婚約者からの、初めての贈り物ですわ。
そのまま、何となくお互いに黙り込んで市場を歩いていると、ベラはふと視界の隅に映ったものが気にかかった。
「……?」
目を向けると、そこに数人の男性が立っている。
通りの左右に並ぶ露天商の後ろ、集合住宅同士の隙間にある裏路地に入るか入らないか、という位置だ。
ーーーガストン……?
それはつい先日、食事中に声をかけてきた男だった。
相変わらず二人の仲間を連れ、狼狽えた顔をしている一人の男性と、何やら言い合いをしているように見える。
どう見ても、絡んでいるようにしか思えない。
「ヴェルバ様」
「どうした?」
声を掛けると、何やら小物を見ていた彼が目を上げる。
ベラが黙って指差した先にいる者の姿に、彼も目を向けてから、縁無し眼鏡の奥で微妙そうな顔をした。
「昨日の今日で、あまり嬉しくない偶然だな」
「助けますか?」
ガストンが退散した時の様子から、声を掛ければ絡むのをやめる気がする。
ベラはそう考えたが、ヴェルバは眉根を寄せたまま指先で軽く頭を掻く。
「何らかのトラブルがあるとしたら、下手に関わりたくはないが」
「ガストンには良くない噂があるのでしょう? 金をせびっているのかも知れません」
「……下世話な言い回しを知っているな。それはともかく、噂はあくまでも噂だ。一応、街の中では顔が利く方の仕切り役だと言うのなら、噂だけを鵜呑みには出来ん」
「とは?」
悪い噂が立つ、ということは、横暴なことをしているからではないのだろうか。
ベラが不思議に思っていると、ヴェルバは首を横に振る。
「まぁ、好色そうな男であることは事実だがな。真面目に仕事をこなしているから目障り、ということも世の中にはある。君が〝氷の令嬢〟などと揶揄されているのも似たようなものだろう」
「なるほど。そうした見方もあるのですね」
ベラにはイマイチよく分からないが、自分にとって不利益と感じられる振る舞いをする者を悪様に言うのは、貴族の世界でも女の世界でもよくあること、というのは理解出来る。
「では、囲まれている方が悪いのでしょうか?」
「どちらもあり得る、という話だ。そしてどちらか分からん以上、関わるのは……」
とヴェルバが言いかけたところで、男が逃げ出した。
路地の奥に向かっていきなり走り出したのを、ガストンの子分が追いかける。
その際に、男が落とした何かを拾って、彼はこちらには気づかずに人混みの中に消えた。
「……何か、臭うな」
ガストンの姿を見送って、スン、と鼻を鳴らしたヴェルバが、彼らが立っていたところに向けて歩き出す。
それについて行くと、彼は地面に目を走らせ、屈んで何かを拾い上げた。
「それは?」
ヴェルバが拾い上げたのは、黒い種のような何か。
先ほどよりもさらに厳しい表情を浮かべた彼は、小さく指先でそれこねながら、言葉を返してくる。
「あまり良くないものだな。……ガストンがそれを嗅ぎつけたのか、あるいは、あの男に奪われたそれを取り返そうとしたのか……」
何かを考えているのか、ぶつぶつと独り言をつぶやくような様子のヴェルバに、さらに問いかけた。
「あってはならないもの、の類いですか?」
「場所による、といったところだな。少なくとも外に出てはならんとされている。……これは、〝悪魔の慈悲〟と呼ばれているものだろう」
彼の言葉に、ベラは軽く目を見開いた。
ヴェルバは真剣な表情のまま、こちらに目を向ける。
「知っているか?」
「……話には聞いていますが。『静養の館』で使われているものだと」
「そうだ」
『静養の館』は、治る見込みのない病気にかかった人々を集める場所だ。
形は様々だが、基本的には少し居住区よりも遠い、墓場の近くに作られた半地下の屋敷という形で存在していることが多い。
元々は病気にかかって治る見込みのない犯罪者を、教会が慈悲の心で最期の時を過ごさせるために作られたのだが、やがて貧民や、医者や家族も匙を投げた病人、自ら望んだ末期の人も入るようになった。
病を癒すのではなく、死の瞬間までの痛みを和らげることしか出来ない……そうした者たちがより集まっている場所が、『静養の館』である。
だが、その場所に対して定着している呼び名は、もっと物騒な雰囲気を纏っていた。
「そこは、俗に言う【魔窟】なのではないでしょうか? では、その黒い種は」
「ああ。……臭いからしても、おそらく『魔薬』だ」
ーーーオピオム 。
それは『静養の館』で痛みを和らげる方法として採用されている、一種の薬だった。
魔法と特定の植物によって作り出される、燻したり呑んだりで、心を幸福で満たし、痛みを和らげる効果があると言われている。
〝悪魔の慈悲〟と呼ばれているのは、痛みを和らげる代わりに人の精神を狂わせ、肉体を蝕み、死期を早めるとされているからだ。
故に、『静養の館』以外で使うことを禁じられていて、使いすぎた者が狂人と化して雄叫びや耳に付く笑い声などが絶えないことから【魔窟】と呼ばれているのである。
「なぜそれが、街中に……」
「金になるからな。禁じられているが、スラムでは珍しくもない」
ヴェルバが嫌悪するように顔を歪めながら吐き捨て、その丸薬をそっと布の小袋に入れると、踵を返した。
「珍しくもないが、放っておいていいものではない。……扱っていたのが逃げた男か、ガストンかに関わらずな」
「どうされるのです?」
「辺境伯に報告する。どの程度広まっているかは分からんが、この街を預かる領主よりも確実だろう」
「……信用できるのですか?」
「少なくとも、馬鹿ではない相手だからな」
ベラは辺境伯の人となりを知らないが、参謀を勤めていたヴェルバがそう言うのなら、そうなのだろう。
「急ごう。今、扱っている小物を捕まえるよりも重要だ」
「はい」
彼の言葉に異論はなかった。
街を出る準備を終えて、辺境伯の直轄領に向かおうとしたところで、黙りこくっていたヴェルバがふと、手にしたものを差し出してくる。
「そういえば、渡すのを忘れていた」
「これは?」
「先ほど、ガストンたちを見かける前に買ったものだ」
差し出されたのは、カチューシャだった。
その表面には、編み込みのような複雑な模様が描かれている。
「君に贈ろう。大したものではないが」
「唐突ですね……何か理由が?」
ベラが戸惑いながら受け取ると、ヴェルバは淡々と答えた。
「それは、獣人族の間で『魔除けの模様』と呼ばれているものでな。君はどうにも、物事に首を突っ込む危うさがある。気休めくらいにはなるだろう」
「なるほど……」
受け取ったそれは、確かに安そうなものではあるが、意匠自体は丁寧に作られたものだ。
前髪をかき上げ、そのカチューシャをつけてみると、ヴェルバにジッと見つめられる。
「何か?」
「いや。前髪を上げると利発そうな印象が増すな」
「こちらの方が好みですか?」
何気なくそう問いかけるが、ヴェルバは答えない。
しかし、何となく機嫌を損ねたわけではなく、図星をついてしまったような気がした。
「では、喜んで使わせていただきますわ。ありがとうございます」
「……俺は、何も言っていない」
「わたくしも、何も言っておりません」
ベラは澄ました顔でそう答え、小さく笑みを浮かべた。
「ーーーですが、どちらにしろ、婚約者からの初めての贈り物ですから」




