なぜ、あなたがここにいるのです?
―――カーロ! お願い、止まって!
土の路地に入り、ぬかるむ地面に足を取られながらも、ベラはどうにか、カーロの姿を見失わぬように追い続けていた。
陸竜の脚力は、当然ながら、人間や馬よりも優れている。
だが、肉食の獣は獲物を追う短距離の速さに特化している為、曲がりくねった街中では、十分にその脚力を発揮できていなかった。
それでも体力には歴然の差があり、どこかの時点で諦めて止まってくれなければ、距離は縮まらない。
ーーーカーロ!
顔を打つ雨が目元に滴り、視界を遮る。
煩わしい露を何度も首を振って払いながら、ベラはカーロを追い続けた。
そうこうする内に直轄地の外壁が、道の先に迫って来る。
馬が追い詰められるか、と思ったが……。
さらに運が悪いことに、馬の前には、解放されている壁門があった。
門の外で引き離されたら、カーロと再び出会うのは絶望的だろう。
それでもベラは、息が切れる中、こちらの騒ぎに気付いたらしき門兵たちに、怒鳴る。
「お逃げなさい! そのまま通過させて!!」
下手に制止しようとすれば、彼らが怪我を負ってしまう。
声が届いたかどうかは分からないが、門兵たちが少数の旅人たちと共に慌ててその場を離れた。
「感謝いたしますわ!」
これで少なくとも、カーロが街の住人を襲う心配はない。
―――と思ったのに。
門を抜けた水煙の先にあったのは、貧民街だった。
※※※
「ベラが門を抜けた!?」
襲撃者を撃退し、ベラを追ったものの見つけられなかったヴェルバは。
先にモーリエの元へ向かっていたパドーレと合流したところで、捜索者の一人に、彼女の行方を伝えられた。
「は。おそらく、ベラ様の陸竜と思しき竜と共に、貧民街側の門を抜けたという目撃証言が。その後、門は閉じました。何故今日は閉じられているはずの壁門が開いていたのか、現在門兵に聴取しているようですが……」
ーーー内通者か。
他人の耳があるので、口には出来ない。
そう思いながらパドーレを見ると、グシャグシャと髪を掻き回していた。
「クソ、だとすると厄介だぞ……お前らを襲撃した連中は、並の連中じゃねぇ」
辺境伯直轄地の門を開ける、という行動は、それなりの金と権威がなければ要求できない。
例えば、前の街で少し揉めた相手が領主並の権力を持っていたとしても、そうそう行えるものではないのだ。
まして、襲撃のタイミングと考え合わせると。
ーーーおそらくは、教会上層部か。
辺境伯と肩を並べるとなれば、その規模の権力が必要だった。
「どうする。普通の状況ならともかく、今はいつ河が氾濫してもおかしくねぇ……それに、襲撃が一回で済む保証もねーしな……」
「俺が行く」
襲撃者は、おおよそ捕らえたものの、おそらくは指揮官だろう、ベラを狙った男は、彼女に気を取られている隙に負傷しながらも逃げて行方がしれない。
「この姿なら、俺は目立つ。ベラが貧民街にいるのなら、噂が届けば向こうから見つけることも出来るだろう」
外様の獣人が入って来れば、貧民街の連中は警戒するはずだ。
自らの結束のみが拠り所である彼らが突っかかってくれば、そこから情報を得ることも出来るかもしれない。
さらに懸念があるとすれば、ベラ自身が、貧民街の連中にも狙われることだ。
ベラが貴族であることは、身なりやカーロを見れば即座にバレてもおかしくない。
様々な面で、猶予がなかった。
ーーーせめて、カーロと合流できていれば良いが。
彼女の腕前と陸竜の強さが合わされば、逃げるにしても戦うにしても、そうそう遅れは取らないはずだ。
「貧民街へ向かわれるのでしたら、私が辺境伯に働きかけてみますけれど」
黙って、馬車のドアだけ開けて話を聞いていたモーリエの口添えに、ヴェルバは即座にうなずく。
「頼みます」
「俺は、河の様子を尋ねに行こう。どの程度余裕があるかは分からん。……死ぬなよ」
「河と天に言え。洪水に巻き込まれれば、一人の力ではどうにもならん」
厚く陽の光を遮り、昼だというのに暗い影を落とす雲を睨みつけた後。
ヴェルバは、モーリエが呪具で辺境伯に連絡を取る間、ひらりと馬に跨ったパドーレに問いかける。
「……ここは、直轄領だぞ。たかが和平の一環である婚姻一つのために、無茶な襲撃をする理由が、あるのか?」
実際に、ベラかヴェルバが死ねば亀裂は走るだろうが、それだけで即座に破綻するほど、現在は両国家の上層部は無能ではない。
「何か別に、理由があるんじゃないのか? パドーレ」
その問いかけに、パドーレは片眉を上げながら口元を歪める。
「ヴェルバ、そいつは、乙女の秘密だよ」
「……」
「聞きたきゃ、本人に訊け。お前が心を開きゃ、簡単なことだ」
それだけ言い置いて去ったパドーレに、ヴェルバは思わず、奥歯を噛み締めて唸った。
ーーー心を開け、だと? そうしたら、ベラは俺の嫁になるのを諦めないだろうが。
あんな、お転婆で、頑固で。
一本筋の通った、良い女が……こんなしょうもない獣人に嫁ぐなど、勿体無いにも程がある。
ーーーベラ、無事でいろ。
ジリジリと焦れる内心を抑えながら、ヴェルバは貧民街の方角を睨みつけた。
※※※
「カーロ、良かった……」
ベラは、貧民街の入り口近くで馬を見失い、諦めたらしい陸竜にようやく追いついた。
まだ興奮した様子で頭を振り、喉を低く鳴らす彼女に、ベラは腰に下げた餌袋から取り出した干し肉をぶら下げる。
『キュィ』
「良い子ね。落ち着きなさい。そう、身を伏せて」
肉を目で追うカーロに、軽く手を伸ばしたベラは、そっと顔に触れて、膝を折ったのを見て肉を目の前に置く。
ガツガツと食み始めたのを見届けてから、目を上げた。
外套が重く、その中は疲労で汗が蒸れている。
しばらくしたら冷えて、より寒さが増すだろう。
その前に、せめて屋根のあるところに避難しなければいけない。
門の方を見ると、閉まっており、壁内に入るのは難しそうだった。
目の前にある貧民街は、申し訳程度の低い柵で覆われているものの、普通に出入り出来そうだった。
「仕方ないですわね」
落ち着いたらしいカーロに跨り、ベラはポン、と柵を飛び越える。
着地すると、いくつかの視線を感じた。
廃屋のような建物の影に、身を潜めた者たちがいるのだろう。
ーーー出来るだけ、目立たぬように。
カーロが一緒にいては難しいだろうが、人のいない場所を求めて移動していると、雨の音に混じって遠いざわめきが聞こえる。
ーーー何かしら?
騒がしいのは、近くに見える山と、直轄領の間辺りのようだ。
道が細いので、少し迷いながら慎重にベラがカーロの歩を進めると、不意に角から木の板がにゅっと突き出して、慌てて止める。
「板……?」
「な!? 竜!?」
訝しげな声を上げるのと同時に、それが誰かが運んでいるものだと気づいた。
板を持つ男性も驚きの声を上げる。
その顔を、見て。
ベラはぽかんと口を開けた。
「……ガストン?」
「あ? 何で俺のこと知ってーーードンナ嬢!?」
そこにいたのは、紛れもなく、宿屋でベラに絡んできた、色ボケ男だった。