癒し
オリバーがアスランを連れてきたばかりの頃、
アスランはほとんど人形のように、無反応だった。
そんなアスランを、シッキムは洗濯がてら
外に連れ出した。
アスランは飽きずに空を眺めていることが多かった。
蒼くて、丸くて、すごく高いところを、
鳥が飛んでいく。
その向こうを、白くて、もわっとしたものが、流れていく。
そんな様子をただただ眺めていた。
『今日もいい風、いい天気~』
最後のシーツを干し終えると、シッキムはぐっと伸びをして、一休み用のベンチに乗せた子供の様子を見に行った。
アスランは、なんとなく子猫を思わせる容貌だった。
表情の読み取れない、どこを見ているのかわからない、宝石のような瞳が、より、慣れない猫のような雰囲気を醸していた。
『さーて、11時だ。お茶にしよう。』
シッキムは、しゃがむと子供の顔をのぞきこんだ。
『どうしたの?空を見るのが、すき?』
『……。』
シッキムはにっこりと笑うと、その背中にばっさりと白い大きな翼を出してみせた。
そして、アスランを抱き上げると、
とんっと地を蹴りはばたいた。
『一番素敵に空を味わう方法だよ。』
子供は目を大きく見開いた。
『風の精霊に生まれたからには、楽しみ尽くさないとね。』
☆
はたはたと揺れる洗濯物に囲まれて
ちょっとした迷路みたいになっているのは
共用の洗濯物干場だ。
一休み用のベンチに腰かけて、シッキムは膝で眠る子供の背中を撫でた。
柔らかい産毛のような羽に覆われた翼がふわふわと心地いい。
11時のお茶に来ない二人を探しにきたオリバーは
シッキムの隣に座り、すやすやと眠るアスランの翼に顔を近づけた。
『お日様の匂いかしますね。』
シッキムはふふっと笑った。
『オリバーは、つくづく、風に愛されてるんだね。』
シッキムはオリバーが契約している風の精霊である。
黄金の朝日を受けたようなクリーム色の髪に、刻一刻と色合いを変える瞳は神秘的だが
穏やかな親しみやすい眼差しのせいか
とても人間臭かった。
『たしかに、何かに呼ばれた感じはしましたが…。
風だったのかな。』
オリバーも、そっと子供の翼に触れた。
柔らかで温かかった。
シッキムがもう一度撫でると
黒い翼は見えなくなった。
『翼はどうしたのですか?』
オリバーは子供の背中をさするが
そこにはなんの痕跡もなく
ただ頼りない小さな背中であるばかりだった。
子供はいまだ、目を閉じたままで
己の一番目立つ部位が消えたことにも無頓着だった。
『なくなった訳じゃないよ。
しまっただけ。
猫が人間には出来ない方向に体を曲げていたりするだろう?
あれと同じだよ。』
シッキムはいたずらっぽく笑うと、その背中に大きなましろい翼を生やしてみせた。
『なんと!』
『我々は風の精霊だもの。
風を一番素敵に感じる手だてを持たぬわけがない。』
『たしかに。
では、この子は風の精霊…』
『と、人間のハーフだな。』
シッキムは子供の顔にそっと手を添えた。
『何か見えますか?』
シッキムは、人の記憶をみることができる。
本人が忘れていたり認識していない記憶でも。
『ああ…。』
シッキムはそっと、手を離した。
そして、頬をやさしく撫でた。
オリバーが癒した場所だった。
『この子自体が、ものすごく強い精霊の加護を受けているよ。
何らかの理由で封じられていた…あるいは守られていたんだ。…それと…』
シッキムは一度いいよどんでから、続けた。
『精霊としては受け入れられず、人間としても受け入れられなかった…みたいだね。
…思い出したら相当辛いだろうと思うような…
そうだね。物理的にも酷い目にあってるんじゃないかな…。
ああ、可哀想に…。
オリバー、治癒と再生の魔法…かけてくれるか?
瞳を損傷してる…。ああ、なんて…
ろくに見えてなかったんだ…。』
『え』
オリバーは嘆息した。
アスランの瞳に手をあてて、
ゆっくりと一音一音確かめるように
子守唄のような旋律をうたった。
金色のシャボン玉のような泡がアスランの全身を包み、瞳や腕や背中や足に吸い込まれていく。
『…オリバー、大丈夫か?』
『…僕は大丈夫ですが…』
オリバーは、息を切らしていた。
それだけ、アスランのダメージは、酷かった。
『おそらく、長い時間をかけて再生してはいたのでしょうけど…。』
アスランの瞳から何かがポロリと落ちて、砂になって消えた。
『…僕が、あなたに会えたように、
この子は僕のところに来たわけですね…。』
オリバーは、アスランの横にずっと静かに寄り添っている大型犬を撫でた。
『大丈夫。大切に育てるよ。』
『わふっ』
犬は、オリバーの前で伏せた。
そして、オリバーの顔をじっとみつめた。
『らっしーも一緒にね。』