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俺の目が覚めたのは日付が変わって六時間が経過した時だった。もの静かな俺の部屋で俺は目を覚ます。そして、気づく――。しかし、俺はそれほど驚くことはなかった。
「……あれから二十三時間経過、か」
いくらなんでも寝すぎだと俺は思い、幸恵たちがいないことを確認してリビングへと向かう。すると、リビングの台所に一枚の置手紙。まるでここに俺が来るのがわかっていたかのように置いてある。
「……」
その手紙の最初の部分だけ目を通し、読み終われば丸めてゴミ箱に捨てる。
どうやら、幸恵は新婚旅行へと行ったらしい。素直に楽しんできてほしい。それに、一人の方が何かと助かる。気楽でいい。俺は手慣れた手つきでレタスをちぎり、サラダのドレッシングをかけ、食べ始める。そして、おもむろに聞きなれない音が聞こえる。それは数ヵ月前まではよく聞いていた画面の中の音だった。そう、テレビの音だ。ニュースキャスターによって昨日の出来事などが映し出される。ただ、この位置からだとテレビを全部見ることはできなかった。――それには理由がある。
――ソファーの上で俺の知らない女の子が座っていたのだから。
「……」
決して長いとはいえないが、その髪は肩まではある。柔らかそうでさらさらしてそうだ。制服を着ているところを見るとすでに身支度は終えているように思える。
ソファーからは頭部のほかに軽く肩あたりも見える。その肩幅は見るからに小さく、幼い。何かにぶつかれば、一瞬で壊れてしまいそうなほど、その身体は華奢だった。
「おはようございます。お兄さん」
今の声はこの少女から発せられたものなのだろうか。俺はその少女が発したあるフレーズが頭の中をこだまする。
――お兄さん。
一体、どうなっている? 俺には妹もそんなことを言ってくれる年下もいない。
その少女は決して俺の方を向こうとはしない。まるでその少女はこの家に何年も住んでいたかのようにソファーの上に臨場する。
俺はその少女の正体がなんとなくわかっていた。幸恵は新しい家族が増えると言っていた。それがどんな奴かまでは言ってはいなかったが、今までの流れから分析するに選択肢は一つしかない。
しかし、そんなことはどうでもいい。俺にとってはなんの差支えもないはずだ。それより、もっと大切なこと、許せないこと――。
「そこからどけえ――!」
俺は新しい家族と思われる幼い少女に怒鳴る。全身を奮い立たせながら俺はその少女に駆け寄る。
「……」
俺が叫び駆け寄っていくもその少女は微動もしない。ただ黙々とテレビを目視している。
「――くっ!」
少女を殴り飛ばしたいと思う気持ちを必死で抑え、俺はその少女の前に仁王立ちする。たぶん、今の俺はこの少女より髪が長いかもしれない。前髪が顔を覆い尽くして少女に俺の表情が伝わっていないかもしれない。やせ細ってきている俺の身体に恐怖を感じないかもしれない。
――それでも俺はこの少女に言わなければならないことがある。否、この場所から今すぐに退去してもらわないといけない。
「今すぐその場からどけ……。そこは初音だけの席だ! お前なんかが座っていいわけないだろ!」
肺をぜーぜー言わせながら俺はその少女に言った。前髪の間からその少女の表情を必死でとらえる。やっとの思いで少女の瞳に自分の顔を宿すもその少女は目線一つ変えない。このまま何も言わないで時が経ってしまうのではないだろうか。そんなことさえ俺は思った。
「おま――」
その空気に耐え切れなくなった俺はとうとうその少女に食い掛かった。首元をぐいっと引き上げ、俺の顔の目の前まで持ち上げる。
「……反応、しろよ……」
「……反応、ですか?」
その少女はまるで俺をばかにするようにそう言う。首を軽く傾げる。妙に重く感じたその少女の身体はまるで苦しくないのだろうか。全身を脱力させ、まるで空気を欲してはいないように見える。
「それでは私の率直な意をお伝えします」
「……は?」
俺の唖然とする様子も軽くスルーし、その少女は会話を続ける。
「私の名前は初音です。何か問題でも?」
「なん、だと……?」
少女の襟首を握っている手に自然と力が入る。眉を引きつらせ、歯ぎしりさえしている。俺の後ろで流れているニュースのメロディーが今の俺たちの雰囲気とはまるで相違でそれが俺の怒りをより奮闘させる。
「問題ないと言っているのです。お兄さん」
「きさま――」
怒りで我を忘れ、俺はその少女を投げ飛ばし、襲いかかる。
「さすがに痛いです」
それでもその少女は顔色一つ変えない。一体、俺が何に対して怒りをあらわにしているのかを忘れそうになる。
両腕を握り拳にしてその少女の肩の横にどすんと添える。
「理不尽なのはわかっている……。それでも、さっきお前が言ったことだけは許せないんだ……」
「……」
「なあ、今ならまだ間に合う。やり直さないか? 俺たちこれから兄妹になるんだろ?」
「……」
少女はまるで人形のように俺の前髪で隠れた瞳を見てくる。
そんな態度に俺はとうとう少女の首を締め上げる。
「そんなこ、と――をしても――わた、し――は死に――ませ、ん――よ?」
少女は途切れ途切れで俺にそう言葉を伝える。言葉は途切れ途切れであるが、実際、少女は苦しそうにない。
しかし、少し経つとその少女の言葉はやせ我慢だということが分かった。
「んっ――! ――んっ!」
少女は足をドタバタさせながら抵抗してきた。それに気づいた俺は慌てて少女を解放する。
「……お、お前が悪いんだからな」
「ゲホッゲホッ!」
「……」
少しだけ俺は少女を心配そうに見やる。しかし、数分も経つと少女は息を整え、また無表情で俺と面と向かう。
あんなことをされて怖くないのだろうか? その少女の表情からは読み取れそうにない。
「私のフルネームは昨日から高倉初音です」
「――おまっ! まだ――」
少女は淡々とそう言う。
俺は再び、怒りが込み上げる。しかし、そんな怒りも次の少女の言葉を聞いて一気に冷め沈んでしまった。幸恵と俺とごく少数の人しか知らないはずのことを少女が言うのだから。俺の今の気持ちをこの少女はすべてを言ってしまったのだから――。
「お兄さんの大切な大切な初音は死にました。交通事故で死にました。これはどうしようもないことなのですよ?」
「――ッ!?」
少女は言葉を続ける。
「お兄さんがいくら理不尽だと思っても初音はもう帰ってきません。すべてのつじつまはあっています。初音は車にひかれた。結果、死んだ。何かおかしな点はありました?」
「は、はあ? な、何言ってんだよ? そ、そんなことわかっているし、な、なんでお前がそのこと、知ってん――」
俺が言い終わる前に少女は言葉を重ねる。
「認めているならこんなところにはいないのではありません?」
「おま――」
少女はリモンコを手に取り、テレビの電源を切る。そして、少女はまた俺に向きあう。腕を腰の前で組み、上目使いで俺を見てくる。
実際、言い返せない自分がいた。ただ、ひたすらに自分の中だけで否定の二字がこだましていた。
「お兄さんがこの世界を呪おうがここにいる限り何も変わらない。そんなことすら理解していない今のお兄さんはとてももどかしい。悲しい。むごい」
「な、なにが……いいたい?」
今、少女が言葉にしていることは今まで俺が思ってきた感情だ。
俺はその少女が言っていることが理解できない。何もかも理解できない。つじつまだけでできた世界。それなのに俺はこの狭い空間に閉じこもっている。呪うが呪うまいが俺には何もできない。悲しい。むごい。
「なぜ、お兄さんはそれで満足しているのですか?」
「――ッ!?」
そう、俺は満足していた。自分に嘘をつくことですべてのつじつまを合わせていた。自分の思うがままにことを進ませていた。それはまるでセーブポイントだらけの世界。データを何個も保存できる世界だ。
――俺が何もかもを否定すれば新しい世界ができるはずだ。
なんて馬鹿げたことを。
俺は俺に嘘をついていた。初音を奪ったこの世界を許せるわけがない。初音を取り戻すならなんでもしてやる。
俺はいつからこの思いをなくしていた?
「お前は……何者なんだ?」
脱力した身体を必死で保ちながら俺はその少女に問いかける。
「そうですね……高倉初音です。……あなたの妹かつ――」
その少女は一息入れる。俺もこの緊迫とした空気に身を寄せる。そして、少女はリモコンを持って、テレビをつけた。まだ、ニュース番組をやっているようだ。
そして、その内容と同時に少女は言葉を重ねる。
「――契約者です」
『――と高倉幸恵さんは死亡しました』
どういうトリックがあるというのだろうか。俺はなぜかこの少女から目が離せない。少女が何を言ったのかもはっきり聞き取っていた。もちろん、テレビの内容も一言も漏らさず聞き取っていた。なぜか、少女が言う契約者というフレーズが俺の頭の中をこだましていた。本当に大切なのはその少女の後ろ、そう。
――テレビの内容だというのに。