婚約者の不意打ちに、嬉しくなってしまいましたわ。
あのガストン、という男の評判は、ずいぶんと宜しくないようだった。
気を良くしたマスターに聞いたところによると、聖教会の司祭に尻尾を振り、表向きは貧民への施しを募る仕事に従事しているようだ。
金で買ったらしい貴族の身分があるらしく、一応、男爵だという。
一代限りの名誉貴族らしいのだが、それでも貴族であり、また聖教会の名をチラつかせて強引に『寄付』だと金をせびるので、煙たがられているのだと。
他にも、後ろ暗いモノを売り捌いているという噂もあるらしかった。
「どうなさいますか?」
「どう、とは?」
部屋に戻る前から、終始不機嫌そうな様子だったヴェルバは、部屋のドアを閉めるとその前に座り込んだ。
「ガストンのことです」
「ただのチンピラだろう。放っておけばいい。度が過ぎれば、領地の者が対処する」
「……意外ですわね」
「何がだ?」
ジロリと睨みあげて来るヴェルバに、ベラはナイトテーブルの水差しから二つのコップに水を注ぎながら答えた。
「捨て置く、という選択を貴方が取ることが、です。ガストンには、黒い噂もおありだと」
「噂だろう。その現場を目撃したわけでもない」
「それは、その通りですけれど。領民が困っているのは事実です」
「だから言っている。度が過ぎれば、領主が訴えを受けて対処するだろう。俺たちが介入する必要がどこにある」
ベラは、ヴェルバにコップを渡して、自分の分を手にして簡素なベッドに腰掛ける。
「目の前で困る民がいて、その原因がいる……排除するのに、何かためらいが?」
「おま……君は、何も分かっていない」
怒りを堪えている様子の彼は、木のコップを強く握った。
「ここは辺境伯領で、ガストンは名目だけとはいえ貴族だ。そして大公国もペンタメローネも、領土は王の直轄支配地域ではなく、各領主の管理する地域だ」
それは、ベラにも理解出来ていた。
貴族が、他者の貴族領で勝手な振る舞いをするのは、許されない。
ヴェルバにしても、参謀位にあるとはいえ平民であり、貴族身分のガストンに手を出せば、不利な状況に追い込まれたり投獄される、ということもあり得るだろうという微妙な立ち位置だ。
だが。
「犯罪者を私刑に処そう、というわけではありません。ヴェルバ様が手を出せないのであれば、わたくしが捕まえて、憲兵に突き出せば良いのでは?」
「だから、それを俺たちがやる意味がどこにあるのかと、先ほどから問いかけている」
「民が困っています。解決するのは、為政者の役目なのでは?」
「街の小悪党がコソコソ小銭稼ぎをしているのまで、見かけたからと言って手ずから解決していては、どれだけ時間があっても足らんだろうが」
それに、と、ヴェルバは自分がもたれたドアを拳でコンコン、と叩いた。
「いいか。俺たちには今、身を守る強固な屋敷の壁も、護衛の兵士もいない。貴族や獣人だといったところで一人の人間だ。先ほどの挑発にしてもそうだが」
ヴェルバは、端正な顔をさらに不機嫌そうに歪めてチラリと犬歯を覗かせる。
「たまたま俺を奴が知っていたから、事なきを得たが。あれでもしガストンが大勢を引き連れて戻ってきたり、寝込みを襲われた時にどうやって身を守る気だ?」
「返り討ちにすればいいのでは?」
「そのために、寝ずの番をするのか? 行く先々でそれをやっていて、いつ休む? いいか。義憤に駆られるのは君の勝手だが、君の論理は、権力者の論理なのだ」
「権力者の……」
「そうだ。自分のことを知る者に周りを囲まれ、安全な寝ぐらを確保出来、多くの戦力を有し、徒党を組むことが出来る者の論理だ。……自分の身を守るのは、その場凌ぎでいい訳ではない。先々まで守り抜ける算段を立てられなければ、それは身を守ったことにならんのだ」
ヴェルバは早口で捲し立てて、こちらに指を突きつける。
「ーーー高潔を矜持とするなら、動く前にまず、己の身を守ることを考えろ」
ベラは、アゴに指を添えて目を細め一考した。
彼の言葉には、理がある気がしたからだ。
ーーー高潔を矜持とするのなら。
彼はそう言った。
それは〝高貴なる者の義務〟の精神に関する話だろう。
義務を遂行する為には、当然のことだが、まずは生きている必要がある。
ただ、臆病になれという話ではなく、それが出来て初めて為政者側の人間として腕を振るえる、という話だろう。
そして確かに、ベラにはその視点は欠けていた。
彼の身を守るための動きは、冒険者だから、というだけではなく、自分の身を守るために本来ならば考えるべき行動なのだ。
誰かに守られていることを、ベラは当たり前のこととして意識すらしていなかったのだ。
「仰る通りですわね。わたくしが軽率だったようです」
「分かればいい。……せっかく部屋を取ったが、今日はここで眠る。ガストンがどう動くかが読めないからな」
わざわざドアを塞ぐように床に座り込んだ理由は、それだったらしい。
「申し訳ありません。手間を増やしてしまったようです」
「今後やらなければいい。元々、ご令嬢に全てを完璧にこなすことなど期待していない。覚えていけばいい話だ」
ぶっきらぼうだったが、この話題はここで終わりだ、と告げるように、彼は手を軽く振った。
「コップをいただきます」
自分も水を飲み干したベラが立ち上がって腕を差し出すと、ヴェルバはコップを渡した後に、こちらの腕を軽く掴んだ。
「何か?」
首を傾げてみせると、ヴァルバはこちらを見ないままボソリと告げる。
「本当に、考えろ。……共に旅を始めたのは成り行きだが、別に君の身を案じていないわけではない」
ベラは、何度かまばたきをした。
気遣いの類いかと思ったが、バツの悪そうな顔をしているところを見ると、もしかしたらそちらが本心なのだろうか。
「承知していますわ」
ベラは少し嬉しくなって、微かに笑みを浮かべた後に、鎧を外し、剣を抱えてベッドに潜り込む。
不意に言われた、その一言に。
少し頬が熱くなっているのは、あまり見られたくなかった。