隣国へ嫁ぐことになりましたわ。
ーーー〝氷の剣姫〟スオーチェラ=ベラ・ドンナ。
社交界で誰ともなくささやかれるようになった、ドンナ侯爵家令嬢の異名は、その容姿とともに広く知られている。
妖精のように可憐な顔立ち。
藍色の、艶やかな髪。
それを左右で編み込んで後頭部で結わえ、雪の結晶を模した髪飾りで留めて流している。
そうして静かに佇むさまは、誰もが一瞬、目を奪われるほどに美しいと称えられていた。
しかし同時にベラは、その微笑みを見た者はいない、とも言われるほど、全く表情を変えないことでも有名だった。
その様子と、立ち振る舞いの一分の隙もない完璧さから、氷になぞらえられているのだ。
一部の貴族子弟の無礼を、一言で切り捨てる舌鋒の鋭さもまた、名が広まる理由の一つだった。
しかし、表立って直接その名や噂を本人に告げる男はいない。
王家に連なる血筋であることも、さることながら。
ベラの聡明さを文武の『文』とした時、ペンタメローネ王国貴族に伝わる武技ーーー剣舞の『武』にも、秀でていたからだ。
その腕前に敵う者は、片手で数えられる。
縁戚であり、幼馴染みとして共に育ったトレメンス公爵家の嫡男。
同様に、勇猛で知られるペンタメローネ王国の第一王子。
あるいは、元騎士団長であり現在は『聖剣の塔』の守護者である老剣聖。
いずれも先の戦争で名を挙げ、生き延びた猛者たちだ。
ベラが男であれば、そして戦場に立てば、同様に名を上げたことだろうと言われていた。
そんなベラに憧れる貴族の乙女らは多い。
が、逆に家柄も高く微笑み一つの愛嬌もない〝氷の剣姫〟に手を出す度胸のある男はいなかった。
ゆえに嫁ぐ相手は、公爵家嫡男か、第一王子であろうとまことしやかに囁かれていたが……。
「隣国の軍に属する、参謀に嫁げ……?」
ベラに、ある日父が告げたのは、そのような言葉だった。
相変わらずまっすぐ背筋を伸ばしたまま問い返すと、椅子に腰掛けた父は難しい顔でうなずく。
「ああ」
「理由をお伺いしても?」
書斎に呼ばれ、そう告げられた時点でうすうす察してはいたが、一応訊ねる。
ペンタメローネ王国と、隣国……アンデルセン大公国は長い間、戦争を行っていた。
その戦争が終結し、正式に和平調書に両国が捺印して国交が復活したのは、つい最近の話である。
風向きが変わったのは、数年前に、アンデルセン大公国の先代大公が、病によって身罷ったこと。
攻める好機と見て、自ら前線に立ったペンタメローネ王だったが……新大公の反撃に遭い、彼もまた怪我が悪化して床に伏した。
そこで、泥沼の戦争を終わらせよう、という気運が持ち上がったのだ。
どちらの国も、疲弊していた。
そこでペンタメローネ王国側は、トレメンス公爵家嫡男を使者として。
アンデルセン大公国側は、参謀を使者として。
建設的に話し合いを重ね、戦争を終わらせたのである。
その時点で、一つの話が持ち上がったのだと、父は告げた。
『両国の英雄と、王家・大公家の血筋に連なる美姫で互いに婚姻を結び、和平の証とする』、と。
「耳触りのいいことを言っているが、要は『お互いに手を出さぬよう、人質として身内を差し出せ』という話に過ぎん」
「予想の範囲内で何よりですわ」
ベラは納得した。
ドンナ侯爵である父は、先王の次女である母を娶っており、当然自分はその血を引いているからだ。
第一王子やトレメンス公爵家と縁戚にあるのも、そうした理由である。
「そしてまた、貧乏くじを引かされた、ということですわね」
父は、貴族としての務めを果たすことに厳格で、民を富まそうと心を砕くその気質ゆえに、同様の思想を持つトレメンス公爵家と元々仲が良い。
しかし、私利私欲まみれの王家やその取り巻きには疎まれている。
ゆえに現在、王国はトレメンス公爵家派と、欲に満ちた宰相派に二分されていた。
ドンナ侯爵家は、当然ながら第一王子・トレメンス派である。
彼らは幼い頃から慣れ親しんだ縁戚であり、その気質をベラも好ましく思っていたからこそ、婚姻の話も出ていたのだから。
「もし嫌であれば、断ることも出来るが……」
「参りましょう」
ベラ自身が王子たちに抱いている好意は、恋慕ではなく親愛だったので、迷いはない。
間髪入れずに答えると、父はなぜかますます苦い顔をする。
「お前なら、そう答えると思っていたが」
「ご不満そうですわね」
嫌がられるほうが困るでしょうに、と思いながら、小さく首を傾げた。
しかし父が嫌がった理由は、公人としてのものではなく私情だったらしい。
「誰がみすみす敵国に、娘を人質に送りたいと思うものか」
「もう敵国ではございません。……しかし向こうの国も、代替わりによってゴタゴタしているそうですね」
戦争が終わっても、両国の内情が落ち着かないのは困りものだ。
こちらの国と同様の諍いが、向こうの国でもあると聞き及んでいた。
「本当に、困ったものですわね。向こうも、我が国も」
ベラがそんな風に思いを馳せていると、父は憤懣やる方ない様子で、呻くように呪詛にも似た言葉を紡ぐ。
「あの忌々しい宰相派どもめが……我が愛娘のローザを聖剣の塔に封じるだけに飽き足らず、姉のお前までも……」
ブルブルと執務机に乗せた拳を震わせ、父は豊かな髭をたくわえた口元を歪める。
王は病床に伏してはいるが政務は出来る、と、宰相以外面会出来ないような状況にも関わらず、政務は滞りなく回っていた。
誰一人、しぶとく生きている王が政務の腕を振るえる、などという話は信用していない。
が、そもそもからして、現王が宰相の傀儡であったことは周知の事実だ。
このまま順当に行けば、第一王子が王位を継ぐことになるので、その前に、少しでも親トレメンス公爵派の力を削ごうとしているのだろう。
娘しかいないドンナ侯爵家は、その格好の的なのである。
損な役回りは、いつもこちらに回ってくる。
「第一王子が傑物でなければ、今すぐ謀反を起こして全員くびり殺しているわ……!」
「口を慎まれませ、お父様。……それに隣国の参謀は、傑物と聞き及んでおります。夫とするに不足はないでしょう」
ベラとの結婚でこちらに取り込めれば、それに越したことはない。
なんでも参謀は、アンデルセンを預かる若き大公の右腕であり、類い稀な知略を備えた人物らしい。
終戦の鍵であり〝白磁の獅子〟の異名を持つ英傑。
しかしその容姿を知る者は少なく、会ったことがある者……第一王子ヴァルや、公爵家の嫡男パドーレも口をつぐんでいるため、人となりは知らないが。
「……本当に断らんのか?」
「他に適任はいないのでしょう?」
請け負わなければ、他の親公爵家派で、かつ王家の血筋を引く乙女が行くことになる。
ーーーそれは、わたくしにとって、我が身を裂かれるよりも辛いこと。
ベラは父と同様に『高貴なる者の義務』の思想を好み、また自らそう在ろうと務めてきた。
不安がないと言えば、嘘になる。
もし〝白磁の獅子〟の気質が異名の通り野卑であれば、想像以上に辛い目に遭うこともあるだろう。
しかし自分以外の誰かがそうした目に遭うことを思えば、ベラに断る理由はなかった。
いずれ誰かに嫁ぐのは、それもまた貴族の娘の定めなのだから。
「少なくとも我が身程度は自ら守れる、わたくしが参ります。これでも剣の腕には自信がございますから」
ベラが身に纏うのは、胸元と袖口の白のフリルが印象的な、詰め襟で肌に吸い付く青地のドレスだ。
左の肩口から胸元を割って伸びた細いベルトが、意匠の一つとして斜めに流れるスカートの襞に沿って背に回っている。
そのベルトは背中側に逆さに吊るされた鞘に繋がっており、細身の長剣が柄を下にして収まっていた。
剣舞を皆伝した者だけが、身につけることを許されるそのドレスは『舞闘の正装』と呼ばれている。
「……虐げられたら、〝白磁の獅子〟を斬り捨てて帰ってこい」
「そのようなことをしたら、また戦争が始まります。愚者の思考はおやめませ」
心底嫌そうな父に、ベラはめったに見せない微笑みを向けた。
「お父様の、その一向に治らぬ娘に甘いところを、わたしくは好ましく思っておりますけれど。それに……」
「それに?」
ベラには不安と同時に、楽しみに思う気持ちもあった。
誰も詳しい話を教えてくれない〝白磁の獅子〟が、いかなる人物であるのかは、まだ未知数だ。
もしかしたら、心配は杞憂で、好ましい方であるかもしれない。
様々な思惑の絡む、政略結婚であるとしても。
「わたくしも一人の乙女です。……強く賢い殿方に、人並みに興味はございますわ」