだままだ」
池の水温が上がれば、腐敗した死体が二体浮き上がる。
殺人が明らかとなれば、彼女は死罪だ。
ぬらりひょんはそれを恐れた。
「彼女、捕まえなくていいのですか」
「旦那が望んだことだ。邸から放り出せば、故郷にでも帰るだろ」
「ちょっと現代では、信じられませんね」
「罪人ばかりのこちらではな、事件を明白にすることがかならずしも、正解とは限らない」
ぬらりひょんの後頭部に詰まっていたのは、妬み嫉みだけじゃない。
彼女への愛──。
「ぬらりひょんは、生首コロコロだったのに……」
「生きた人間を殺せるほど強い怨霊だ。それも七代続いた血族。あのまま放っておいたら邸に根を生やし、領地ごと呪っていた」
「そうなる前に荒んだ魂を鎮めることが、師匠の御役目だったのですね」
真上の空には、東京からは見えない星がまたたいている。まるでガラス細工のような空。もっと見上げたくて、千はカヲルの胸に頭をあずけた。
「やめんか、ドキドキするわ」
「師匠は、お酒に酔っているだけです」
「確かに、あれはいい酒だった」
何を思い浮かべているのか、名残惜しそうに舌なめずりをする。
「私のことなんかほっといて、アバンチュールの続きしてくればいいじゃないですか」
「お前、本気でいってんの? ヤキモチ妬きなくせに」
「だぁれが、変態陰陽師なんかに」
「じゃあ、なんでのぞき見してたんだ」
「も、もちろん妖怪退治です」
「じゃあ、なんでその妖怪と仲良く肩並べてたんだ。おかげでちょっと焦ったわ」
「お師匠が彼女に手ぇだすからでしょうがぁ!」
「手ぇだしてはいけない、そんな決まりはない」
「じゃあ、アバンチュールしてくれば」
「ヤキモチ妬かないか?」 ぬらりひょんみたいに?
「だぁれが、変態陰陽師なんかに」
「本当にいくぞ、いいのか?」
「はい、いってらっしゃーい!」
コロコロ転がり去るカヲルをアデュー、パッパカと華麗に馬を走らせた。幼少期より抱いてきた、麒麟や朱雀といった聖獣にまたがる夢を捨てきれず、乗馬を習っていて心底よかったと思う。
誰しもが憧れる異界での生活。
現実は、ガソリンどころかガスも電気もない。風呂も満足に入れない。不便なことばかりだ。千は勢いよく手綱をひき、急坂を登った。
カヲルの邸は山奥の、沼のほとりに建てられている。カヲルの袴と同じ金ピカな鳥居を潜ると、いつも泊まっている西の対へと一直線に突き進んだ。
「もう寝よ、寝よ!」
千は思う。
毎週末泊まりにくる私のことは気にもとめないくせに、色っぽい美女を前にしたらすーぐさかる。あの変態陰陽師、私のことを女子どころか漫画をもってきてくれる乳としか見ていないのだ。そりゃ地味な上に瓶ぞこ眼鏡をかけてるし、今どき一度も染髪したことない黒髪は呪われた日本人形みたいだと同級生にからかわれ、生まれてこのかた女子あつかいされたことは一度もない。カヲルにしてみれば、新しい飼いネコ程度の存在だろう。
こっちだって金を背負ってきたカモにしか思ってないんだからと、鼻息荒く御帳台へ上がった。
「ただいま、ミケ」
夜を過ごす帳台には小さなミケネコが棲んでいる。カヲルは飼いネコ同士仲良くやってろと広い邸の中、このはしっこの部屋を選んだつもりだろうが、千にとっては当たりくじといえる。
きょろきょろと辺りを見回し、無人を確認。
顔の筋肉を全力でゆるませ、ネコちゃんに抱きついた。
ネコ好き、大好き、可愛いすぎ!
甘え上手なミケしゃんは一番好き好き!
「しゅきしゅきしゅきー! 一週間、ミケに会えなくて寂しかったよぅっ」
「にゃおーん」
「ミケも? ふぇーん、今日はいっぱいギューてしてあげるね?」
「にゃんっ」
甘え上手なミケは直ぐに着物の中へ潜りたがる。千が薄く白い寝間着に着替えると、間もなく懐へ入り込んできた。
「今日はね、ぬらりひょんっていう妖怪に化けた、怨霊を除霊したんだよ?」
「へにゃー」
それからいつもの事後報告。
ミケは飽きもせず、千の独り言に相槌をうつ。
「人の怨霊だったなんて、わたし全然気付かなかった。やっぱりカヲルって凄いよねっ!」
「にゃはーん」
「いつもとぼけた顔してるくせに、太刀をぬくときは、とんでもなくカッコいいんだよ、もうー」
「にゃおー?」
「いつもあのキリッとした真面目顔だったら、ドキドキしちゃうよねっ」
「にゃ、にゃお!」
ミケが耳をたてて喜んでいる。
「ご主人様が褒められて嬉しいの? ミケもカヲルが大好きなんだね」
「にゃ!?(も!?)」
「私、今日も足手まといだったんだぁ。こんな役立たずな弟子で、申し訳ない」
ふふふっ、と力なく笑いながらミケをなで回す。
千は思う。
カヲルは優しいのだ。漫画だ、乳だ、なんて言いながら私みたいな厄介者を嫌がりもせず連れていってくれる。怖がりな私を和ませるためにわざとふざけたりするし、危険な修羅場の前には、私を遠ざけるためにケンカを売ってくる。
「それなのに私、怨霊と一緒に罠にかかったんだよ、大失態だよ。それを、叱りもしないんだもん」
心遣いのすぎる十六歳には息抜きにアバンチュールも必要だ。
「今ごろカヲルは、美女の乳で寝てるのかな」
「にゃおにゃお」
「だらしない顔が目に浮かぶなぁ」
「にゃぱー」
ひしゃげた顔が愛しくて、ぎゅうと胸に抱きよせる。ミケに癒されているはずなのに、千の心の奥はざわついた。
「お似合いだったなぁ……」
隣にならび、膳をかこいながら肌を触れ合う美男美女。さえない千には、とうてい築けない男女の関係だ。
失恋が決まってる恋はしたくない。
だからこれでよかった。朝帰りしたカヲルのやらしい顔をみれば、きっと見切りがつく。
推しは今日も元気に変態でなにより、と。
「ねぇ、ミケ。私もいつかカヲルみたいな陰陽師になれるかなぁ」
「にゃおん」
「うふふ、ありがとうミケ。わたし頑張るね」
「にゃああーん」
日中遊び疲れたのか、仔猫が一丁前に大きなあくびをこぼした。
つられる千。昼寝を何時間しても、帳台の上ではいつも朝まで爆睡だ。再度ミケを引寄せ、寝る体勢へと入った。
「はぁい、おやすみのちゅう」
「ちゅー」
また明日の朝にはいなくなってるんだろうと思うと余計に愛しくて、ミケを胸にうずめさせたまま、眠った。
*
豪華な朝ご飯が縁側に並ぶ、平穏な朝。出汁の香りで目がさめ、ふとんをあげると、ミケがぬくもりごと消えている。わかってはいても、千の心にはポッカリと穴が開く。肩を落とし帳台をおりれば、カヲルが先に御膳の前に座っていた。普段は母屋で食べているはずなのだが、千の泊まる日はかならず、この西の縁にて横ならびで食す。千は、子どもじゃないんだから、別にいいのにと思う。
「ん?」
隣に座ると、カヲルはにやけ顔どころかあぐらもかかず、キリッとした真剣な顔つきで、ビシッと正座していた。
「どうしました気持ち悪い」
「どうだ。キュンとしたか」
「朝から胸やけしました。もしかして、昨日の打ちどころ悪かったですか?」
「下半身に悪かった」
千は、ハッと息をのんだ。
あれか。コロコロ落馬した際、打ちどころ悪く。男の尊厳を削られたのか。
「なんかごめんです」
「お前のツンデレはラスボス級だな」
「そんなに痛かったですか」
「もう、ズキューンと」
そうかぁ。それはちょっとひどいことをしたなぁと後悔──はしないものの、来週はリクエストにお応えして制服を着てきてやるかと考える。
「それで、アバンチュールは楽しめました?」
「しつこいぞ。あれはぬらりひょんの怨念を引き出すための演技だ。殺戮未亡人に興味はない」
皇子時代は、子持ちの女官や後宮女人に手をだしまくってたくせに?
ああ、股間痛めてたから。ご愁傷様ですと、鼻先で両手を合わせた。
「千、俺はな──」
その隙に、カヲルは千の腰を引き寄せる。
「なっ……、なんですか」
「次に抱くのは、女子高生と決めている」
「……ぬらりひょんと一緒に成仏してこ────い!」
まわし蹴りがキマり、カヲルは庭木のごとく土にめり込んだ。
「紹介してあげたいんだけど、おあいにくさま」
さえない千には、女子高生の友達などいないに等しい。普段の学園生活を思い出し物憂げになりながら、タンコブこさえてお務めに向かうカヲルを見送った。