嵐の前の……
「ダーリーン、まって待ってー、私をおかずにしてもいいのよー?」
「遠慮します! 俺、もうあがりますから!」
若い男を遊び道具にしか見てない恐ろしい魔女と悪魔達から逃げ出し、俺はちょっと膨らんだ股間をタオルで隠しながら脱衣所に戻る。
「うわっ!? ゆっ、弓塚君!?」
脱衣所にはまだ着替え途中の来島さんが居て、裸の俺が飛び出してきた事に驚いていた。
「すいません! ごめんなさい! 今すぐ出て行きます!」
幸い脱衣所には来島さんしか居なかったから良かったものの、他の女性が居たなら、俺は犯罪者として通報されていただろう。
女湯の出入り口から男湯の出入り口まで誰も居ない事を確認すると、全力で走り、なんとか男湯の方の脱衣所に辿り着く。
汗だくになってしまった為、汗だけ流そうと洗い場に行くと、そこには全身毛だらけの使い魔が人間と同じ様に身体を洗っていた。
「woo……」
(そうか……この使い魔さんはオスか……そんな感じはしてたしな……)
さすがに見慣れた俺は、使い魔さんの横まで行き、椅子に座って汗を流す。
隣で汗を流す俺に、使い魔さんは自身が使っていたブランド物のシャンプーを、備え付けの物より良いからと薦めてくれた。
多分、俺が風呂に入りに来たと思って、気を遣ってくれたのだろう……。
(使い魔さん、あなたは良い人だ……人じゃないけど)
汗を流した後、使い魔さんは湯船には浸からず、塀を乗り越えてどこかへ行ってしまった。
俺は着替えを済ませて自分の部屋へと戻る。
この温泉に混浴が無くて良かった。もしあったら、逃げ出す事すら出来なかったかもしれない。
そう思いながら、廊下を歩いていると、従業員の人が声をかけてきた。
「お食事の用意、あと15分ほどですので、お座敷の方においで下さい。お酒の方は先に準備できますので、いつでもどうぞ」
「あ、はい……」
つまり食事は各部屋ではなく、座敷で皆で食べるという事だった。そして酒盛りの準備もばっちりらしい。
(また、嵐が来るのか……)
新人歓迎会という名の試練に向けて心構えをする若者の気分だった。
(今からやらなくても、数年後には歓迎され放題なのに……ああ、そう考えると、今から慣れておいた方が良いのか……社会勉強と思えば……)
などと、必死で心の中を前向きに保っていた。
自室に戻ると先に部屋に戻っていた町田が小説を読んでいた。
「食事、あと10分ほどだって」
町田はそれだけ言い、お酒の件に関しては触れなかった。
「町田……料理ってさぁ……」
「弓塚は大変そうだな」
「ですよね……」
何も言わなくても俺の事を察してくれる、真の親友だった。
そして、俺は助ける事なんて出来ないぞ、という意味も町田の言葉には含まれていた。
何故だろう。窓の外に見える夕日が、あんなにも切ない色に見えるのは。
どうしてだろう。空が紫色に変わっていくのが、こんなにも哀しく見えるのは。
覚悟を決めた詩人の気持ちで、窓側においてある椅子に座りながら景色を見ていると、扉がノックされた。
「町田君、ひろくぅん、ご飯食べに行かない?」
と呼びかけてきたのは襟亜さんだった。
「どっ、どうして呼び捨て!?」
「あら、私達の本当の名前を知った人はもう家族よ。逃げられると思って?」
「……魔女にもトゥルーネームとかあるんだな」
「ああ……でも、知らない方が良いよ」
「弓塚……婿養子と同じぐらい大変そうだな」
「覚悟は出来てるよ」
その婿養子という町田の表現は的確だったかもしれない。
もしこの先、つつがなく人生を送り、真結ちゃんと結婚できたとしても、形式上は向こうが花嫁に来たとしても、実質的には俺が婿入りしている様な物だった。
(決して、悪い人達じゃないし……一人二人、悪魔も混じってるけど、悪い悪魔じゃないと思うし……)
自分に言い聞かせる言葉は、この先もどんどん増えていきそうだった。
俺と町田が部屋を出ると、外で待っていたのは来島さんと襟亜さんと真結ちゃん、リザリィの四人だった。
「さぁ二人とも、今日は楽しむわよー」
「リザリィは、朝から楽しんでるよね」
「まだまだ続くわよー」
俺の片腕をがっしり掴んだ彼女は、もう片方の腕をグルグル回してやる気を見せていた。
「ちょっとひろくん、宿代はリザリィに払って貰ってるんだから、ちゃんとご機嫌とって頂戴ね」
襟亜さんが俺の側に来て、そう耳打ちした。
何故俺が、という葛藤が心の中に一瞬起きたが、すぐに真結ちゃんが腕を組んでフォローしてくれた。
「ごめんね、ひろくん。本当にごめんね」
全て許された。好きな女に頭を下げられて許さない男は居ない。それがダメ男だというのなら、俺はダメ男として生きていこう。
「なんだかよく分からないけどリザリィも謝っておく。ダーリンごめんねぇ、ご機嫌なおしてねぇ」
(いや、この場合、リザリィは謝らなくてもいいんだけど……)
「あらあら良いわねぇ、両手に花で羨ましいわ。さ、お座敷に行きましょ」
俺達をエスコートする襟亜さんは、まるで旅館の従業員のようだった。
その後ろ姿に微妙に隙が無いのを見た時、襟亜さんの最重要な目的は真結ちゃんを守る事であって、この人は絶対に気を許さないのだろうという事を感じ取れた。
さきほどの温泉でも、かなりハードなセクハラをしてきたけれど、でも、リザリィや縫香さんの様に我を忘れるという事は無かった。
『この笑顔は仮面だ』と言った事があった。コイルさんは主に忠実な猟犬だと言った。
襟亜さんは頬白に魔法を使わせない為に、自分に仮面をつけて生きていくと決めたのだろう。
襟亜さんがその壁を崩して、他の皆と同じように振る舞えたら、もしかしたらとても優しい人なのかもしれない。
「あらっ、なんで使い魔がウロウロしてるのよ、ちょっとこっちに来なさい!」
「WooAAArrgg!!」
「ああっ! 使い魔さんが!!」
いつか聞いたあの獣の悲鳴。それは使い魔が襟亜さんに襟首を掴まれ、腹に膝蹴りを入れられた後に後頭部に手刀を入れられて昏倒するという、一流のスナイパー顔負けの拳闘術の結果だった。
「ちょっとごめんなさいね。この子、始末してくるから」
「し、始末って、殺さないで下さいよ」
「ひろくん優しいのね。わかったわ、命だけは助けてあげる」
(前言撤回……やっぱりこの人はギリギリで悪だと思う)
「襟亜はやり過ぎだと思う」
「そうだよね、リザリィもそう思うよね?」
「私も前にお姉ちゃんに言ったんだけど……真結ちゃんって優しいのね。で終わっちゃった」
「あれは基本的に、他人の言葉を聞かない女だからな」
あの時見た光景と同じく、襟亜さんは脇に毛だらけの獣人を抱え、ずるずると引きずりながらどこかへと行ってしまった。