陸竜が、逃げてしまいましたわ。
「ーーー好機だ」
傍らの馬に嵌めた手綱を手に、目立たぬ外套を羽織ったその男は呟いた。
視線の先にあるのは、石畳の大通りに面した宿の前に止まった馬車と、護衛らしき数名の騎兵。
そこへ陸竜を引いた少女が現れて、何やら御者とやり取りをしている。
竜は主人以外の存在に背を預けることはしない為、どうやら馬車に乗るかどうかで揉めているようだった。
結局雨の中であるにも関わらず、陸竜に跨った彼女と、連れ合いの青年が乗り込んだ馬車が並走し始めたので、男は馬に跨りながら、手で合図を出す。
すると、別の路地に潜んでいた者たちも次々に馬に跨り、馬車を追い始めた。
スォーチェラ・ベラ・ドンナ。
そして、参謀ヴェルバ。
魔薬を秘密裏に売り捌く男たちの主人は、彼らの始末に加えて貧民街に降った元部下も始末しろ、と命じてきた。
ーーー面倒なことだ。
やるならば、なるべく手早く済ませて脱出しなければならない。
貧民街に近い外壁の開門手配は行なっているが、辺境伯と男の雇い主自体は、別の派閥である。
教会の鼻薬を嗅がせた者たちも、そう好き勝手出来る土地柄ではなかった。
体を叩く冷たい雨の、馬の荒い息遣いと走破の、耳元で唸る風の、音。
馬の速度を上げながら、体力を奪う雨の滲む重い外套の下から、長剣を引き抜く。
男は、最初にこちらに気づいた陸竜に跨った少女に狙いを定めて、重い鉄の刀身を横に伸ばした。
※※※
「……敵襲!!」
背後の気配に気づいたベラは、咄嗟に叫ぶ。
雨と走破の音が声をかき消してしまったようだが、並走する馬車の御者はこちらの口の動きに気づき、耳のいいヴェルバは多分、自分で気づいたのだろう。
声と共に馬車のドアから顔を見せた彼は外套の前を開いており、飛び出してドアの上縁に手を添えながら姿を変える。
純白の毛並みを持つ獣人の姿に変化した彼が、咆哮を上げるのと同じタイミングで、ベラは背後からいち早く追いついてきた刺客が横に伸ばした刃を、カーロを操って避ける。
馬車にぶつかるくらいに寄ったことで、相手の刃はたなびいた外套の一部を裂くに留まった。
ーーーだが、次いで他の者たちから放たれた矢が、こちらと馬車に降り注ぐ。
雨の影響か、大半は落ちるが、一部は馬車に突き立って……一本は、カーロに突き刺さった。
『キュィィイイイッッ!!』
「っカーロ!!」
痛みに鳴き声を上げた陸竜が背を起こし、ベラは振り落とされた。
「ベラッ!!」
ヴェルバが声を上げるのに答える余裕もなく、目の前に石畳が迫る。
「っ!」
なんとか受身を取るが、体を襲う衝撃に息が詰まり、グルグルと視界が回った。
ーーー立たなくては。
本来であれば激痛が襲うはずなのに、ジィン、と痺れたような感覚がある。
身を起こそうとしても上手く体が動かずもどかしいが、目線だけは上げた。
そこに見えたのは、暴走して敵の弓兵に襲い掛かるカーロと、馬車から飛び降りてベラを狙う男に飛びかかったヴェルバ。
「走り抜けろ!」
ヴェルバが御者に声をかけて、馬車は抜けていく。
護衛の騎兵は、一名が襲われて落馬、残りの二名が槍を手に敵に突撃している。
ヴェルバの攻撃で、元来臆病な生き物である馬の一頭が恐慌をきたし、男を振り落として明後日の方向に走り出した。
それに興奮したカーロが反応し、逃げた馬を追い始める。
「カーロ! ーーー〝風の精霊よ〟!」
ちょうどそこで、身を起こすことが出来る様になったベラは、足を早める願いを込めて精霊に助力を乞う。
走るのー! という喜びと共に足に宿った精霊の力を伴って、走り出した。
「止まれ、ベラ!」
後ろで、落馬した男にトドメを刺したヴェルバの声が聞こえるが、ここで見逃してしまえば、カーロがどこに行くか分からない。
雨で人通りは少ないが、あれだけ興奮していたら、最悪、人を襲ってしまう可能性があった。
「ベラ!」
遠くなるヴェルバの声を聞きながら、ベラはカーロを追って路地の角を折れた。




