狂犬
頬白がよく気のつく女の子だという事は、出会った当初から分かっていた。
俺が風水の本を手にとったのは、頬白姉妹と、そして魔法の事について興味をもったからで、そしてそれを勉強しようと思ったから――という俺の気持ちを頬白は読み取ったのだろう。だからとても嬉しそうに、ありがとうと言ったんだと思う。
頬白は料理の本を手に、俺は風水の本を手にレジに並び、それぞれ購入し、店を出た。
書店の袋に入っている本というのは、何故か少しありがたみがある。裸のまま渡されるのとも、書店のカバーをつけてもらうのとも違う。簡易でも包装されているという所に、とても小さな価値があった。
二人で駅前の銀座通りを抜け、そのまま住宅街へと続く国道沿いを歩く。
自宅までの距離としては、少し道を戻ってからいつもの登校路を使い、町田の家の前を通った方が近いのだが、その『戻る』という行為がなんとなく億劫な時はこの道を使う。
この国道は小さな山沿いを通る道で、西側にあるこの山には少し大きめの神社があった。この辺りでは有名な神社で、駅近くの小さな神社とは違う神様を祀っていた。
見上げれば国道の上にアーチを作るように山の木々が枝葉を伸ばしていて、夏でもこの道は木陰となって涼しかった。
人通りもそれなりに多く、制服姿の子供の他に、買い物に行き来するお母さん達が乗る自転車や、作業着を着たおじさん達の姿が見えた。
そして、それらのごく普通の人達の中に、普通では無い男性が混じっていた。
俺達の目の前から、その男性はゆっくりと近づいてきていた。
背の高い、ダークスーツを来た男性。その顔の作りはほりが深く、ぱっと見にも日本人には見えない。
手足がとても長く、スマートで、映画に出てくるある種の登場人物を彷彿とさせた。
――ギャング、或いはマフィアの幹部。
切れ長の目をちら、と見たが、生理的な恐怖感から視線は合わせなかった。
口元はニヤニヤと笑っていた。
誰も、その男性に気づく様子は無かった。隣を歩く頬白真結でさえも。
そして、その男性は、俺地二人の前で立ち止まった。
目の前に、香水の良い匂いのするスーツの胸元が見える。
そこから上に視線を向けるのが怖かった。
「っ!?」
ようやく、そこで頬白は目の前の男性に気づいたらしく、咄嗟に僕の腕を掴んできた。
それは明らかに恐怖から生じた行動だった。
「これはこれは……こんな所であなたと出会うとは思いませんでした」
外人風の顔の作りに似合わない、流暢な日本語だった。
その声から、敵意は感じられなかったが、押しつぶされそうな威圧感があった。
「どなた……ですか……?」
そう答えた頬白の声は震えていた。
そして、俺達の周りを歩く人達は、誰一人として、この緊迫した状態に気づいてはおらず、何事もないように横を通り過ぎ行く。
(これは……魔法だ……)
この外人風の男性が魔法を使っているのだろう。そして自分の目立つ存在を封じている。その魔法は頬白にも効いていたが、俺には効いていなかった。だから、俺だけが生理的な警戒心を呼び起こされたのだろう。
「そんなに怯える必要はありませんよ。あなたに用があってここに来た訳ではありませんから」
男の声は冷ややかで、心の底まで届いてきた。
俺がなけなしの勇気を振り絞って、男の顔を見上げようとした時、男のアゴが見えた所で全身が硬直した。
「君はSRがあるのか。最初から私のカモフラージュの魔法を見抜いていたね? でも、それ以上顔を上げてはいけないよ」
「私の本当の顔を見てしまったら、君を殺さなくちゃいけない」
その男の言葉そのものに魔法が宿っている様だった。
耳を通して伝わる空気の振動は、心まで共鳴し、心臓に触れてくる。
「二人とも気を楽にして、そのまま、視線は……そう、下を向いたまま。お互いの為に」
「たまたま、すれ違っただけだよ。本当に偶然だ。今日はね。次はちゃんと君に会う為の準備をして……」
男の声がそこで止まり、空気が硬質的な別の中かへと変化した。
視界の端に見えていた、歩く人の足が止まっている。
宙に舞う緑の葉が、そこに止まっている。
身体の中央――腹の部分を、背中側から冷たい何かが通り過ぎた。
瞬間、俺の身体はぐい、と力強く何かに引っ張られる。
身体は固まったまま、視界だけが高速で移動していく。
その時に、俺は男の顔を見てしまった。
そして、男の身体が真横に真っ二つに切り裂かれている事も。
男の横には女性の背中が見えた。
長い黒髪を後ろで結わえた女性。襟亜さんの後ろ姿だった。
そして俺と、俺の横に立つ頬白の間に、金髪が揺れるのが見えた。
「シルバー・アイビィ・カバード・ロングソード。実に良い剣だね、クロービス」
真っ二つに切れた筈の男の身体は、すぐに元通りにくっついていた。
まるで幻を切ったかの様だった。
「ライザリに伝えろ。こちらもまた、偶然だ、と」
隣に立つ、強い力を持つ魔女、縫香さんの声が響いた。
その声の持つ底知れぬ強さに、俺はどれほど安心したかわからなかった。
「あのお嬢様が、それで黙っているなら、私も楽なのだけどね」
そう言い残し、男の身体は横にズタズタに切り裂かれていった。
そしてニヤニヤと笑う口元だけが最後まで残り、そして消えた。
時間と空間は元に戻った。
人々は何事もなかったかのように往来を歩いて行く。
買い物に行く母親の自転車。作業着を着たおじさん達。他校の制服。同じ学校の制服。
目に見える世界は、平穏な、いつもの世界だった。
俺と頬白が並んで立ち、その後ろに縫香さんが立っていた。
目の前には姿勢を正した襟亜さんが居て、こちらを向いてにっこりと微笑んでいた。
その笑顔は、今までに見てきた破壊の笑みであると共に、凄腕の護衛者の貫禄を感じさせた。
「ごめんね、お姉ちゃん。遅れちゃって」
縫香さんの後ろから硯ちゃんが姿を現してそう言った。
「ひとまず、帰ろう。ここはあまりよくない」
縫香さんがそう言うと、俺達は瞬時に頬白家へと戻っていた。




