ヴェルバ様の気持ちを、少しだけ理解出来たかもしれませんわ。
「貧民街の、堰を切れ」
襲撃に失敗して逃げた刺客の男は、自分の受けた傷に包帯を巻きながら、残った部下に命じた。
「時間がない。近くの門に潜ませていた手下は捕まったが、まだ別の門からの出入りは出来る。今すぐ向かい、適した場所を調べろ。俺もすぐに向かう」
その際に、爆発を引き起こす力を持つ魔導具を一人ずつに手渡す。
もし仮に誰かに見つかったとしても、その魔導具を使って突破する、あるいは自爆覚悟で堰を破壊することで目的を達成出来るだろう。
教会が、金と権力で逆らえぬよう従えている者たちは多い。
そして命を賭して信仰に殉ずる者たちも、同様に。
部下達は、逆らえない事情を持っていたり、狂信的な気質を持つ便利な使い捨てばかりだった。
そんな中で男自身は、少し変わっていた。
教会に弱味も握られていなければ、信仰心もない。
しかし、ペンタメローネ大公国とアンデルセン王国に恨みを抱いていた。
元は騎士の身分であり、先の戦争によって、妻子の住んでいた村がアンデルセン王国の愚王の命で焼き払われたのだ。
その後、和平を望んだ弱腰の現大公のせいでかの国を滅亡させる復讐の機会を、奪われてしまった。
ーーー許せぬ。
敵の滅亡を望んだ男は同じ思いを抱く者たちと共に軍を辞して、一人でも多くのアンデルセンの民を殺すために、野盗の真似事をしながら手駒を増やそうとしていた、ところで。
教会に誘われた。
そして今、貧民街には『攫うか、それが無理ならば殺せ』と命じられたペンタメローネ貴族の娘がいる。
ーーー和平など必要ない。
下らぬ調印の象徴である、その娘を殺すのに何の躊躇いもなかった。
あの弱腰大公の右腕である獣人の参謀も、情報を得れば貧民街へと向かうだろう。
出来ればこの手でくびり殺してやりたいが、一度襲撃に失敗した上で訪れた、両方とも始末する絶好の機会を逃すわけにはいかなかった。
決行は、夜明け近く。
昼でも、これだけ厚い雲が覆い薄暗いのならば、夜は真の闇だ。
誰の仕業かはバレない。
男にとって、最優先とすべきは娘と宰相であり、その為に貧民が何人死のうが、関係なかった。
その、恨みに支配された因果応報の連続が、自分の妻子を殺した村への襲撃だった、という事実を、男は知らなかった。
ーーー知っていたところで、何も変わりはしなかっただろうが。
※※※
「あの、貴族さま?」
着替えを終えて、夜。
まだ降り続く雨音を、寝そべったカーロを撫でながらぼんやりと聴いていたベラに、そう控えめな声が掛かった。
目を向けると、数人の幼な子が、少し遠巻きにしつつ声をかけて来た様子が見える。
「何でしょう?」
以前に慰労で訪れたアンデルセンの孤児院を思い出しながら、ベラは彼らに優しく微笑みを浮かべた。
氷の、と呼ばれるほどに愛想のない自分でも、守るべき民草を怯えさせるような振る舞いはしない。
こちらの笑みに少しは安心してくれたのか、肩をつつき合いながら目線を交わした子どもたちの中から、年嵩の男の子が一人、足を踏み出してきた。
「あの、兄ちゃんは危ないって言ってたけど……そ、その竜って触れない、の?」
敬語を知らないのだろう、おずおずと問いかけてくる彼に、ベラは戸惑った。
「触りたいのですか?」
「だ、だってカッコいいから……」
ひどく素朴な理由だった。
間近で見たことのない生き物に、興味津々なのだろう。
不安と期待が入り混じった彼らの視線を感じながら、ベラはカーロに目を向ける。
今は落ち着いた様子を見せており、子どもらに威嚇する気配も特にない。
少し思案してから、ベラは子どもたちに告げる。
「多少触れ合う程度なら問題はありませんが、まずはそっと、尾の方からこちらへ回り込んでください。あまり音を立てぬよう」
カーロは気難しいが、竜の中では気性が優しい方ではある。
世話は基本的にベラがしているが、竜安香を大量に焚けば屋敷の世話役にも多少は身を許していた。
パッと顔を輝かせた子どもたちが、言われたとおりにそーっとこちらに近づいてくる。
「そこに座って……一人ずつ、わたくしの側から離れぬよう。鬣、尾の付け根、ツノに触れてはなりません。竜が嫌がる部位です。大きな声を立ててはなりません。腹の横を、そっと触れる程度で」
目を見て一度ごとに注意しながら、カーロの機嫌を損ねないようにベラ自身が彼女に体を寄り添いつつ、触れさせていく。
鱗と薄い毛並み両方に覆われた不思議な体に触れるたびに、子どもたちはふわぁ、と息を吐き、あるいは緊張しながら息を詰め、触れ終わると笑みを見せてくれた。
「あったかいね……!」
「はい。力強く、心地よい体です」
「ちょっとザラザラしてるねぇ……!」
「鱗も毛皮も、身を守るためのもの。それが他の生き物よりも、硬く強いのです」
「この子、噛まないの?」
「無闇には噛みません。ですが、そう、仲良くなるのに時間がかかるのです」
ある意味で言えば、臆病なのかもしれない。
竜という生き物は、強く賢いがゆえに、逆に他の生き物を寄せ付けない。
その爪と牙は、容易く他者を傷つけるから。
ーーーヴェルバ様も、もしかしたら。
ふと、ベラはそう思う。
強く賢く、そして優しい。
なのに不当な扱いを受けて来た彼は、その体ではなく心を、冷たい言葉や侮蔑の態度で傷つけられてきたのだろう。
貴族社会にあって、彼は異質な存在だったから。
ベラ自身も、そうした面がなかったわけではない。
完璧すぎる、と。
淑女たるように、貴族たるように努めれば努めるほどに、自身の想いとは裏腹に、遠ざかる人が多かった。
だけど、その理由はもしかしたら、自分自身にあったのかもしれない。
自分が、人を遠ざけるように。
無意識に、傷付かぬようにと退けてしまっていたのかもしれなかった。
ーーーガストンに、無礼者だと威嚇したように。
カーロに触れて、屈託のない笑顔を見せる子どもたちは、彼を慕っていた。
ガストンが最初にベラに声を掛けてきた理由は、何だったか。
『このような場所で、貴族が寝泊まりするのは危ない』と、彼はそう言っていたのではなかっただろうか。
その時の好色な目線から、自分の身柄を狙っているのではと判断したけれど、実はそうではなかったのかもしれない。
子どもたちに接する態度や、貧民街に来た、たった一度出会っただけのベラをこの場所に案内してくれたように。
あの時ももしかしたら、本当にこちらの身を案じてくれていたのだろう。
貴族から見ると粗野な態度や、隠し切れていなかった欲。
貧民街に育った彼にとってみれば、それはごく普通の……それこそ身につける意味や、隠す意味がよく分からないことだったのかも。
敬語もなく、素直な子どもたちの笑顔を見て、ベラはそう思った。
ヴェルバからそうしたものを感じなかったのは、彼が誰も信用できず、隙を見せることすら叶わなかったせい。
人間よりもさらに立場が悪い獣人として貧民街で育ち、放浪の傭兵として戦場に立ち、大公に見出されて貴族の中に放り込まれた彼。
ベラは、この小屋に来て、感謝しながらも自分たちとはまるで違う彼らの存在に、わずかな疎外感を感じていた。
それは多分、ヴェルバが生きる中で感じていた気持ちを、極限まで薄めた程度の心許なさではあっただろうけれど。
参謀を辞すると、ベラを娶る気はないと、何故あそこまで頑なだったのか。
子どもたちの笑顔を見ながら、ベラは……少しだけ、彼の心の在りように触れることが出来た気がしていた。
 




