婚約者は、やはりお優しい方ですわ。
「ここが、今夜の宿ですの?」
「そうだ」
カーロの背に跨ったまま街に入ったベラの問いかけに、横を歩いていたヴェルバはうなずいた。
街に入るまでは獣人姿だったが、人通りが出てくるあたりで、また人間の姿に戻っている。
「あまりのみすぼらしさに驚いたか?」
「屋根があるだけで上等ですわね。そもそも、みすぼらしいとも思いません」
山を越えたこの街は、辺境伯領セッツァの中にある。
何もない山岳地帯クサッツと、海洋王国との貿易を担う港町オーツからの交易路になっているため、それなりに栄えていた。
案内された宿も、竜や馬を泊められる厩舎が併設されており、建物は多少古くとも、十分に立派なものと思われた。
竜はそもそも気性が荒い以外にも、少々繊細な生き物だ。
宿に入る手続きをヴェルバが済ませる間、カーロを目にした馬が怯えるのに少しささくれ立つ彼女の鬣辺りを撫でながら宥め、自ら厩舎に繋ぐとその周りに結界札を敷く。
土の精霊が集まってきて、カーロは少し安らいだ様子を見せた。
「竜の扱いについては、心得ておられるとは思いますけれど。餌はわたくし自ら与えます。周り4つも借り上げますので、馬を繋がぬようお願いいたします」
「重々承知しております」
厩舎を預かる馬丁に、五つ分の対価を支払いながら告げると、彼はベラの言葉にうやうやしく頭を下げた。
カーロに大人しくしておくよう最後に声をかけて、ヴェルバと共に宿に入った。
部屋も個室で鍵付きだが、ヴェルバは荷物を置かずに手にしたまま食堂に向かう。
「盗難を心配なさっているのですか?」
「それもあるが、一番はすぐに動けるようにだ。街や宿が襲われた時に、逃げるのに手間取らない」
「なるほど」
己の身一つで動く傭兵と周りに多くの供がいる貴族では、用心の仕方に差があるのはベラにも理解できる。
食堂で出てきた食事は、野宿の時よりはかなり上等なものだった。
焼きたてでふわふわのパンに、肉と野菜がふんだんにシチュー、ふかしたジャガイモにバターがついたもの。
それに、ピーナッツのつまみとエール。
「……少々高くつくのでは?」
「常に、こうした食事にありつける訳ではないからな。無制限に贅沢をするつもりはないが、食事の質の良さは明日の活力になる」
たしかに、人の楽しみの中でも睡眠と食事は格別なものだ。
空腹を覚えていたベラは、その食事を楽しむことにした。
最初に口にした焼きたてのパンは、王都での暮らしでは特に珍しいものでもなかったが、口の中でほどけて感じた甘みは沁み渡るような美味しさに感じられ、思わず顔をほころばせる。
「大変美味しいですね」
「いい顔だ」
ヴェルバは、シチューを木のスプーンですくいながら、応じるように笑みを浮かべた。
「なるほど、あまり愛想を見せるのも危うい、というのがよく分かる」
「どういう意味でしょう?」
「その美貌でにこやかにしていたら、勘違いして近寄ってくる男が後を断たんだろうからな」
普段、ベラが表情を変えないことに対する皮肉、というわけでもないようだった。
「……表情を変えるのが、得意ではないだけですが」
もちろん、演技が出来ないというわけでもないのだが、必要な場面以外でそうした行動を取っていないのは事実だから。
「お好みでしたら、にこやかに振る舞わせていただきますよ?」
そもそも、ヴェルバとの婚姻を結ぶことがベラの目的。
彼が好ましいと思うのなら、そうした努力をすることに不満はない。
しかし、彼は笑みを浮かべたまま軽く鼻を鳴らした。
「苦手なことを、わざわざこちらから押し付けるつもりはない。貴族はモノの考え方が窮屈だな」
「淑女の務め、と思っております」
「それが窮屈だという。長く自分を偽れば、いずれ綻びる。一時の無理とは話が別だ。それに、相手にだけ負担を強いるのは俺としては全く好ましい話ではない」
「なるほど、わたくしとの先の話を考えていただける、と解釈してよろしいですか?」
微笑んだまま言葉尻を捉えてみると、ヴェルバは言葉に詰まって、かすかに眉根を寄せた。
「……誰もそんなことは言っていない」
「残念ですわ」
ーーーお優しいのに、頑固ですこと。
そもそもそういう気質だから婚姻を拒否した、という側面もあるので、ベラはあまり気にしていなかった。
この程度のことで認めるとも思っていない。
しかし、ヴェルバの方は少し気にしたようだった。
「……まれに見るから貴重、ということもある」
シチューをすくいながら顔を見ると、彼は目線を逸らし、パンを頬張りながら言葉を重ねる。
「それに、俺は君の無表情を不快に思っているわけではない。……権力を持っている連中というのは往々にしてそういう下らないところで評価を下すこともあるだろうがな」
ーーーやはり、お優しいこと。
ヴェルバの方こそ、そんな風に人に気遣っていては疲れるのではないだろうか。
人の良さにつけ入られたから、グレンに参謀にまでされてしまったという面がありそうな気がした。
「私について囁かれている、氷、というのは、そうした嘲りと恐れを含むもののようだというのは、伝え聞く話で推察しております」
「だろうな。貴族はくだらん」
そこで会話は途絶えたが、ベラとしては和やかに食事をしていた……ところで。
「ーーー失礼。高貴な方とお見受けしますが」
と、無遠慮に近づいてきて、声をかけて来た者がいた。
目を向けると、金髪の、それなりに整った顔立ちをした体格の良い男が、数人の取り巻きと共に、こちらに笑みを向けている。
その軽薄そうな笑みとどこか崩れた身なり、それに瞳の奥に宿る色を見て取ったベラは、内心でうんざりした。
ーーー視線の向かっている先が丸わかりですわね。
ベラの胸元や肢体に数度、視線が動いていた。
こちらの実力を見極めようという形ではなく、下卑た欲望が透けている。
「どなたでしょう?」
「これは失礼。自己紹介をさせていただきたい。この辺りを取り仕切っております、ガストン、と申します」
彼はうやうやしくもわざとらしい……ベラから見れば、全くなっていない胸元に手を当てる礼をしてから、笑みを深くした。
「以後、お見知り置きを」