目覚めると、婚約者がいませんでしたわ。
自分ではあまり気にならない、と思っていたのだけれど。
ベラは、夜中にふと目が覚めてしまった。
ーーー地面というのは、思った以上に固いものですわね。
体に強ばりを感じて、少し身を起こす。
ペンタメローネ王国から隣国に向かう時は、それでも馬車の中であり、多少クッションのある座席の上で眠っていたので、毛布だけを被って眠るのは初めての経験だった。
ヴェルバは起きているのだろうか、と天幕の隙間から外を覗くと、虫の音が騒がしい森は闇に沈んでおり、空の星だけが明かりとして目に入った。
そして、焚き火が消えている。
ーーーいない……?
まさか、この山奥で、ベラを置き去りにして逃げたのだろうか。
少し不安になりながら、枕元に置いておいた杖を手にして天幕を出ると、木の根元で寝そべっていた陸竜のカーロが、首をもたげてこちらに頭を向ける。
「ヴェルバ様は……?」
問いかけながら近づくと、賢い竜はスンスン、と鼻を鳴らして、森の方に頭を向けた。
そちらの方角にいるらしい。
ーーーなぜ、火のそばを離れて?
夜の見張りをする、と彼は言っていたのではなかったか。
追うべきか、大人しくしておくべきか。
少し迷ったベラは、不安を紛らわすように、鱗と毛皮に覆われた愛竜の少しひんやりとした体に手を触れて、気付いた。
カーロは、落ち着かない様子で絶えず喉を鳴らしており、興奮したように鼻息を荒くしている。
よく馴れていて大人しい気質の彼女がこうした様子を見せるのは、珍しかった。
何かが起こっている。
そう察したベラは、逆に冷静になり、頭が冴える。
「……ヴェルバ様に、何か起こったの?」
カーロの様子から状況を把握しようと努めながら、ベラは仕込み杖を回して、キン、と刀身を引き抜いた。
黄色がかった目が輝いている時は、殺気立っている証拠だ。
血の臭いか、闘争の気配を察しているのだろう。
ーーー魔物。
一番考えられる可能性は、それだ。
ヴェルバは魔物の気配を感じて、追い払うために森に向かったのかもしれない。
「……行きましょう、カーロ」
『キュィ』
首筋を叩き、手早く縄を解くと、短く鳴いて答えた彼女が身を起こした。
背に飛び乗り、ベラは手で刀身を撫でる。
「ーーー〝氷の精霊よ〟」
言霊を発すると、大気がざわめいた。
氷の精霊が、応じたのだ。
察すること自体は、精霊と契約を結んだ舞闘士であれば、ごく普通のことなのだが……ベラは、特定の精霊との契約をしないまま、幼少の頃からそれを為すことが出来た。
それは、あらゆる精霊に愛されたというペンタメローネ王国建国の王以来、実に数百年の間、他の誰にも宿らなかった『見霊の才』である。
終戦の英雄であり【硝子の双剣】と呼ばれる霊剣を華麗に操る、稀代の天才パドーレ・トレメンスや、元騎士団長であり、封印の塔で聖剣を守護する剣聖アラン・トレメンスですら為し得ぬこと。
精霊と共に舞う舞闘士からしてみれば、羨望と嫉妬を一心に集めるほどの力であるがゆえに……ベラのその力は、親族の総意によって秘匿されていた。
契約を結ばぬまま、精霊を操ることを悟られぬよう、氷の精霊の力のみを行使して舞った結果……〝氷の剣姫〟と字名されるようになったのである。
剣に精霊が宿り、雪の結晶に似た紋様が走ると、刀身が薄青く輝く。
「カーロ。……ヴェルバ様の元へ」
精霊の力によって氷の霊威を宿した剣を手に、ベラはカーロの首筋を叩いた。
迷いのない足取りで走り出した彼女は、森の中に飛び込んでいく。
ベラは上半身を低くカーロの背に伏せて、身を委ねた。
常時使っていると疲れるため、普段は封じている精霊を見る目。
それによって、樹木や下生え、大気に偏在する精霊の姿を捉えることで、暗闇の中でも昼のように明るくはっきりと、ベラには周りの景色が見えていた。
行く手の先に、一際明るく輝く精霊の気配が現れて、思わず目を見開く。
ーーーヴェルバ様?
彼は、荒々しく跳ね回りながら何かと戦っているようだった。
しかし戦っている相手よりも、ヴェルバの周りにありとあらゆる精霊が集って彼に力を貸している様子の方が、ベラには衝撃的だった。
七色に輝く虹のような煌めきが、彼が動くたびに感じられる。
ーーー精霊に……愛されている……!?
ヴェルバが彼らに呼びかけたり、操っている様子はない。
ただ、彼の周りに群れ集い、まるで喜んでいるかのように舞う精霊たち。
ーーー彼は、一体……!?
自身の持つ見霊の力よりも、それは遥かに凄まじい力であるように感じられた。
だが、今はそんなことを考えている場合ではない。
意識を無理やりそちらから離したベラは、彼に呼びかける。
「ヴェルバ様!」
「来るな、ベラ!」
こちらに気づいたヴェルバが吼えると、彼の周りからザザザ、といくつかの気配が動き出す。
それらは、魔物ではなく。
「ーーー賊!」
感じた気配は、人間のもの。
隠れてこちらに向かっているようだったが、あらゆるモノを透過して見霊しているベラにとっては無意味だった。
「〝凍れ〟!」
一番近い賊に対して、ベラは剣を振るった。
刀身より精霊が力を解き放ち、間近の木や草ごと、賊の足が氷に包まれて凍りつく。
「カーロ!」
『キュィ!!』
その間も勢いを緩めずに駆けていた騎竜は、別の方向から来た二人目の賊に体当たりして吹き飛ばす。
どうやら、ベラを包囲しようとしているらしい賊に対して、目を走らせたところで。
「グゥルォオオオオオオッッ!!」
両手を大きく広げて、跳ねるようにこちらに向かってきたヴェルバが、凶悪な爪の生えた剛腕を振るい、姿を見せた賊の一人を地面に叩き伏せる。
「去ね! ベラに手を出そうとするのであれば、これ以上の容赦はせぬぞ!!」
ベラとカーロを背に庇い、ガルルル、と喉を鳴らして前傾姿勢で覇気を放ったヴェルバに、無言のまま残った賊が去った。
「……なぜ来た!」
「戦闘の気配をカーロが察しましたので、助太刀に」
賊が完全にいなくなったのを確認したベラが、仕込み杖に刀身を納めながら答えると、上半身を起こしながらギラリとこちらを睨みつける。
「奴らの狙いは、おそらくお前だった! みすみす危険に飛び込んでくるな!」
その強い口調に、ベラはかすかに眉をひそめる。
「なぜそれが分かるのです?」
何も話さずに襲ってきた賊が、どちらを狙っているかなど、どうして分かるのだろう。
「奴らは斥候を立てていた。俺はそいつの臭いを察した。俺が狙いなら、その時点で残りの連中のところに引き返しておかしくない。なのに、天幕の中を探るように動き出した」
「……それだけ、ですか?」
「斥候を立て、居場所だけでなく人数を把握しようとしていることから、ただの賊ではなく、訓練された動きをする連中だ、と言っている」
「……どこかの軍が、わたくしどもを狙った、ということですか?」
「俺が国の外に出るのは、イレギュラーだ。誰かが俺の行動を把握してこの速さで派兵するのは、おそらく不可能だ。であれば」
「……国を出る時から、わたくしがつけられていた、ということでしょうか」
ベラは、アゴを指で撫でる。
隣国に赴く際は、パドーレ他、ドンナ家の私兵も王国の兵も共にいた。
狙っていても手が出せなかった、ということだろうか。
「ですが、わたくしが隣国に赴くだけならばともかく、都の外に出ることは同様に不規則な動きでは?」
「そちらに関しては、間がなかった。諦めて引き上げる前に動き出したからこそ、これ幸いと狙ったのかもしれん」
そう聞くと、彼の言葉には信憑性があった。
「では、なぜ側を離れられたのです?」
「斥候は始末した。その後、そいつの臭いを辿って連中の潜伏している場所を急襲した」
だから、あんなところに居たのか、とベラは納得した。
「……申し訳ありません。少し軽率だったようですわね」
「分かればいい。誰が狙っているのかは、残った連中を尋問すれば知れるだろう」
カーロから降りて謝罪したベラに、ヴェルバはボソリと言い足す。
「だが、無事で何よりだ。武に秀でるという話にも、偽りはないようだしな」
「ええ」
しかし、賊の素性は不明のまま終わった。
ベラが氷で足を封じた者も、ヴェルバが叩きつけて気絶させた者も……様子を見に行くと、共に自害していたから。




