上
十年ちかく前に書いたもので、当時は失敗作としてお蔵入りしましたが、久しぶりに読み返したところ、それほど悪くもないように思ったので、ここで発表させていただきます。
なお設定(コンピューター、ネット関連)など、時代おくれな点があると思いますが、ご了承ください。
さいごに。励みになりますので、ぜひ感想、評価など頂けるとありがたいです。
1
小さい頃からコンピュータが傍にあって、慣れ親しんできた。小学生の時には自作のマイ・パソコンを所有して、プログラミングをしていた。中学の卒業文集には将来IT関係の仕事につきたいと書いていた。
だから大学に入って初めてアルバイトをしようというときに、その方面の職を探したの当然の成り行きだ。
時代は正にITバブルに浮かれていた。興味深い高額な時給の求人はいくらでもあった。そんな中から比留間が選んだのはネットのウエブページ製作の会社だ。
社員数十名にも満たぬ小さな会社だが、社長を始め社員は皆若くて熱気があった。バイトとして採用されたのに与えられる仕事が社員と同等だというのには閉口したが、比留間にとってそれは刺激的な職場だった。
仕事は勿論忙しかった。休日返上、徹夜は当たり前。中にはそこに住み込んでいる社員さえいた。
当然本分である学業に影響した。が、それも関係ないくらいに仕事の内容は楽しいものだった。
そして改めて自分に向いている職だと実感した。一日中モニターに向かってキーボードを打っていても何ら苦にならないのだ。
そうこうしているうちに一年が過ぎ、仕事の流れ、営業テクニック、経営のノウハウを習得してしまった比留間は、次第に独力でも出来るんじゃないかと思い始めていた。
無理もない。比留間の方が明らかに、大半の社員よりスキルが上だったのだから。
大学卒業後にそこを辞めると、大学の友人三人を誘って起業した。
インターネットを介して販売を行うネット・ショップの会社だ。
そこで販売したのは、海外にいるアニメ・マンガファン向けのフィギュアだった。
今や全世界に誇る日本のアニメ・マンガ文化は、海外にも熱心なファンを数多く持っているのは周知の通りだ。
そうした層に向けて日本製のフィギュアを購入し、横流しすれば充分採算が採れるとそう踏んだのだ。
滑り出しは好調だった。
そのまま経営は波に乗って、あっという間に予想をはるかに超える利益をあげた。
振り込まれた金額の、初めてみるゼロの多さに数ヶ月前まで学生だった彼らが有頂天になったのは言うまでもない。
しかし良かったのはここまでだった。
思えば短い夢だった。一年後にはすでに雲行きは怪しくなっていたのだ。
原因はその頃流行だしたネット・オークションにあった。人々はより低額で済む、仲介を必要としない個人対個人で取引を行い始めたのだ。
小さな比留間の会社には対策を講じる手段も知恵もなかった。そして会社は存在意義を失っていたのだ。
駆け昇るのと同様に、いやそれ以上に落下する速度は速かった。
そこに至ってようやく比留間は自分がうぬぼれていたことを知った。確かにコンピュータに関しては詳しいかもしれない。けれど経営に関しては素人の域を出ていなかったのだ。
やはり経営はそれほど甘いものではない。引き際を見誤って気が付くと資産のほとんどを失って、倒産を余儀なくされていた。
2
結果、比留間は一文無しになってしまった。バイトを含めてこれまで働いてきた数年間は何だったのか。
見事なほどに通帳は真っ白になって、今日明日の飯代すら困窮するほどになった。アパートの家賃も数ヶ月分が未納なままで、いつ追い出されるか判ったものではない。もしそうなっても転がり込むあてもなかった。
一緒に起業した友人たちとは、倒産に絡む金銭トラブルから絶交してしまった。仕事一筋だったため恋人もいない。父親とは以前から折り合いが悪く、実家に頼るのははばかられた。
まさに八方塞がりだ。
すっかり人間不信に陥って、部屋に閉じこもるようになった比留間が逃げ込んだ先は、結局ネットの中だった。
一日中電脳空間内をさまよい、そして偶然そのサイトを見つけた。
「要塞島」のサイトだ。
そこのトップページに書かれた紹介文をそのまま載せてみる。
要塞島。それは昭和初期に日本政府が来るべき太平洋戦争に備えて、要所要所の海上沖に岩と鉄、土砂を運び込んで造られた人工の島だ。
全長が約一~二キロメートル。縦に長い船のような形をしており、四方はそそり立つ崖となって、外からの侵入を防いでいる。その壁には穴が開き、砲台が備え付けられ、くり貫かれた地下には武器庫や船なども格納できる空間があるという。正に要塞という名に相応しい代物だ。
そしてこの島が面白いのは、そこに従属する軍人とその家族が生活出来るように小さな町が造られている点だ。
そこには居住区や商店街、病院に学校、銭湯などといった生活に必要な場はもちろん。映画館や公園、酒場に遊技場といった娯楽施設も備えているのだ。
その様子はコンパクトにまとめらた小さな町そのものだ。
しかしこの人工の島は結局完成を見る前に、日本の戦争敗北によって、建設の中止を余儀なくされた。要塞島はその使命を果たすことなく、打ち捨てられてしまったのだ。
サイトは他にもオーナーが島に上がった際に撮った写真も数多くアップされて、その雰囲気を的確に伝えていた。
階段状にデザインされた居住区、ホテルのような室内、崩れかけた学校に、ひびわれたコンクリートの広い道路。
郷愁を誘いながら一方で近未来的な新しさを感じさせるその風景は、比留間の興味を掻き立てずにおかなかった。
街の群集にうんざりしていた彼にはその廃墟は楽園のように見えたのだ。
すっかり要塞島の魅力に取り付かれてしまった比留間はそこを何度も訪れるうちに、サイトオーナーとメールをやり取りする仲になっていた。
久遠という名のオーナーとの間は、互いの顔や性格が知らないことが幸いして、何でも話せるような親密なものとなり、気付くと仕事の失敗、それによる人間不信、逼迫した経済状態など、プライベートな相談をしていた。そしてある日こんなメールが届いたのだ。
比留間さん。
それほどまでに現状の生活に嫌気がさしているのなら、我々と要塞島で共同生活をしてみませんか。
私もまた以前、あなたのように現状の生活に満足出来ず、理想の住処を求めていました。そして要塞島こそがその場所として最も相応しいと思ったのです。
私は一緒にそこに住む仲間を集め始めました。一人また一人と共鳴する人を増やし、その数はいつしか数百名に及びました。
我々は現在、念願がかなって、すでに要塞島に住んで生活しているのです。
ここまで来る道のりは決して楽なものではありませんでした。
しかし私達は困難を乗り越えたのです。
政府とのコネクションをもつ人物と知り合うことで、この計画は一気に現実となりました。要塞島を買収することが出来たのです。
つまりここは私達仲間だけの国。日本でありながら日本で無い、理想郷パラディソなのです。
自由な魂を持つ者ならば、来るものを拒まない。それが我々のモットーです。
本気でここに移り住もうという意志があるならば、連絡を下さい。
私達の国パラディソは、きっと比留間さんの理想にかなう場所だと、私は考えています。
理想の国、それを彼らはパラディソと呼んでいるらしい。
パラディソとはイタリア語でパラダイス、つまり楽園を意味する言葉だ。
あの廃墟の楽園に住むことが出来る。
それこそまさしく比留間が望んでいたことだった。断る理由があるだろうか。
早速メールを入れる。
すると返事はその夜に来た。
比留間さん、了解しました。
要塞島での生活に仲間入りしたいということでよろしいですね。
何度かに渡るメールとのやり取りで比留間さんの性格やものの考え方はある程度判っています。それを踏まえて他の住人と相談した結果、入島することに依存はないと判断されました。
私達は比留間さんを歓迎します。
さてそれにはまず、比留間さんにこの要塞島へ来てもらわねばなりません。
XX県の三輪市、幻籐町、そこが島に一番近い港町となります。私達は月に一回、食料や日常品の買出しのためそこを訪れています。
来週の月曜日が次の予定日なのですが、その時に比留間さんを帰りのクルーザーに乗せて島へお連れしようと考えています。
いかがでしょう?
こちらのクルーザーは全長約八メートル高さ四メートル程のレジャー船で、ボディを黒く染めています。私のサイトのタイトル横にある赤いシンボル・マークが船体にペイントされているのですぐに判ると思います。
クルーザーが停泊する場所は幻籐港の右に広がる雑木林を抜けた、石段を降りた所にある小さな入り江です。そこに使われていない漁船の船着場があるのです。
判りにくい場所なので、日中の明るいうちに一度下見をしておくことをお勧めします。
月曜の深夜十二時出航しますので、その前に来て下さい。
遅れないようにお願いします。
衣料、食料、日用品はこちらで用意してありますので、お持ちになる必要はありません。
以上。さらに気なる点があればいつでもメールを下さい。
島でお待ちしています。
それがオーナー久遠からのメールだった。
無論すでに心は決まっている。今いる場所にこれっぽちも未練はなかった。
早速翌日から準備を始める。
アパートを解約して敷金を返却してもらった。部屋にある電化製品や本やCDを売って、金に換えた。
結果、目的地までの旅費を捻出することが出来たのだ。
後は出発を待つばかりだ。
3
月曜の朝早くアパートを出る。
電車を乗り継ぎ目的地であるXX県三輪市幻籐駅までに、約半日を要した。
ホームに降り立つとまず潮の濃厚な香りが鼻をついた。
ひなびた雰囲気の小さな漁村は、時代が昭和に戻ったかと思うような雰囲気で、瓦屋根と板張りの小さな家が並ぶ様はひどく郷愁を掻き立てる。ひっそりとした駅前に人影はなく、とぼとぼと痩せた野良犬が通りを横切っるのを見かけただけだ。
まずは海の方へ歩いていく。
メールの忠告通り出航場所である船着場を下見しておこうと思ったのだ。
国道に沿って進むとすぐに港についてしまった。メールの通り、右端には雑木林が広がり、その中を通る獣道を抜けると石段が見つかった。降りるとなるほど、そこは岩場に囲まれた船着場だ。
ここが待ち合わせ場所なのだ。
海の向こうを眺めて見た。が、けぶった水平線の向こうに例の要塞島の姿を見つけることは出来なかった。
ここらで夜中まで時間をつぶせるような場所といえば、駅前に唯一あったファミリー・レストランしかなかった。
夜になって外へ出る。
空気は生暖かくまとわりつくようで、湿気を含んでいた。見上げれば厚い雲が空を覆って、今にも雨が降り出しそうな天候に変わっている。少し歩いただけで全身から汗が噴き出した
夜の村は一層人の気配が消えてまるでゴースト・タウンのように不気味だ。岬から光りを投げる灯台の存在がいやに心強く感じられて苦笑する。
潮騒の音だけが大きく響く中、雑木林を抜けて石段を降りた。そして例の船着場まで辿り着くことが出来たのだ。
クルーザーはもう着いていた。
闇の中でさらにボディを黒に染めたクルーザーを見分けるのは最初困難だったが、黒い塊のような影が波に揺られているのが判った。目が慣れてくれば例のサイト上にあるシンボル・マークも確認できる。
久遠が言っていたクルーザーに間違いない。
しかし、これからどうしたらいいのだろう? 勝手に乗り込んでいいものか。
比留間が躊躇していると、頭上から声を掛けられた。低音の落ち着いた男の声だ。
「比留間さんですか」
見上げると船上に動く影がある。
「そうです。比留間です」
「ではどうぞこちらへ」
男の手元で白い光りが灯った。手に持った懐中電灯をつけたのだ。
「足元に気をつけて」
光りがクルーザーの側面に付けられた手すりを照らし出す。
そこをよじ登り乗船すると、甲板で男と向かい合う。
「ようこそ比留間さん。私が久遠です」
「はじめまして」
ネットで知りあった人物と実際に会うとその印象にギャップに驚くことも少なくないが、今回もそうだった。
間近で見る久遠の細長い顔と体型は、昆虫を連想させた。顔は青白く頬はこけて、目だけが異様に大きくギョロリとしていて骸骨のようだ。
このように決して好ましい外見とは言いがたいが、それでもきっちりとスーツを着こなし、紳士的な物腰のおかげでかろうじて我慢が出来た。
しかし何より気になったのは久遠にまとわりついている香りだった。香水でもつけているのか、とろんとした甘く、腐りかけの果実のような独特の香りはどうにも好きになれない。というよりはっきりと不快である。
「お待ちしていました。すいません。暗くて判りづらかったでしょう。密航しているものですから、灯りをつける訳にはいかないんです」
久遠はそう言ってメインハッチを開けた。
「どうぞこちらへ」
一段下がった場所にある船室へ入ると、そこはオレンジ色の豆ランプに照らされた洞窟内を思わせる場所だった。
三方の壁際にそって取り付けられたベンチに、他の人影があって思わずギョッとして立ち止まる。自分以外に人がいるとは思わなかったのだ。
「こちらの男性は美樹橋さん。女性が小野さんです」
そう比留間に紹介すると、久遠は今度奥の二人に向かって「今到着したこの方が比留間さんです」と言った。
なるほど今晩、要塞島に招待されたのは自分だけではないのか。
納得して比留間は開いているベンチに座り、他の二人の様子をさりげなくうかがった。
緑のキャップを被り黒ぶちメガネをかけた美樹橋という名の男性は、何を考えているのか一人でにやついていた。
妙に白くぷよぷよとした肌はいかにも軟弱で、お宅風な雰囲気を漂わせている。まだ学生だろうか、だとしたら年齢は比留間より二つ三つ下である。
さてもう一方の小野という女性はというとこちらも妙だった。
顔を隠すように伸びた黒髪。この暑い中、黒いコートで全身を包んでいる。足元の妙に派手な赤いパンプスが目をひいた。全身から世の中の不幸を全て背負っているかのような暗いオーラが発散しているようで、近寄りたくない雰囲気だ。
どちらも集団生活にはいかにも馴染めなさそうなタイプだ。
などと他人を批評していて比留間は苦笑した。
かくいう自分だって彼らとそう違わないことに気付いたのだ。
ボサボサの髪に無精ひげだらけの顔、汗に汚れた服装の全財産を失った男。
三人はいずれも社会から落ちこぼれた同じ仲間なのだ。
クルーザーは予告どおり十二時丁度に出港した。
4
沖へ出ると風は強くなり、クルーザーは波に激しく揺られた。備え付けの椅子は座り心地が悪く、じきに腰が痛くてたまらなくなった。加えて窓もない穴倉のような船内は熱気がこもって、サウナにでも入っているようだ。
船に慣れているであろう久遠を除いた新参者である三人の顔は見る見るうちに青ざめていく。
するとついにこらえきれなくなったのか、美樹橋が口を手を抑えながら飛び出した。
「海に向かって吐いて下さい。しっかり手すりにつかまって、振り落とされないように」
デッキに向かって久遠が声をかける。
そして今度は隣で脂汗を浮かべて俯く比留間を見つけて言った。
「大丈夫ですか。比留間さんも船に酔いましたか?」
「ええ。気持ちが悪い。外の風を浴びてきます」
「海が荒れていますからね。落ちないように気をつけて」
「判りました」
外へ出ると塩辛い湿気を含んだ風が、したたかに頬を打ちつけた。デッキは波を被って水に濡れ、危険でとても歩けたものではない。
それでも暑苦しい船内にいるよりは遥かにましだ。
比留間はブリッジの壁に背をつけて丸くなってしゃがみこんだ。
見れば船尾に縁から先に頭を出して、うめいている美樹橋の姿がある。
ピカッ!
その瞬間、空が紫色に妖しく光った。
比留間は見た。クルーザーの向かう先に雷光を受けて浮かび上がる黒く巨大な物体を。
あれは何だ?
そしてもう一度雷光がそれを照らした。
巨大なタンカーか、岩山か。
しかしそれこそが目指す先である要塞島だったのだ。
しかし憧れていたはずのその場所は、その不穏な天候のせいもあるのか、不気味な禍々しいものに感じられた。まるで巨大な墓場のように。
コンクリートの塊やテトラポット、鉄くずらしきゴミが転がる要塞島の小さな港に比留間たち一行は降り立った。
その中に見知らぬ顔が一人。それはクルーザーを操縦していた間宮という、これまた骸骨のような顔と体格をした男だった。
荷物を降ろす作業をする彼を残して、他の四人は先へ進んだ。
「さあこちらです」
先頭に立ち案内する久遠の歩く様子はどこかロボットを連想させた。まるでぎこちないのだ。
一方島に上陸はしたものの周囲は墨で塗りつぶされたかのように暗く、何も見えなかった。
いや、灯りは見えた。
島の遠方、絶壁のようそびえたつ崖? いやそれはビルだった。
その向こうがぼうっと明るく光りがともっているのだ。
そして音がした。ズンズンと響くようなリズムが聞こえる。
何が行われているのだろう。
しばらく行くと小石だらけだった未舗装の道がアスファルトに変わった。
町の中へ入ったのだ。と思ったら久遠は立ち止まった。
「今晩はとりあえずここへ泊まって下さい」
久遠の後ろにあるのは平屋建てのカマボコのような形の建物である。中は一本の通路が走っていて、その右側に幾つもの部屋が並んでいるのだ。江戸時代の長屋のような造りになっているのだろう。
其々の部屋を割り当てられ、三人は中へ入った。
三畳ほどしかない部屋にはベッドが置いてある以外何もなかった。
まるで留置所みたいだ。比留間は不満を抱いたが、緊張が続いて疲れていたのだろう、 ベッドに横になった途端、すぐに眠ってしまった。
そして夢に引き込まれる比留間の耳には、なおも外からの音楽が届いていた。
5
目を覚ますと室内には光りが差し込んでいた。
この部屋には壁をくり貫くようにして、小さな窓が一つついている。陽光はそこから入ってくるのだ。
一晩ぐっすり眠ったせいか体調は戻って、頭はすっきりとしていた。
外へ出てみる。
昨夜の不穏な黒雲はすっかり消え去って、代わりにくっきりとした青空が広がっていた。
そして前方に目を向ければ、積み木のような四角い建物が重なって、一つの城塞と化した町が見えた。
要塞島のそこが中心部に当たるのだ。
そうだ、本当に俺はここにやってきたんだ。比留間はようやくそれを実感した。
灰褐色に沈む要塞島を眺め回し、しばらく物思いにふけっていると、樫の木にもたれている一人の女性の後姿が目をひいた。
長い髪に黒いコート、そして赤いパンプス。
昨晩一緒のクルーザーで来た小野という女性だ。
「お早ようございます。どうですここへ来た感想は?」
声を掛けてもしかし彼女は返事をしないどころか、こちらに顔を向けようとさえしない。その横顔の虚ろで物悲しげな様子は、ここへ来ることになった深い事情を感じさせた。
人間不信に陥っていた比留間にも、その気持ちが判るような気がして、それ以上構わないことにした。時には誰にも干渉されず放っておいてほしいことがあるものだ。
さてそうするともう一人、お宅風青年の美樹橋はどうしているのか気になった。
あのウサギ小屋のような部屋でまだ眠っているのか、それともどこか出歩いているのだろうか?
しかし考えてみれば、彼もまた積極的に親しくなりたいような相手ではない。放っておくことにした。
その場で久遠を待っていた比留間だったが、じきに好奇心を抑えきれなくなって、町に向かって歩き出した。
夢にまで現れた場所が、すぐそこに広がっているのだから、じっとしていろと言う方が無理である。
ガランとした廃墟の町は人の気配もなく静かだった。小鳥の囀る音一つしない。
思えばここへ来てから、動物や虫などの生き物を見かけてはいなかった。
コンクリートのつなぎ目から根強い雑草が生え、崩れかけた建物にはつる草がはっているというのに、そこに群がる虫がいないというのは不思議である。
そしてその中に咲き乱れる紫色の花。くすんだモノクロームに沈む廃墟の中でその色はひどく目立った。まるで都市の流す血のように見えたのである。
ユリのような形をしたその花を見るのは初めてだった。
もちろん、花の種類に詳しいわけでもない比留間にその名前が判るわけもないが、とにかく日本のものでないことは確かだった。
そしてその花芯から発散される匂い。甘く腐ったような。
それは昨夜、久遠から発せられた香りと同じものだった。この匂いはこの島全体を覆っているのだ。
町の中心部に入るとさらに複雑に入り組んだ、シュールでユーモラスな光景が広がっていた。
段々畑のような居住スペース、迷路のような路地、突然現れる小さなトンネル、繭状のデザインのホール。
過去と未来がごちゃ混ぜとなった、その中はまるで異世界で現実感がない。
ここを設計した建築士はさぞや楽しかったことだろう。ここには作り手の遊び心と悪趣味とが入り混じっていた。
町のそこは中心部になるのだろうか。円形広場に比留間は出ていた。
中央には一段高い舞台があって、そこを集会場のようにして利用するつもりだったことがうかがえた。
ふと広場の端を見て比留間は驚いた。
黒い影、何物かがそこに倒れていたからだ。
駆け寄り見ると、白髪まじりの髪、汚れた水色のポロシャツ、裸足にサンダルという格好の男性だった。
初めてこの島の住人と会うこと出来た。声をかける。
「あの、お早うございます」
しかし横向き倒れた男は何のリアクションも示さないばかりか、体一つ動かそうとしなかった。
「聞こえてますか」
思い切って耳元で声を張り上げても無駄だ。その顔は虚ろなままで瞬きすらしていないようだった。
それにしても男のそのやつれ具合ときたらどうだろう。
目の下には隈が出来、唇はカサカサに荒れて、首筋には骨が浮き上がっていた。そして不健康な青白い肌の色。久遠や、クルーザーの運転手と同じだった。
ここに住んでいると皆こんな風になってしまうのだろうか?
見ていると男が死んでいるような気がしてきて、怖くなった比留間はそこを逃げ出した。
そして今度比留間はやってきたのは、地下へと続く通路の中である。ここを下へ降りていくとそこにはローマの地下大浴場を模した銭湯があるはずなのだ。
久遠が立ち上げたサイトを隅から隅まで熟読している比留間の頭には、島の全景各所がインプットされているのである。
横幅のある通路はゆったりとして、下へと続いている。壁にはアンティークな面持ちの洋ランプが並んで、床はつるつるの石となっていた。
まさに和洋折衷。時代や国を超えて取り入れられたデザインのセンスに脱帽するほかない。
下った先は、天井の高いホールのような場所となっていた。
地下にあるそこは風雨にさらされなかったせいだろう、状態がよく、今でもすぐ使用出来そうなところがかえって不気味だ。
6
暗闇に目が慣れてくると次第に地下浴場の仔細な様子が見えてきた。
その途端、広いプールのような浴槽に、うごめく物陰を見つけてたじろぐ。
何と、水の張られた浴槽内に数十名に及ぶ人間が浮いていたのだ。
悲鳴をあげなかったのが不思議なくらいである。それくらい、その光景には度肝を抜かれた。
一体彼らは何をしているのだろう? まさか全員死んでいる? しかし命はあるようだった。
というのも、しばらくすると、腕を上げたり、足を動かしたりする水音や、かすかにうめき声らしきものも聞こえてきたからだ。
それにしてもそこに立ち込める雰囲気は異様の一言につきた。
その精気の無さといい、不気味な沈黙といい。映画で見たゾンビの群れを思い起こさせる。
きっとここにいる者達は、表にいた円形広場で寝ていた男と同様の、青白い虚ろな表情をしているに違いない。確かめるまでもなくそう思った。
気味の悪いこの場所から出よう。比留間はもと来た階段を引き返した。
音を立てたらいけない。招からざる客である自分の存在が、奴らに知れたら襲い掛かってくるに違いない。比留間は本気でそう考えていた。
静かに静かに、上へと昇っていく。そしてある程度まで進むと、あとは全速力で逃げ出した。
地下通路を出てからどこをどう走ったのか。
歪んだ廃墟を抜けて、瓦礫の山を越えて、迷路のような通路を通って。
いつのまにか昨晩泊まった建物の前にいた。頭がズキズキと痛み、クラクラと目が回った。
建物の中には久遠が待っていた。
「どこに行っていたんです? 心配しましたよ」
本当にそう思っているのか、相変わらずの無表情で、その顔には感情のかけらも浮かんでいない。
この男は何を考えているのだろう。聞きたいことは山ほどあったが、人形のような久遠に何を尋ねても無駄なような気がした。
「そういえば、他の二人はどうしたんです?」
比留間は話題を変えた。
建物内に他に人の気配がしないのに気づいたのだ。
「美樹橋さんと小野さんならもう既に新しい住居に移ってもらいました」
「新しい住居?」
「町の中にある住宅地域です。比留間さんもそこに行くのです。すぐに荷物を持って来て下さい」
事務的な口調に反感を覚えたが、無言で従うことにした。今日はこれ以上面倒なことは考えたくない。
部屋からショルダーバッグを掴み肩にかけると、比留間は久遠についてそこを出た。
「町へ出てみたんです」
ずっと黙ったまま歩き続けるのも苦痛なので、比留間は適当に喋りかけた。
「どこら辺りに行きましたか」
久遠が尋ねてくる。
「商店街とかホールだとか。写真で見るのとはやはり違う。架空の世界に紛れ込んだような不思議な気持ちになりました」
「そうでしょう」
久遠はここで不意に比留間に顔を向けると笑って見せた。口の両端を三日月のように曲げた不気味な笑い。
「最初は皆さんそう言います」
そしてさらに続けた。
「ところで、ここの住人に会いませんでしたか?」
「え、まあ」
どうしてだか判らないが、比留間は返事を濁していた。
「彼らに会うと最初は戸惑う、というより不気味に思うかもしれません。何しろここに集まるのは社会に馴染めない個性的な者ばかりですから。協調性や常識なんて無いも同然。皆、バラバラに好き勝手な行動をしているのです。
でも比留間さんも枠からはみ出した人間、いわば同類だ。すぐになれますよ。数日もすれば居心地がよくなって、この島に来て良かったと思うでしょう」
久遠は言って、再び作り物めいた笑顔を浮かべた。
7
段々畑状に積み重なった居住区の一室が比留間に与えられた。
中は外から見るよりも広大で、室数は二百以上あるということだ。
島の住民はほとんど全てがここに住んでいるというが、それにしてはひと気がなかった。
きっと誰もが無気力なまま横になっているのだろう。
入ってみるとどれもが家族が入居することを前提に造られているからか、二部屋以上はあって一人で住むには充分な広さがある。
「荷物を置いたら来て下さい。食堂やトイレのある場所を案内しますから」
てきぱきと説明する久遠は有能なガイドのようだ。
建物の一階には食堂があった。
「隣には台所があります。冷蔵庫も備え付けてあり、中には野菜や肉、魚、加工食品など一通り揃えてありますので、各自自由に料理して食べてもらっています」
電気は円形広場の地下ににあるという発電機から起こしているそうで、その燃料となる灯油は月一回の買出しの時に仕入れてくるそうだ。
とはいえ自然のままに生活するのが島の前提なので、必要最低限の電気しか使用しないらしい。
その他幾つかのこの島における了解ごとを久遠が語ってくれたが、そのほとんどを比留間は上の空で聞いていた。というのも頭痛がして、時間が経つごとに痛みが増していったからだ。
次第に立っているのも困難になってきた。そう告げると久遠はすぐに休むようにと、心配そうに言った。
「この島は本土とは少し気圧が違うようです。初めて来た人はよく頭痛や吐き気を訴えます。しかし二、三日すれば大丈夫。体が慣れてくるのです。比留間さんもそれまでの辛抱ですよ」
なるほど、治すにはじっと寝ている以外ないということか。
比留間は自室に戻るとすぐにベッドに横になった。
どこからか奇妙な物音がしていた。
何だろう?
比留間は目を覚ました。
その音はなおも続いて、次第に大きくなっていくようだ。
シンバルに太鼓、ギターにシンセサイザーのような音もした。そして大勢の者による手拍子と掛け声。
お祭りでもしているのか。
窓を見れば赤や青の光りをうけてガラスが輝いていた。
リズムはさらに激しさを増していく。
立ち上がり外をのぞく。
コンサートのステージで使われるフェアライトというシステムを知っているだろうか。
無数のライトをコンピューター制御でコントロールし、明滅、移動をさせて視覚効果を演出する、いわば光りの芸術である。
それと同じように広場には沢山の光りが生き物のように渦巻いていた。
それを浴びて踊っているのは、この島の住人か。
一体何人いるのだろう? ほとんど全員がそこに集まっているような気がする。
熱気と興奮に包まれて彼らは生き生きと精気にあふれていた。
信じられない。
昼間見た倦怠感で死んだように横になっていた彼らと、これは同一人物なのか。
興味深いその光りのカーニバルとでもいうべき集まりを、しかし比留間はそれ以上見ていることが出来なかった。なおも去ることの無い頭痛が襲ってきたからだ。
再びベッドに倒れこみ目を閉じる。