婚約者が、逃げましたわ。
そうして結婚の支度を整えたベラは、公爵家嫡男パドーレを護衛に隣国へ向かった、のだが。
「逃げた?」
アンデルセン大公国に着いて聞かされたのは、『婚約者が出奔した』という予期せぬ話だった。
客間に招かれて挨拶したばかりの若き大公は、ベラの言葉に、にこやかにうなずく。
「ええ。どうも、昨夜のうちに城を出たようですね。あなたの婚約者殿は」
どこか、陽気で野生的な印象のある精悍な顔立ちの青年、グレン・アンデルセン大公。
褐色肌に赤い目を持ち、どちらかと言えば質素で、意匠が少なく胸元の開いた動きやすそうな貴族服に身を包んでいる彼の口調は、まるで他人事のように楽しげだった。
座り心地の良いソファに浅く腰掛けたベラは、青い目をわずかに細める。
「笑い事ではないように思えますが。それが事実であれば、下手をせずとも国交問題に発展するのでは?」
不安と楽しみに肩すかしを食らったのも相まって、口調の圧を少し強めた。
すると、グレン大公は軽く片眉を上げる。
「正におっしゃる通り。ですがまぁ『予期せぬ出来事』というのは、いつだって勝手に起こるものですよ」
ちなみにこちらが証拠です、と、彼は手にしていた羊皮紙を差し出してくる。
本当に緊張感がない。
ーーーこれが、国主?
少し不信感を募らせながら、ベラは書き置きらしきそれに目を落とし……しばし、思考が停止した。
そこには、こう記されていたのだ。
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クソ大公殿。
ドンナ侯爵家御令嬢との婚姻は、謹んで辞退させていただきます。
また、参謀職も同時に辞することをお許し下さい。
ーーー〝野獣〟より、反吐が出るような親愛を込めて。
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とても綺麗な字だ、とベラは少し現実逃避気味に思った。
が、悪口と皮肉まみれの宛名書きと署名が示すように、文面は怒りと筆圧でにじんでおり、知的な参謀のものとは思えないような、なんとも言えない雰囲気を感じる。
ーーーこれは何の間違いでしょう?
大公も参謀も、およそ高潔たるべき貴族とは思えない。
かすかに頭痛を感じて、額に指を当てたくなるが、信頼もしていない相手にそんな様子を見せるほど、ベラは安くはなかった。
「本当に、一体、何がどうなっているのです?」
そもそもベラには、状況がよく掴めていない。
何せ分かったことは、まだ顔も合わせたことのない『婚約者』が本当に逃げた、ということと、書き置きに品位が感じられないことだけだ。
「参謀殿も、この婚姻がどういう意味を持つか……それが分かった上での、行動でしょうか?」
「それはそうでしょうね」
「……聡明なお方と、お伺いしておりましたが」
「婚姻は話が違う、というところでしょうかね?」
大公は本当に、これが、国交に関わる一大事だと分かっているのだろうか。
ベラが思案していると、横に座っていた付き添いの公爵家嫡男、パドーレが立ち上がった。
赤毛に近い明るい茶色の髪と、甘い顔立ちに整えた顎ヒゲを生やしている彼は、大柄な体を威圧的に逸らして、椅子に座ったグレン大公を見下ろす。
普段は、冗談を好む快活な性格のパドーレだが、今は厳しい表情をしており、押し殺した低い口調で問いかけた。
「奴が逃げた、というのはまぁ、百歩譲っていいとしよう。……だがまさか、俺のモーリエまで逃げた、などとは言わんだろうな? 大公殿?」
「安心するといい、パドーレ。彼女は分別を弁えてるし、そもそも君と恋仲だ。逃げる理由がない」
「ヴェルバの野郎にも逃げる理由はねーだろ!? うちのスオーチェラの何が不満だ!?」
ヴェルバ、というのは、ベラが婚姻を結ぶはずだった参謀の名だ。
そしてもう一つ、パドーレが口にした名が、大公国側からペンタメローネ王国に……彼の元に嫁ぐはずの姫のものだった。
二人はすでに恋仲だと聞いた時は、手が早いこと、と思ったが、恋人の話となれば平静ではいられないのも分かる。
しかし。
「口を慎まれませ、パドーレ兄様。懇意とはいえ、仮にも一国を預かる方に、公の場でそのような態度は無礼でしょう」
彼は、グレン大公ともヴェルバ参謀とも、交渉を重ねる内に親しくなったと聞いている。
が、公私のケジメはつけなければならない。
しかし、その言葉を否定したのは、よりにもよって大公本人だった。
「ははは、良いのですよ、スオーチェラ姫。彼とは、夜通し酒をくみ交わす程度には気安い仲です」
「そうだぞ。第一王子と俺、そしてグレンと参謀のヴェルバで、ここまでこぎつけたんだからな」
「……パドーレ兄様?」
ベラはため息を吐くと、かすかに表情を動かして鼻筋に細いシワを寄せた。
すると、こちらが本気で怒っているのを察したのか、パドーレが頬を引きつらせる。
「分かった、そう怒るな。お前はただでさえ、怒らなくても怖いんだぞ? ……で、そろそろ理由を話、して、いただけますかね? グレン大公?」
そそくさと腰を下ろしたパドーレが問いかけると、その様子をおかしげに見ていたグレン大公は、指先でアゴを撫でた。
「まぁ、アンデルセン大公国を預かる身として、謹んで申し上げさせていただきますと」
「ええ」
「多分、その和平の立役者たる〝白磁の獅子〟ヴェルバ・アダモにーーー」
わざとらしく丁寧な口調言いつつ、グレンは肩をすくめる。
「ーーー貴女との婚約を伝えたのが、昨日だから、じゃないですかね?」
「……は?」
ベラがポカンとすると、グレン大公は、先日のことを話し始めた。
※※※
ーーー時間は、前日の昼にさかのぼる。
「……冗談も大概にしておくことだな、アンデルセン大公閣下」
ヴェルバは、グルル、と唸るように喉を鳴らした。
そして、唐突に参謀室に現れて、妙なことを言い出したグレンを睨みつける。
「なんでいきなり、俺が隣国の侯爵令嬢と結婚する、などという話になる?」
「いや、和平協定の一環として、半年前からこっそりと進めていたのさ」
「本人が聞いていないが」
「うん、今言った。ああ、パドーレは知ってるよ?」
ニヤニヤと執務机に手をついたグレンに、ヴェルバはますます不機嫌になる。
半年前と言えば、終戦協定に捺印した頃だ。
そこから画策していたのだろう、が。
「何で黙っていた?」
「そりゃ、先に言ったら君が断ると思ったから」
「分かっているなら、そもそもそんな話を持ってくるな! ふざけているのか!?」
ドン! と拳を天板に叩きつけると、秘書がビクリと震える。
「ふざけてるわけじゃない。彼女と君がお似合いだという話があってね。だからこういうのも良いかなってね」
「どこのどいつだ、そんなことをほざくのは」
「パドーレだよ。御令嬢は彼の身内だしね。僕も話を聞いて、確かに似合いだと思ったけど」
「貴様らは一度、その浮かれた頭を氷の精霊に固めさせて、思い切り冷やしてこい」
どんな性格だか知らないが、貴族の御令嬢と気が合うなど、確実にあり得ない。
「今からでも別の奴に変えろ。俺は会わん!」
「もう無理だよ。明日には輿入れするから、顔合わせの準備をして貰わないと困るし」
「何だと!?」
あまりにも急すぎる。
まして、和平絡みなのなら、国交の重要事である。
ヴェルバは、グレンの正気を疑った。
「だって君、こうでもしないと本当に会わなさそうじゃない」
「当然だろう!」
そもそもヴェルバは、貴族ですらない。
元は、大公になる前のグレンとたまたま友人になった、ただの傭兵だった。
それどころか。
「俺は、獣人だぞ!? 貴様、本当に分かっているのか!?」
ヴェルバは吼えた。
この辺りで獣人は、人間に敬遠され、見下される存在の筆頭である。
頑丈な体から、戦争の捨て駒である傭兵として重宝はされているが、その立場は限りなく低いのだ。
ヴェルバも支払われる金に釣られてアンデルセン王国に来たものの、有形無形の差別はいくらでも周りにあった。
そんな自分が、王国軍の参謀……将軍はグレンが兼任しているため、実質の軍事においては二番手の、地位にいるのは。
「獣人かどうかなんて、君の優秀さの前では些細なことだよ」
目の前でヘラヘラと答える大公が、そうした意識の薄い人間だからという、ただそれだけの理由だった。
彼にとっては、確かに些細な話なのかもしれないが。
「貴族の御令嬢にとっては『些細なこと』で済まない話だと、察したらどうだ!? 嫁ぐんだぞ!?」
「済みそうな気がするけどなぁ」
グレンは、頭が切れるはずだ。
なのに、どうしてたまに、こんなにも鈍さを発揮するのか。
出会った頃の彼は、賭け事と酒に滅法強いが、真面目さのカケラもない、そんな青年に見えていた。
場末の、賭博もしている酒場で知り合った時は、貴族だとすら思っていなかったのだ。
しかし、妙にウマが合った。
ツルみ出してしばらく経った頃、暴漢に襲われていた彼を助けたヴェルバは、そこで彼が貴族だと知り、心配で街に出る際の護衛を買って出た。
金で雇われたわけではなく、あくまでも友人として。
それがグレンの気に召したらしく、共に行動する内に『近くにいるなら、駄賃を渡すから少し仕事を手伝ってくれ』と言われ、軽い気持ちで引き受けたのが間違いだったのだ。
彼が大公の血筋の者だと知った時には、報酬も仕事量も膨れ上がり、かつ貴族や戦争の内部事情に深く関わってしまっていた。
ーーーハメられた。
そう思ったものの、ヴェルバは責任を投げ出すわけにもいかず。
勢力争いの刺客を跳ね除け続けた結果として、グレンの敵がいなくなり。
彼が『大公になってしまった』結果、気付けばヴェルバもこんな場所にいたのだ。
だからといって、政略結婚のコマにされる謂れはない。
「ただの平民以下の獣人と、侯爵令嬢。一体、どこに似合いになる要素がある?」
「金持ちの平民が、爵位を得るためにその娘を買うなんて、ありふれた話じゃないか」
ヴェルバはグレンを諭すが、彼はあっさりしたものだった。
「君は大公軍の参謀で、金はともかく権力はある。それに話を聞く限り、多分彼女は気にしないよ?」
「……まさかとは思うが、その侯爵令嬢にも俺が獣人だと伝えていない、なんてことは……」
「あるね。余計な先入観はないほうがいいからね」
「貴様は! 少しくらい! 物事のデリケートさを気にしたらどうだ!?」
あまりにも信じがたい話の展開に、ヴェルバは目眩を感じた。
「あり得ん……」
「それがあり得るんだよね。じゃ、よろしく」
執務机にヒジをついて額を支えている間に、グレンは話が終わったと判断したのか、さっさと出て行こうとする。
「おい待て!」
声をかけると、出口からひょい、と顔を見せたグレンは、片目を閉じて、笑みを見せながらこちらを指差してくる。
「あ、ドンナ伯爵家の御令嬢は、昼ごろには着くから。逃げるなよ?」
「今、逃げようとしているのは貴様のほうだろう!! まだ話は……」
「もう終わったよー♪」
と言いながら、グレンの声と足音が遠ざかっていく。
ーーーあの野郎……!!
ヴェルバは、はらわたが煮えくりかえるほどの怒りを感じつつ、成り行きを見守っていた秘書官の男性に、ジロリと目を向けた。
「……セグレイ、秘書官」
「は、はい!!」
「あー……少し、一人にしてくれないか」
「は、はぁ……では、別室にて控えております。何かあれば呼び鈴を」
「ああ」
仕事道具を持って部屋から彼が出て行くと、ふー、と大きく息を吐く。
ーーーこの俺が結婚だと? それも貴族の娘と? ……冗談じゃない。
ヴェルバは、机から新しい羊皮紙を取り出すと、ジッとまっさらなそれを眺める。
ずっと、考えてはいた。
隣国との戦争が終わり、一応の平和を取り戻したことで、自分の役目は終わったのではないかと。
そもそものキッカケは、暴漢に襲われたグレンの身を案じて護衛を申し出たという、ただそれだけのことだったのだ。
それが何の因果か終戦協定の交渉や捺印をする場に立ち合い、その後もズルズルと、何かと落ち着かない国内の関係調整に、もう少し、もう少し、と携わってここまで来てしまった。
その結果が、コレだ。
自分のような、まともな礼儀も知らないならず者と。
良い縁談がいくらでもあるだろう、おそらくは美しいのだろう侯爵家の令嬢。
釣り合いが取れるわけがない。
それに、何より。
ーーー御令嬢が、可哀想だと思わんのか。
獣人を夫とする彼女が、どんな目で見られるか、この件に関わった連中は全員分かっていないのだろうか。
ーーー潮時だな。
政治に利用するならするで、せめてもう少し、まともな相手を見つけてやれ。
そんな気持ちを込めて、ヴェルバは羊皮紙に、怒りの言葉を書き連ねると。
素知らぬ顔で日が暮れるまで仕事をして、一杯引っかけるような顔で街に繰り出し。
そのまま、姿を消した。