紡げばいとおし
『糸』という本について読書会を開催いたします。
この文字をみて私は胸が踊った。遅咲きの恋が破れた社会人一年目。何気なく取ったこの本は、私の恋のバイブルとなった。若き二人が手を取り合って、生きていく話――
「皆さまお集まりくださってありがとうございます。読書会主催の宮田知佐子です。本日はどうぞよろしくお願いいたします」
宮田さんは赤いメガネをかけた感じの良い年配の女性だった。どことなく祖母に似ている、優しくて淡い雰囲気だった。五人と少人数の会にはなっていたが、他の人もきっと『糸』に心惹かれた人なのだろう。小さなカフェのテーブルで私は誕生日席に座っていた。宮田さんと何度か目が合い曖昧に微笑む。自己紹介もそうそうに『糸』についての話が始まった。
「ではまずは私から」
そう口火を切ったのは、主催の宮田さんだ。
「この本は私の母からもらいましてね。主人と私を重ねたりして、よく勇気をもらっておりました……」
宮田さんはご主人との大切な思い出の一冊だと語っていた。ご主人は三年前に亡くなったそうだ。
「でもこの本を読むと鮮やかに思い出しますの」
そう言って宮田さんは目を少女のように輝かせていた。
次にこの本のエピソードを披露したのは、男子大学生の稲葉類君だ。彼は物静かな雰囲気だったが、話し出すと積極的な人なのだとわかった。海外留学のお供として彼女がくれた本なのだそうだ。
「僕もこんな風に彼女と生きていけたら、と思います」
と語ると、稲葉君の隣にいるおじさまが嬉しそうに彼の肩に手を置いていた。小さなカフェの店員さんは稲葉君の話が終わってすぐに、飲み物を運んできた。アールグレイティーの香りがふわっと広がり、かじかんだ手を一気に温める。
次の話者は稲葉君の隣にいるおじさま、白木弥太朗さんだ。ぴっちり整えられた銀髪は、私の中で老年の正太朗のイメージに重ねられた。
「私も妻もこの作品が大好きでね。いやぁ、なんてことはない。今の若い人からしたら刺激が足りないかもしれないが、私にとっては革命だったんだよ」
そう懐かしそうな顔で、カップの取っ手を持った。
「私もね、米屋の長男坊だったんだ。話の中で正太郎は出ていってしまったけれど、私はちゃんと継いだ」
白木さんの話に周囲もあたたかい空気でうなずいている。
「私の若い頃はまだお見合い結婚が主流だった。ただどうしても幼馴染と結婚したくてね。それが今の妻なのだけれど、親は大反対。同等かそれ以上の家柄にしろって言われてしまった」
私は思わず、
「それで、どうされたんですか?」
と食い気味に聞いてしまった。白木さんはいたずらそうに笑って、
「この本みたいに駆け落ちしてもいいのかって脅したんだ」
と答える。私はこんなにきっちりした人が?! と驚いてしまった。その顔を見て、白木さんはまた笑う。
「強引な振る舞いをしたのは後にも先にもそれが最後。幸い家には男子が一人だったから、どうにか許してもらえた」
『糸』が人と人を繋ぐ役割もしてるんだと知って、嬉しかった。色んな人がいて、色んな影響を受けている。ここにいる人たち以外にも、きっと。
「次は川辺うららさん、ですね」
宮田さんの落ち着いた声が私に向けられた。
「あ、はい!」
授業のように返事をしてしまい、少し恥ずかしい。皆年齢より大人びているから余計にだ。
「ちょっとお恥ずかしい話になってしまうのですが……」
皆待っている顔だ。ここなら話せるかもしれない。私は思い切って話しだした。
「実は社会人一年目のときに失恋をしまして……。学生時代から付き合っていた彼に振られてしまったんです。当時はいわゆるオレオレ系が好きで、彼もそうだったんですね。浮気されてるのに気がついてはいたんですけど、その時は彼しかいないと思って我慢してて。彼に飽きられてるなって感じてはいたんですけど、はっきり言われると傷ついて」
早口になりすぎた、と反省し息を整える。
「振られた帰りにふらっと寄った本屋さんで、この本に出会ったんです」
白木さんは興味深そうにうなずいた。
「なぜその本を取ったんですか?」
男子大学生の稲葉くんがふいに聞いてきた。
「恋に疲れたあなたに、のフレーズで宣伝されている棚があって、たまたまこの本が目についたんです」
「導かれたんですね。この本に」
稲葉くんの声が反響した。
「はい。この本のおかげで気づいたんです。今までの恋はニセモノだったんだって。吹雪の中でも二人は手を取り合って進んだ。君子さんが凍えて動けなくなったとき、正太郎さんは自分の羽織をかけておぶって進んだんです。私が知っていた恋愛とは違った」
少し語りすぎてしまったと思ったが、誰ひとり茶化すような人はいなかった。
私の次に話始めたのは、宮田さんの孫の宮田華さんだ。華さんは、どうやら私と同年代らしい。
「祖母の希望もあって本日は参加させていただきました。私も皆さんとお会いできることを楽しみにしておりました。というのも、祖母も私もこの話が大好きで、さらに、縁のある名字の方を集めさせていただいたので……」
そう華さんが切り出すと、宮田さんはにっこりと笑ってひとりひとりを見渡した。
「孫から言われてしまったから、ここで打ち明けさせてくださいね。実は私は君子の子孫なんです」
稲葉君は目を瞠って、
「本当にあった話なんですか?!」
と驚いていた。
「ええ、そうなの。私も母から聞いたときは驚きましたわ。もちろん少々違う所もあるとは思いますけれど、正太郎と君子の娘が作家の桐谷えつ子なんです」
白木さんはぽかんと口を開けたまま宮田さんを見ていた。
「ここにいる皆さんも、正太郎と君子の子孫かもしれませんね。どことなく雰囲気が似ていらっしゃるわ」
宮田さんの話が頭から離れなかった。作中には二人の子供は女の子一人しか出てこなかったが、その下に友正という男の子が生まれたそうだ。友正の子供が友則で、その三人の子供のうちの一人が、弥太郎さんらしい。宮田さんはえつ子さんの子供の、のり子の娘だそうだ。カフェはニ時間制だったから最後まで話を聞くことはできなかったが、一週間後にまた会うことになった。今度集まるときは君子の形見のかんざしを持ってきてくれると、そう約束をして。
最寄りからの帰り道、はらりはらりと雪が降り始めた。正太郎と君子もこの空を見て共に生きる覚悟をしたのだろうか。凍りそうな夜を本当に乗り越えていたのだ。本来結婚するはずのなかった二人。その二人からこんなにも未来が広がっていた。ふとカバンを開けて『糸』を取り出す。雪景色にぽつりと描かれた彼らが愛おしく思えた。