わたくしたちには、どうする事もできないのですか?
「氾濫……!?」
ベラは、もたらされたその報に、目を見開いた。
「それは事実ですの? パドーレ兄様」
「ああ。といっても、貴族たちの住む高台辺りには届かないだろう。辺境伯にはすでにお前たちを保護していただけるよう、モーリエを通じて伝えてある」
泊まっている宿に、真夜中に訪ねてきたずぶ濡れのパドーレが、珍しく厳しい顔をしていた。
「避難する、ということですの?」
「そうだ。今すぐにでもな」
冗談を交えない彼に、ベラは事態の重さを悟る。
三日ほど長雨が続いて足止めをされていたが、まさか川が氾濫する危険があるとは思っていなかった。
「治水はどうなっておりますの?」
「この辺りは進んでいるほうだ。元々戦地となる危険が大きい地域で、街の造りも堅牢だからな」
ヴェルバも眉根を寄せていた。
「それに、こちら側もペンタメローネ側も、間にファポリス山脈がある関係で雨は多いしな。他所よりも備えてはいるだろう」
「が、確かにこの三日、雨量が多すぎる。いかに備えていたところで限界はいずれ来るだろうな」
視察に出られないほどの激しい雨が続いているのは、事実だった。
パドーレが腕組みをして、横殴りの風で音を立てる窓に目を向ける。
「それに、本来なら水を逃すための低地が問題だ」
「貧民街か……」
彼のつぶやきに、ヴェルバが呻く。
「どういうことですの?」
「どこの国もそうだが、貧民街に住むのは市民証すら持てない流れ者や、家どころかその日の飯にも窮する者たちだ。あぶれた先に残っているのは、普通であれば住むのを躊躇う危険な土地なのだ」
魔物から身を守る壁の外側や、水捌けの悪い地盤の緩い土地。
あるいは、あえて空けてある……例えば、川が堤防を越えた際に水を逃すための、低地など。
「その土地を……辺境伯は守らない……?」
「守らないのではない。守れないのだ」
「そこを高く堤防で守ってしまえば、さらに雨が降り続いた時に、他の堤防が低い土地に水が流れることになる。田畑や、市民証を持つ者たちの土地が流されてしまえば、街が死ぬ」
貧民街に住む者たちは、本来守るべき者ではない、と。
二人の表情が、それを物語っていた。
理屈は分かる。
分かりはするけれど、ベラの感情が追いつかなかった。
「どうすることも出来ない……のですか?」
「言っておくが、辺境伯とて何も考えていない訳ではない」
ヴェルバは、厳しい顔をしたまま言葉を続ける。
「別の低地に水を引くための治水に、手をつけてはいる。だが、先の戦争末期で職にあぶれた傭兵たちや、土地を追われた者たちが、いきなり増え過ぎたのだ」
ーーーそこが、原因……。
戦争が終わったとて、その軋轢の被害を被るのは、結局弱者。
ヴェルバとベラの婚姻とて、本質としては同じ。
過去の精算を行うために、庶民出身の宰相と、反宰相派の侯爵令嬢が槍玉に挙げられた。
ベラ自身は、それで良かった。
自分は貴族であり、その務めを果たすという理由があったから。
だけど、当然のことだけれど。
軋轢がそれだけで治まるほど、戦争で両国についた傷が治るほど、確執は、影響は……浅くはないのだ。
そして、民を救うということは、一朝一夕には成らない。
「……何か、手は……本当にないのですか?」
「氾濫しなければいい。それを祈ることしか出来ん」
そんな中、自分だけが安全な場所に逃げる。
ベラは、自分の無力さに打ちひしがれていた。




