婚約者と、初めての野宿ですわ。
山道を駆け上がり、山頂近くでヴェルバは野宿を提案した。
ベラが騎竜を木立に縄で結えている間に、彼は荷物を背から下ろすと、テキパキと準備を始める。
天幕を足元に置いて紐を取り出すと、木立の枝に縛り付け、近い木立の枝を引っ張ってそちらと結ぶ。
そこに天幕をかけた後、地面の四隅にクイを打って天幕の四隅とヒモで縛った。
「……見事な手際ですわね」
あっという間に出来上がった簡易なテントを見て、ベラは感心した。
「この程度は、少し旅慣れていれば誰でも出来る。これから先のことを考えるのなら、君も覚えておけ」
そこから二人で薪を拾い集め、【火付石】と呼ばれる魔導具で火を起こすと、ヴェルバはベーコンと麦、豆、近くで摘んだ少量の山菜を煮込んだ簡単な塩味のスープを作った。
「まともな食事は、野宿では出んぞ」
「食事の質にこだわったことはございません」
固い黒パンを器によそわれたスープにつけて食むと、薄い塩味を感じた。
強く噛んでいくと、パンが少しずつ柔らかくなり、甘みが出てくる。
「悪くないですわね」
「最初はな。慣れたら飽きる」
獅子の牙でパンを噛みちぎったヴェルバは、見た目に似合わず豪快に流し込むようなことはせず、器からも少しずつスープを啜り、味わうようにゆったりと食事をとっていた。
「大きな体に似合わない食事の仕方ですわね」
「一気に食うと腹が膨れんからな。奪われる立場でなくなった後も、いつでも腹一杯飯が食える境遇でもなかった」
さらりと言われて聞き逃しそうになったが、彼の言葉は重たいものだった。
ーーー奪われる立場。
「この国の食事情は、そこまで切羽詰まっているのですか?」
「いや、俺が貧民街の出身だというだけの話だ。ゴミを漁って食い繋いでいた。傭兵になって多少はマシになった辺りで、ゆっくり食った方が腹が膨れることに気づいただけだ」
礼儀作法としてではなく、飢えをいかにして凌ぐか。
そのために覚えた食事の方法だと言う彼の境遇は、ベラには想像することすら難しい話だった。
ーーーこれは、言外に責められているのでしょうか?
国の状況を作るのは、土地を預かる貴族である。
戦争を起こすのも、税を徴収するのも、全て貴族。
その集めた税を、民の身や生活を守るために使う者ばかりではない。
豆を食みながらベラが少し俯いて考えていると、ヴェルバは何を思ったのか言葉を重ねた。
「俺は事実を言っただけだ。自分の境遇を嘆いたこともないし、むしろ運がいい方だと思っている。死ななかったんだからな」
「死にさえしなければ、それは幸福ですか?」
ベラにとっては、たまに食するからこそ乙なものと思えるこのスープも、固いパンも、彼にとっては日常……あるいは贅沢に類するものかもしれない。
そんな者が、この国にも、あるいは自分の過ごした国にも、大勢いる。
「何も知らなきゃ、食えるだけで幸せだろう。甘いもの、分厚い肉、味の濃いスープ、柔らかいパン。そもそも知らないなら、求めることもない。いつ食えるか分からなきゃ、腹が満たされるだけで幸せだ。そうだろう?」
「誰もがそうしたものを口に出来れば、より幸せなのでは?」
すると、ヴェルバは小さく笑みを浮かべた。
皮肉まじりではあるが、その瞳に浮かぶ色に侮蔑は浮かんでいない、ように思えた。
「もしかしたら、そうかも知れんな。だがそうなる為には、まずは皆が、この堅パンや塩のスープを毎日食えるようになってから、だ」
食事を終えたヴェルバは器を地面に置き、水袋を取り出してわずかに注ぐと、指先で器を洗う。
「今は、それすらおぼつかない」
「……そうなのですね」
ベラも食事を終え、ヴェルバ同様に器を洗い流す。
「もう少しゴネるかと思ったが、君は貴族にしては本当に珍しいくらい、旅の作法に抵抗がないな」
「どういう意味でしょう?」
彼の呟いた言葉に、ベラは小さく首を傾げる。
「こうした旅に関して、わたくしは初心者です。経験者に倣うのは当然のことかと思いますが」
「そう思えるヤツは少ない。今まで何度か貴族と旅をしたことがあるが、どいつもこいつも、やれ『食事が不味い』だの『不潔』だの、『自分がなぜそれをしなければならんのか』だのと文句を言っていた」
「ああ……」
もしこうした生活をした時に、それを口にしそうな幾人かの顔が思い浮かび、ベラは頷いた。
「我が一門は、そういう意味では異端かと思われますわ」
親族全員が、文武に高い教養をもって通ずることを求められる中、魔物に相対することすらも修練の内容に含まれている。
獣以上に凶悪で威光の通じぬ相手を、卒業に際しては一人で始末しなければいけないのだ。
そうした経験を通して、驕らぬことを心身に叩き込まれる。
「パドーレ兄様も、特段の文句は口になさらないでしょう」
「そう、そっちの国の第一王子も、グレンのクソ野郎も『珍しい』方の連中だった。だから和平も上手くいったし、それなりに上手くやれていたんだろうな」
ヴェルバは、荷物をまとめていつでも動けるように支度を整えると、毛布をベラに手渡す。
「さっさと寝るといい。寝心地がいいとは言えんが、風はしのげる。慣れない旅は、思った以上に体力を消耗するからな」
焚き火の前に再び腰掛けて、彼は張った天幕を指さした。
「お気遣いありがとうございます。ヴェルバ様はどうなさいますの?」
「番は必要だろう」
ーーー眠らないつもり、なのだろうか。
夜に見張りを立てること自体は、隣国に赴く際にも、行軍の教育を受けた時も聞いていて知っている。
「では、途中で代わりましょう」
「……何が危険で、何がそうでないのか、君に分かるのか?」
ヴェルバが、ベラの提案に少し険のある顔になったのは、おそらく気分を害したからではなく、山の危険さを知っているが故だろう。
「精霊の力を借りれば、多少は。……ですが、そのご様子だと、代わってもヴェルバ様は眠れなさそうですわね」
まだベラ自身が、信用されているとは言い難い状況である。
「分かっているのなら、その賢明な頭を下手な気を回す方に使わず、休むことに使え。俺も多少は眠るさ。浅い寝方くらいは知っている」
獣人の感覚は、常人よりも鋭いと言われる。
その感覚を生き抜くために、あるいは傭兵として磨いたのだろうヴェルバの言葉に、ベラは素直に従うことにした。
「分かりました。では、おやすみなさいませ」