夫婦喧嘩は犬も食わない?
ラーシュ・オルフ・フェルディーン。
女神の住む森を有するフェルド領の若き領主である。
彼は今、大変な窮地に立たされていた。
すっきりとした鼻筋に左右対称の整った顔立ち。
浅葱色の瞳が嵌め込まれた切れ長の眼。
精力的に仕事をこなす傍ら、体調管理のための運動も欠かさないその身体は、男らしく引き締まっており、その麗しき容姿は若い女性たちをもひきつけてやまない。
そんな多くの女性を魅了する男を襲う危機。
それは。
夫婦喧嘩、なのである。
膝の上で背を向けて丸くなる灰褐色の塊を見つめ、彼は眉尻を下げた。
膝に掛かる確かな重みと温かさに凹みそうな心を支えられながら、少し硬い毛並みを撫でる。夏と触り心地が違うのは、冬毛に生え変わっているからだ。このもふもふと毛玉のような丸さも、円らな黒目も黒い縁取りの目元も愛嬌があって大変可愛らしいと言うのに、何度声を掛けてもこちらを向いてもらえず、ほとほとに困り果てて声が出た。
白旗なら始めから上がりっぱなし。
「そろそろ機嫌を直してくれないか」
彼は滅法、妻には弱いのだ。
彼の膝を占領する動物は犬や猫ではない。
灰褐色の毛並みにずんぐりとした体つき、丸みを帯びた耳に、愛嬌のある円らな目。目の周りや足は黒っぽい毛で覆われており、ふっさふさの尻尾はまるで箒のよう。
そう、狸である。
勿論、化かされている訳では無い。
5年以上にもわたり、育み続けた愛情で成り立っている、はた目から見ても胸やけを起こしそうな程甘々な、おしどり夫婦なのである。
人と狸だけれど。
しかし、そんな仲の良い夫婦でも時には喧嘩をすることがあるらしい。
まんじりともせずに、返事を待つ男に対し塊は動かない。
お腹の辺りが呼吸に合わせて、ゆっくり上下するだけだ。
焦れた彼は狸の身体の下に手を差し入れ持ち上げた。前足を支えるようにして無理やり自分の方に顔を向けさせて、膝の上で後ろ足で立たせる。
と、狸の頭がかくりと落ちた。
首の座っていない子供のようにゆらゆら揺れる首に、すぴょー、すぴょーと聞こえてくる寝息。
……狸は、とても気持ちよさそうに、眠っていた。
どっと脱力。
そして、彼の胸中に押し寄せてきたのは。……深い深い、安堵、だった。
怒っていたわけではないのか。
ラーシュは大きな溜息を吐くと、嬉しそうに頬を緩めた。
お分かりいただけただろうか。
常は有能で常識人である領主様。だが、狸妻の前では実にポンコツなのである。
ぐらぐらと不安定な姿勢に目が覚めたのか、薄っすらと目を開けた狸がきゅうと鳴く。短い腕をじたばたさせるから手を離せば、狸は膝の上で鳩尾の辺りに鼻を寄せてぐりぐりと顔を押し付けた。
彼女なりの求愛行動である。
悶えんばかりの愛おしさに、彼は狸を抱き上げるとその鼻先に軽くキスをした。
「ネリ、すまん。話がしたいから、人に戻ってはくれないか?」
狸がきゅっと一鳴きして、ぽんと煙と共に現れたのは十代半ばの女の子であった。
夫婦となったのは今年の春だけれど、思いが通じあったのは5年以上前の事。
断じて、彼が幼女趣味だった訳では無い。出会った時、彼女は今と同じくらいの年恰好だったのだ。そして、とある事情で5歳ほど若返ってしまったのである。
きらきらとした好奇心旺盛な瞳、美人とは言い難いが愛嬌のある可愛らしい顔。
狸は一生涯決まった伴侶と共に過ごすという。一途な所は彼女も同じ。
喧嘩の真っ最中に眠ってしまう様な暢気な狸だけれど、彼女のおかげで、彼は表情が柔らかくなったと言われるようになった。彼女の行動を思い出せば、不愉快になりそうなパーティーの最中であっても、微笑みが零れるほどに、ラーシュは妻に夢中なのである。
さて、先ほどまでの撃沈状態が嘘のように通常通りになって執務に戻ってきた領主様に向かい、従者は呆れつつ尋ねた。
「で、喧嘩の理由はなんだったんです?」
「…………なんだったかな」
どうやら、大した理由ではなかったらしい。
結論。
夫婦喧嘩は犬も食わないと言うけれど。
どうやら狸と人間であっても、同様のようである。
従者「夫婦喧嘩中に居眠り。狸だけに、狸寝入りじゃないよね?」
狸「……きゅわ」
途中から爆睡していた狸妻でした。