魔法耐性(スペルレジスタンス)
「硯ちゃん、お兄ちゃんにもクッキーを分けてあげて」
襟亜さんに言われて、一番若い女の子、硯ちゃんが俺にクッキーを差し出した。
「一箇所の龍穴が放置されたからって、すぐに地上が滅ぶ訳じゃないの。でも良い結果にはならない。魔力と人間の生命力は互いに影響を及ぼすから」
「世界中のパワースポットが解放されて、人間の闘争本能が剥き出しになったらどうなるかしら?」
「だから我々魔法使いは、人間の世界に来るにあたって、龍穴を管理する事を一つの役目としている」
「ここに住んでいたおじいさんはね、魔女と結婚していたの。魔女であるおばあさんはもう死んでしまったけど、龍穴は守ってくれていたの」
「引っ越ししてきた理由は、分かりました」
俺がそう言うと、張り詰めていた部屋の空気が少し和らいだ。
「君……弓塚弘則君が、悪い人間じゃないというのはよく分かった」
縫香さんがどこからともなく新しい煙草を取り出して、口元に運ぶ。
紫煙を吸い込んで宙へと吐き、リラックスすると長い足を組んだ。
その奥に黒い下着が見えた様な気がして、俺は慌てて視線を反らした。
「悪い人間だったら、人を殺した事に怒ったりはしませんものね」
「まさか、俺を試す為にそんな事を? 本当はおじいさんを殺したりしていない?」
「老人は長距離テレポートの負荷に耐えられそうになかった。だから一度死んで貰った」
「テレポート中に死んだら苦しむ事になるでしょ? だから即死させた跡に死体を運んで、向こうで蘇生した方が良かったの」
「いや……もう触らない方がいい様な気がしてきました」
この魔女達にとって人の命の重さという概念は無いらしい。
必要なら殺し、そして必要なら蘇生するのだろう。
ひとたび、この部屋の雰囲気は温和になったものの、彼らが俺の命を脅かす存在である事に変わりはなかった。
「我々も引っ越すにあたってトラブルを起こしたいとは思っていない。だから記憶を操作して、我々の記憶を埋め込ませてもらう事にしている」
「でも、お兄ちゃんの様に、魔法に対して高い耐性がある人間がいたりするの」
「魔法に対する耐性?」
「スペルレジスタンスは誰でも持っている抵抗力だ。この町にもいくらでも居るが、君のように殆どの呪文を弾いてしまう人間は珍しい」
「しかもそれがよりによって引っ越し先の隣の家の住人、しかも真結と同じ年頃で同じクラスの青年という可能性なんて、予想できなかった」
「同じ年頃の青年が居るのは、下調べで分かっていたの。だからあなたには、真結の交際相手という記憶を持って貰うつもりだったのよね」
縫香さんと硯ちゃんが飲み干したカップを襟亜さんがトレーの上に乗せて片付けていく。
「恋人になるにあたって、色々と勉強してきたんです」
「こ、恋人……」
俺の顔を正面から見つつ、頬白がそう言った。
もし俺が魔法にかかっていたら、この子が俺の恋人になる予定だった。
「もう一度、その記憶の魔法をかけてもらってもいいですか?」
と尋ねると、硯ちゃんが口を尖らせて言った。
「何回か試したけど、全く効いてないもん」
「こ、交際相手って設定はアリですよ? いつでもOKって感じです」
「本当ですか? 良かった!」
「縫香姉さん、いいの?」
「良いんじゃないか? 我々に協力してくれるって事だろうし」
縫香さんは少し悪戯っぽい笑みを浮かべながらそう言い、足を組み替えた。
「そんな風に足を組み替えたらパンツが見えるでしょ。年頃の男の子には目の毒よ」
「見たければ見ればいい。私は構わない。ちなみに今日は履いてない」
明らかに挑発だった。では先ほど見えたと思ったのはまさか……。
「あ、もしかして弓塚君は女性の下着とか見たい方?」
「いや、あの……」
襟亜さんが笑顔で俺にそう尋ねてきたが、この人だけは怖い。返事を間違えたら本当に殺されそうな気がした。
「やだ、若い男の子って、えーろーいー」
(ああっ! この襟亜って人、なんだか面倒臭い人だ!)
脅したり茶化したりして、他人の心を弄ぶのが好きな様だった。いや、心だけでなく命も弄んでいるかもしれない。
こっちとしては怒るに怒れないし、文句を言って逆ギレされるのも怖い。
「ごめんね、弓塚君。お姉さん達は普通じゃないから」
頬白の言う通りだった。この二人の姉、縫香さんと襟亜さんは普通じゃない。
でも頬白真結とその下の妹、硯ちゃんはまともそうに見えた。
「あーこの株ダメだなー、もうちょっと頑張ってくれると思ったのにー」
「頑張って硯ちゃん、この家の家計は硯ちゃんにかかっているのよ」
いや、まともな小学生は株の売買なんてしないだろう。
そして家計を株取引に依存するなんて破天荒な人生を、普通の人は望まない。
魔女は、既に魔女である時点で、普通ではないのだ。
「変な……質問だけど……頬白は、人間が出来ない何かが出来るの?」
「私は、一人でも多くの人を幸せにしてあげられたら、それでいいの」
「……そ、そう」
漠然としていて、とりとめのない答えだった。
人を幸せにしたい。それはとても素敵な気持ちだと思う。
少なくとも争いや他人の不幸を願う人に比べたら、雲泥の差で善良な願いだった。
「お兄ちゃん。真結姉ちゃんは本当に人を幸せにするから」
株の推移が映っている画面を見ていた硯ちゃんが、横目で俺の方を見ながらそう言った。
硯ちゃんが何を言いたいのかがよく分からず、俺は返事に困った。
「願い事じゃないの。お姉ちゃんは人を幸せにする力を持っているの」
「人を……幸せにする力……?」