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第4章

 エドワーズ・カフェの前に立って、行き過ぎる人たちの顔に目を凝らしていた。うだるような暑さの中、私の頭はポーッとしてくる。

「そろそろ到着しても、いい頃なんだけど……」

 小声で呟いた時、鳥打帽を目深にかぶった青年を雑踏のなかに見出した。

「博士ーっ。ここでーす!」

 手を振ると、博士は迷惑そうに優美な眉をひそめた。すたすたと近づいてきて私の目前で立ち止まる。

「店内で待っていれば良かっただろう」

「それじゃ、待ち合わせって気分になれません」

 私は小さく被りを振り、はやる気持ちを抑えて尋ねた。

「新薬のお披露目はうまくいったんですか? プリンス魔薬商会の方々の反応はいかがでした?」

「まあ、悪くなかったな」

 控えめな物言いだったけれど、満足しているのが分って、私も嬉しくなった。

 博士がエドワーズ・カフェの扉を押すと、上部に吊り下げられた鐘が鳴る。クレアさんが出てきて、にこやかに尋ねた。

「こんにちは、アンジェリンさん。中のお席にしますか、それともお庭のほうに?」

 私は博士の顔を伺ったけれど、どうでも良さそうな顔つきだった。

「庭園がいいです」

 真夏の太陽がジリジリと照らしているものの、いつかの日とは違って、庭の客席はにぎやかだった。

 今の時期の目玉は、なんと言ってもヒマワリ。太陽みたいに咲き誇っている。アーチには、クレマチスが白くて大きな花弁を広げていた。花壇にはゼラニウム、ジギタリス、ラヴェンダーが群生して、まるで色鮮やかなパッチワークキルトのよう。

 クレアさんは私たちを木陰のテーブルに案内し、メニューを置いて下がった。見送った後姿の腰には、エプロンのリボンが可愛く結んである。

「そうそう、博士に報告することがあるんです」

「何だ?」

「あの衣装をもらえたんですよ」

 博士がプリンス魔薬商会を訪れている間に、私はフィリップス魔薬学校へ出かけていた。

 シーウェル先生には説明できなくても、お礼をきちんと言いたかったし、借りた服も洗ったから返そうと思って。

「もう、あの衣装を使うあてはないんですって。気に入ったなら、どうぞお持ちなさい、って。本当、シーウェル先生って優しいですよね」

「いったい、どこで着るつもりだ? 日常であんな格好をしていたらおかしいだろ」

 博士が苦笑いしている。ごもっとも。私は苦し紛れに提案した。

「お茶の時間とか……?」

「好きにすればいい」

 博士は軽く流して、メニューを開いた。クレアさんが注文を聞きに戻ってきて、私はレモンメレンゲパイを、博士はヴィクトリア・スポンジを選んだ。

 熱気を含んだ風がふわりと吹いた。ほとんど無意識に、私は肩に流しただけの髪を押さえ、博士は被ったままの鳥打帽に手をやる。

 一昨日くらいから、博士はまた帽子と仲良ししてる。ないと落ち着かないのかもしれないけど、一番考えられる可能性は――

「ひょっとして、耳だけは元に戻っちゃったんですか?」

 私は声を落として尋ねた。博士の眉がかすかに動く。やっぱり。私の洞察力もなかなか捨てたものじゃない。

「ああ……そういう次第だ」

 結局、博士が完璧に元に戻っていられたのは二日程度ということ。てっきり、変化の魔薬の効果を打ち消せたものと思っていたのに……がっくりしてしまう。

「残念ですね。でも、あの変化の魔薬が効くことは確かですから、改良すればきっと元通りになれますよね?」

「いや、どうだろう。一度効かなかったことを考えると、元に戻れたのは、新しい要因が加わったとしか考えられない」

「調薬したのは私ですけど、一から十まで博士の指示に従いました。勝手に余計な物を混入したりしてませんよ」

「分かってる。僕も見ていたから知ってる……」

 博士は難しい顔になって黙り込んだ。

 ケーキと飲み物が運ばれてきた後も、博士はまったく喋らず、黙々と食べるだけだった。いつものお茶の時間よりも口数が少ない。

 折角、二人でエドワーズ・カフェに来ているのに、つまらないの。

 研究所へ帰り着き、前庭を通って玄関へ向かう最中になって、博士はようやく自分から言葉を発した。

「この庭には、アトリー君が作った除草薬を使っているんだったな。母は庭師にかなり強力な魔法をかけさせたはずだが、うまく抑制できている」

「ありがとうございます。でも、魔薬がたくさん必要でした」

 褒められて嬉しいのに、なんだか気恥ずかしかった。博士の意識はすぐ別のことに移ったようで、屋内に入ると、腕組みをしながら作業室へと上がっていった。


 午後になると、私は階段を上って作業室の扉をノックした。

「博士。今、お忙しいですか?」

 緊張で高鳴る胸を抑えつつ、扉越しに声をかけた。

「どうかしたのか?」

「以前に、箒を動かす魔薬について、提案してくださったでしょう? 処方箋を考えてみたんです。これで成功するかどうか、見ていただけたらと思って」

「いいよ。入れ」

 作業台の上には資料が散らばっていた。

「次の魔薬はどんなのにするんですか?」

「まだ着想を練っている段階だよ。そんなことより、アトリー君の処方箋を見せてくれ」

 紙を渡す手が少し震えた。博士はこげ茶色の目で見据えて、上から慎重に読んでいく。

「……いいんじゃないか? ある程度はうまくいくだろう」

「曖昧な言い方ですね」

「たった一度目の調薬で、完全なものはできないよ。改良を重ねて、より良い魔薬にしていくんだ。この処方箋なら、とりあえずは対象物を動かせる。試作品を試して、どこを変えたらいいのか、自分で考えてみることだ」

 博士が伸びをした。猫に変わった時の様子を思い出させる、しなやかな動き。ふいに閃いた様子で言った。

「僕も調薬に立ちあおう」

「ええっ?」

「ずっと座ってばかりというのも良くないしな、ちょうどいい気分転換だ」

 思いもかけない申し出に、私の心臓は飛び跳ねた。

「早速、ここでやろうか」

 博士は作業台の上に広げた本を閉じ、走り書きしたメモや紙をまとめて片づけを始めた。私は物置部屋へ行って、あたふたと材料を集める。

 準備が整って、器具と材料が並んだ作業台に向かった。博士の視線を背中に痛いくらいに感じて、気持ちは落ち着くどころか焦っていくばかり。

 間違えないようにしなくちゃ……

 博士を人間に戻した魔薬に比べれば、ずっと簡単な調合なんだもの。落ち着いてやれば大丈夫……のはず。

「アトリー君、繭粉の量が少なすぎないか? 量りなおせ」

 博士は一読しただけで、処方箋を頭に入れたらしい。時たま、注意する声が飛ぶ。

 その度に、私は小さなパニックを起こして、我ながら危なっかしい手つきが余計にたどたどしくなる。これじゃ、箒が動いたとしてもたった数インチという、無残な結果になるんじゃないだろうか? 博士が見ているのに……

 なんとか、うまくいってほしい。箒がしっかり動いてほしいと、私は魔術を使う時のように祈り始める。魔薬の調合には、念なんて何の意味もないけれど。

 自分でも何をしているんだか分からなくなりながらも、魔薬が解除薬と共に完成した。

 効果のほどは怪しい。試したくないけど、そういうわけにもいかず、私は掃除用具の中から箒を取ってきた。

 できたばかりの魔薬をふりかけると、箒は産まれたばかりの仔猫のように身震いした。束ねた葉が二股に分かれて足となり、台上をよたよたと歩き出した。

 最初はおぼつかなかった足取りも、歩くうちにスムーズになって床へ降りて駆け出した。

「やった! うまくいきました!」

「おかしいな……この処方箋では、せいぜい五十歩しか動けないはずだが」

 博士が形のよい眉をひそめた時、箒がジャンプした。宙に浮かび上がったと思うと、横向きになって縦横無尽に飛び回った。作業台の器具がなぎ倒され、ガラスや陶器製の容器が割れた。

「危ない!」

 博士が怒鳴り、私の肩を抱き寄せた。

 箒は壁に作りつけられた本棚に体当たりし、分厚い本が瓦礫のように降ってくる。

「解除薬を――」

 私は作業台に目をやって凍りついた。箒が暴走した時、器具と一緒に破壊されてしまったようで、台上には茶色の水溜りができていた。液体の中にガラスの破片が散らばっている。

 箒はどんどん加速して、カゴに閉じ込められた獣のように暴れまわった。博士が私を作業台の下へ押し込んだ瞬間、ガシャンと派手な音がした。

 振り返ると、窓のガラスが割れていた。カーテンが風にはためいている。荒れ狂う箒の姿はどこにもない。一瞬、胸を撫で下ろしたものの、事の重大さに気づいた。

「どうしましょう? 外へ出ちゃった――」

 私はおろおろして聞いた。でも、博士は平静に窓から外を眺めていた。

「塀の結界があるから、この敷地からは出られない。見ろ、庭を飛び回っているだけだろう」

「でも、危険です。捕まえないと。それとも、効果が切れるのを待ったほうがいいでしょうか?」

「解除薬を作り直すという手もあるが……」

 箒は見えない壁にぶつかって跳ね返る。何度も諦めずに挑戦する様子を眺めて、博士は腕組みをしていた。

 しばらくして、博士は踏み台をのぼって、棚の一番上を探った。扉が付いている列だったので、幸い、さっきの騒動でも被害がなかったようだ。

 細長い瓶の中には、オレンジと赤と、ほんの少しの青がぐるぐると逆巻いていた。コルクの栓を抜くと、中身が外へ出て、首の長い鳥みたいな形にまとまった。

「燃やせ」

 博士の命令に従って、庭へ飛び出した。箒に体当たりして、木製の身体に楽々と火をつけた。灰になっていく様子に胸が痛む。屋敷中を掃除するのに、一番よく使っていた道具だったのに。

 突然、宙をのた打ち回っていた箒がピタリと停止した。そして、作業部屋の方向を向いた。

「こっちに来ます!」

「アトリー君、伏せろ!」

 私は悲鳴をあげて立ちすくんだ。博士に床へ押し倒される。

 飛び込んできた箒は、さっきのように部屋の中を回遊し始めた。箒が当たると、本や資料に炎が移って燃え出した。オーク材の棚そのものも薪となって、火の勢いはどんどん強くなる。

「まずい! 今のうちに外へ出るぞ」

 大あわてで廊下へ飛びだした。博士は、箒が追いかけてこないように乱暴に扉を閉める。

 私は床にへなへなと座りこんだ。助かったけれど、扉の向こうでは、博士の使いなじんだ器具が壊れ、貴重な本や書き記した帳面が灰になっている。それを思うと、生きた心地がしなかった。

「ごめんなさい。私のせいで、作業部屋が……」

 博士は強ばった表情で、閉じた扉を見つめていた。どれほど激しいショックを受けているか、魔術で心を読まなくても分かりすぎるほどだった。


 作業部屋は全焼した。続き部屋も被害をこうむって、保管してあった材料は消し炭と化し、ガラス容器を始めとする細々した器具類も大半が使い物にならなくなった。

 それ以外の部屋には飛び火しなかった。……でも、博士にしてみれば、お屋敷の残りの部分すべてと引き換えにしても、作業部屋だけは無事であってほしかったはず。

 三日が過ぎた今でも、焼け焦げた部屋の中に踏み入った瞬間のことが、ついさっきの出来事のように思い出せる。

 空気は焦げ臭く、生き物が燃えた時のような動物性の匂いが立ち込めていた。少し嗅いだだけで胸がむかむかするような。

 壁紙や板が焼けて、石の壁がむき出しになっていた。作業台や棚は黒ずみ、美しかった木目は跡形もなくなっていた。

 博士は寝室にこもりっきりだ。魔具の伝書鳩をひっきりなしに飛ばして、材料やら器具やら魔薬辞典や参考書やらを、色々な店に注文していた。

 それ以外は、何をしているのか、さっぱり分からない。昼食時やお茶の時間には顔を合わせるけれど、博士は険しい顔つきで黙りこんだまま。私の失敗に対してのお叱りは一切なく、それがかえって怖かった。

「私って、本当にばか……」

 手をちょっと止めると、私の意識は三日前にタイムトリップした。思わず、涙が浮かびそうになる。

 今は、お屋敷の台所で、ティータイム用のクランペットを作っている最中だった。寝かせていた生地を焼くだけなのに、つい気がそれて、何枚も焦がしてしまっている。気泡ができた表面のでこぼこが真っ黒になって、まるで冷えた溶岩のようだった。

 ふと、壁の掛け時計を見やると、短針が三の位置に限りなく近づいていた。私は大あわてで、ケトルに水を入れてコンロにかけた。早く沸騰するようにと、火の勢いを目いっぱい強くした、その時。

 ハープの弦を爪弾いたような音が響いた。耳鳴り――にしては、気分はちっとも悪くない。

 音は止まる様子もなく、延々と続いている。音源にはまったく心当たりがなく、私は首をひねった。

 博士の慌しい足音と呼び声が聞こえた。返事をすると博士が台所へやってきて、私に真顔で詰め寄った。

「今、何をしてた?」

 その姿を見るだけで罪悪感に苛まれつつ、私は答えた。

「ご覧の通りですけど……お湯を沸かしています」

「火を止めるんだ」

 わけが分からないまま言われた通りにすると、音までがピタリと止んだ。

「何だったんでしょう、あの音は。博士はご存知ですか?」

「ああ。僕の仕掛けた装置が魔力を感知して鳴っていたんだ」

 私はコンロに目をやった。細かい仕組みは知らないけれど、魔具の一種であることは確か。

「これからはコンロを使うたびに、あの音が聞こえるんですか?」

 自分でたずねた後に、矛盾に気づいた。一時間も前からクランペットを焼いていたけれど、音はしなかった。

「いや、機械に仕込まれた魔法までは感知しない」

「……じゃ、どうして、さっきは鳴ったんですか?」

「屋敷内で魔術が使われたからだよ。アトリー君のせいだ」

 仰天して、すぐには言葉が出なかった。私は滅多に魔術を使わない。魔力が弱すぎて何もできない、というのが正確なところだけれども。

「あのう、誤作動じゃありませんか?」

「検証してみよう。もう一度、火をつけてくれ」

 コンロのつまみをひねったけれど、博士は息を殺しているし、静寂そのもの。

「おかしいな。さっきと異なることはないか?」

「魔具を使うのに、決まった手順以外は何もしないでしょう。他には――えっと、早く沸いてほしいな、と思っていたくらいですよ」

「それだ!」

 博士は興奮して手を叩く。ケトルを取り上げると、温まりかけていた水を流しに捨てて、再び、中に水をなみなみと入れる。

「アトリー君が急いだら、十分で沸騰するか?」

「半分の時間で大丈夫ですよ。いつも計っていますから」

「やってくれ」

 着火した途端、今度は装置が鳴り出した。この魔力感知器は、絶対に壊れていると思う。

 大きな音じゃないけれど、耳の奥にキンキン響いて、ずっと聞いていると頭痛を起こしそう。

 私は両手で耳を塞ぎ、ケトルの口から水蒸気が立ち上るまで見張っていた。

「――終わりです。ほらね、五分で沸いたでしょう?」

 博士の表情は険しかった。腕組みして眉根を寄せているけれど、仏頂面とは違う感じ。

「それがおかしい。この火の強さと水量。この装置では沸騰までに十二分程度かかる。多少の誤差が生じるにしても、半分の時間では決して無理だ。アトリー君が魔力で手助けしているんだ」

 私はごくりと唾をのみこんだ。とっさには言葉が出なかった。

「やってませんってば。それに、火の魔術を使えるほど、私の魔力は強くありません」

 博士は手を大きく振って、私の言葉を遮った。調理台の上に両手をついて、まるで講義のようにとうとうと述べ立てた。

「僕には魔力がないし、魔術に関しては門外漢だが――文献に当たってみて、古代には『補強魔術』という分野があったと発見した。作用している魔法に術をかけて、威力を高めるんだ。アトリー君のやっていることと通じる」

 コンロの火だけじゃなくて、庭にまいた園芸用の魔薬までも、博士はそれが原因だと考えているらしかった。

「私が無意識のうちに、魔術を使っているって言うんですか?」

 背筋に冷たいものが走った。博士は真剣そのものの表情でうなずく。

「アトリー君の魔力は、確か、十三級だったな。僕の予想では、もっと強いはずだ。既存の検査法が君に合わないんじゃないか」

 現在、一般的に行っている魔力の等級検査は、特定の魔術ができるかどうかで判断する。例えば、火をつけるとか、物を動かすとか、色を変化させるとか、大きいものを小さくするとか。

「補強魔術は、すでに働いている魔法の効能を後押しする技術だ。自分だけの魔力で行うものじゃない。君は持っている魔力のわりに、術をかけること自体が不得手なんだろう」

「でも、魔薬と魔術を掛け合わせるなんて、できるんですか?」

「前例はないようだ。……少なくとも記録には残っていない。だからといって不可能だと決め付けるのは、馬鹿げている」

 博士の眉間のしわは、言葉を紡ぐごとに深くなるようだった。

「人間に戻るための魔薬がなぜ効いたのか、ずっと考えていたんだ。アトリー君が魔力を使って、鱗木の樹皮が持つ力を高めたのに違いない」

「――もしかして、箒が暴走したのも、その魔術のせいですか?」

 博士は重々しく頷いた。私の身体から血の気が急速に失せて、貧血を起こす直前のようにクラクラした。


 自分が役立たずだとは知っていた。でも、そのうえ危険だなんて思ってもみなかった。

 作業部屋を燃やしてしまい、次は何をやらかすのか、分かったものじゃない。しかも、無意識で魔術をかけているなんて最低だ。危険人物じゃないの。

 暗澹とした気持ちで帰宅し、次の日も、それを引きずったまま出勤した。ぼんやりしていたから、玄関ホールに入った途端に「おはよう」と声をかけられて、ギョッとした。

 博士は私がやって来るのを待ち構えていた様子だった。気まずそうに咳払いをする。

「アトリー君、話があるんだが」

 私はその時、博士が持っている封筒に気づいた。見覚えのある物で、記憶をさぐると、すぐに思い出せた。博士が私の契約書をしまっていた封筒だ。

 契約書を持ち出す場面なんて、二通りしかないんじゃないだろうか。雇う時とクビにする時と。

 心臓が跳ね上がって、バクバクと早鐘を打った。

「今日は――雅屋さんに材料が届く日でしたよね。急いで行ってきます!」

 博士がためらっている隙に、私は踵を返して、その場から逃げ出した。

 門を出ると、呼吸の苦しさにもみぞおちの痛みにも構わず、ひたすら走り続けた。

 クランブル通りの入口にたどり着いた時は、倒れそうなほどフラフラだった。

 呼吸を整えながら、行きかう人の流れに入る。今度は、打って変わって、のろい足取りで進む。

 博士は、私をクビにするつもりだろうか?

 猫になりかけた博士を助けるために頑張ったし、博士も感謝してくれていたし、打ち解けた態度で接してくれるようになったのに……

 それに、もっと、ちゃんとした理由もある。博士は、耳のことを誰にも知られたくないと思っているんだもの、私を解雇して自由にするはずがない――と思う。

 自分に言い聞かせるけれど、契約書のせいで、確信がもてなかった。あれが出てくる理由は、一つしか思い浮かばない。

 博士は、猫化の魔薬が明るみに出るより、私を助手にしておくほうが命が危険だと判断したのかもしれない……

 雅屋の扉を開けると、店主さんが今日も浴衣姿で登場した。紺地に薔薇が描かれている女物のような柄なのに、妙に似合っていて妖艶だ。

 いつものようにテーブルについて、お茶を頂きながら荷物を受け取った。今日は白い封筒が添えられている。

「月末だからね、その請求書も一緒にキッドマンに渡しておくれ。鱗木の樹皮の注文が二回もあったから、笑いたくなるような結構な額だよ。私も仕事した実感があるね」

 店主さんは唇の端を吊り上げて笑った。

「二回? 頂いたのは一回だけで……」

「キッドマンの注文で、フィリップス魔薬学校に鱗木の樹皮を届けたのさ」

「知りませんでした。さすがは博士ですね」

 気配りに感心したものの、博士のことを思い出すと気分は落ち込んだ。店主さんが向かいから身を乗り出す。

「どうしたんだい? 今日はまた塞ぎこんでいるね」

「そんなことありませんってば」

「ふうん、私の目が狂ったかな」

 店主さんはそれきり押し黙った。

 エメラルドのような目で私の顔から目を離さない。居心地が悪いったら。私がうつむくと、店主さんの微笑がはじけた。

「やっぱり何かあったね?」

 ……からかわないでほしいなあ、もう。店主さんにしてみれば、私みたいな子供は容易いんだろうけど。

 目を悪戯っぽく輝かせる様は気楽そうで、私の悩みも明るく吹き飛ばしてくれそうだった。

「実は私、無自覚で魔術を使っちゃうみたいで――」

 口封じの魔法にひっかかるかもしれない、と思ったけれど、ちゃんと話せた。自分のことは平気みたい。

「補強魔術ね……私は全然知らないなあ。だが、なかなかに便利そうだ」

「危険なだけですよ。封じることもできないし」

「どんな力だろうと活用次第だよ。有能な助手を持って、キッドマンも喜んでいるだろうね」

 切なさがこみ上げて、胸が締め付けられた。うつむいて首を横に振る。

「おや、私とキッドマンの見解は一致しないのか。それならアンジー、雅屋の売り子にならないかい?」

 おもしろがるような口調で、店主さんは色っぽく目を細めた。冗談のつもりなんだろう。

「歓迎するよ。待遇も良くしよう。三食昼寝付きで、おやつもつけようか?」

「慰めてくれて、ありがとうございます……」

「心外だなあ。私はいつだって本気だよ。そう見えないかもしれないが」

「だけど、迷惑かけちゃいますよ。私なんか雇ったら」

「アンジーの魔術が働いたとしても、わが店では結構なことだよ。材料の成分が強まれば、雅屋の評判が上がるからね」

 店主さんはからからと笑ってくれた。だけど、私の気持ちは沈んだまま。どんなに優しい言葉をかけてくれたって、店主さんはキッドマン博士じゃない。


 悪い予感を肩に乗せながら研究所へ戻った。博士に材料を届けようと、おそるおそる作業部屋の扉を叩く。でも、いくら待っても返事がない。……出かけちゃったのかな。

 扉を開けると、博士はちゃんといた。作業台に突っ伏して居眠りしている。私は抜き足差し足で室内へ入り、材料の入った包みを置いた。

 博士が起きないうちに部屋を出ないと。でも、博士の身体が気になった。こんなところで寝ていて、また具合が悪くなったら大変。椅子の一つに無造作にかけてあった上着を取って、そっと静かに博士の肩にかける。

 博士の寝顔は少年のように安らかだった。眉間にしわを寄せていないと、だいぶ若々しく――というか、幼く見える。

 ふと思いついて、私は鳥打帽に手をかけた。

 帽子を被ってばかりいると、頭皮がむれて髪の毛に良くない。どうせ、研究所には私と博士の二人きりなんだもの、その間くらいは外していたって構わないでしょ。

 帽子を持ち上げた私は、博士の頭を見て仰天した。

「耳が、ない……」

 三角のふさふさした耳がどこにも見当たらなかった。髪の間に隠れているということもない。代わりに、顔の横に少し尖った耳を見つけた。

 どうして? 耳だけは、猫化の魔薬の力を受けたまま、じゃなかったの……?

 作業台に置かれた大判の封筒が目に入った。中には契約書が入っている。

 博士の肩がぴくりと動く。目覚めてしまう。立ち去らなくちゃ、と思うのに、身体が動かなかった。

「アトリー君? 帰ってきたのか……」

 博士が頭を持ち上げた。寝ぼけ眼の焦点が徐々に合ってくる。私の手の中の鳥打帽に気づき、驚愕した表情になった。

「耳はいつから消えていたんですか――?」

 らしくもなく、博士は見るからに狼狽していた。

「博士は、耳だけは猫のままだと言っていましたよね? エドワーズ・カフェで」

「……それは嘘だ。人間の姿に戻ってから今まで、変化の魔薬の効果は消えている」

 帽子を握る手がわなないた。耳が消えたということは、博士にはもう秘密はない。私を助手に繋ぎとめて、口封じの魔法をかけておかなくてもいいんだ。

「私はもう、博士の助手でいる必要はないんですね?」

 握り締めた指の爪が手の甲に食いこんだ。

 否定してくれるんじゃないかと、私は儚い望みを抱いていたけれど……博士は重々しくうなずいた。

「確かに君の言うとおりだ」

 強い衝撃に目の前が真っ暗になって、足元の床板が崩れていくような錯覚にとらわれた。

 危ない力を発揮する私は、博士にとって、もはや邪魔なだけの存在でしかない。

「身体が元に戻れたら、用済みだなんて――ひどい。博士のばか。冷血漢。自分勝手。人でなし!」

 私はかんしゃくを起こして叫んだ。涙がぽたぽた零れる。とっさに契約書の入った封筒をつかんでいた。

「待て! 待つんだ!」

 私は作業部屋の扉を蹴っ飛ばして廊下へ出た。飛ぶように階段を駆け下りる。

 捕まりたくない。契約書を破棄して助手を辞めるなんて、絶対に嫌だ。

 私におかしな魔力があるなら、今こそ働いて。博士から私を隠して、見つからないようにして。

 お屋敷の鉄門の外へ飛び出した。念が効いたのかどうか、博士の呼び声はどんどん小さくなっている。単に、逃げている私を博士が追いかけてこないだけかもしれないけど。

 泣きじゃくりながら、人気のない道を選んで走っていった。博士から逃げなければ。博士とずっと一緒に居たいから。そのために、顔を合わせちゃいけない――ああ、すごく矛盾してる!

 自分がしていることの馬鹿馬鹿しさにようやく気づいて、足を止めた。手で涙をぬぐいながら、足を引きずって歩き始める。でたらめに進んできたから、ここか何処だか見当もつかない。キッドマン屋敷があるのと同様のお屋敷通りだけど、戸数が少なく、野原のような更地や竹林、こんもりと茂る小さな森まである。

 道をのろのろと行ったり来たりした後、更地の一つ――小さな森の中――にもぐりこんだ。木の枝が広がって傘みたいになっている。奥まで入り込んでしまえば、私の姿は通りから見えない。

 昼間だというのに薄暗く、空気は湿気を含んでいる。研究所の以前の庭を思い出して、止まっていた涙が瞳の奥から湧き出した。

 暗がりの中から甲高い鳴き声がした。三毛の野良猫が出てくる。行ってしまうかと思ったけれど、警戒気味に近づいてきた。私がゆっくり伸ばした手に抵抗せず、痩せた身体を撫でさせてくれる。

 もしも、と考えてしまう。博士が猫に変化したまま戻らなかったら、ずうっと一緒に居られたんだろうか? 

「……ううん、そんなの駄目……あんなに落ち込んだ博士は見ていられない……」

 シーウェル先生に相談してみようか。私を助手のままで居させるように、博士を説得してくれないかな。うまくいきそうな気がしたけれど、厄介な口封じの魔法がある。シーウェル先生には話せない。

 野太い鳴き声が聞こえた。現実に引き戻されて周りを見回すと、太った猫がねめつけるように私を見ていた。どこかで見た覚えがあるような……

「そっか。新薬の実験をした時の」

 博士の指示には従ってトランプを取ってきたのに、私の言うことは拒否した猫だ。今は言葉は通じないと分かっていながら、私はついつい話しかけてしまった。

「ここの森に住んでいるの? それなら、研究所と大して離れてないのね……」

 でぶ猫は過去のことを水に流し、友好的に近づいてくるように見えた。でも、くるりと後ろ向きになって、来た方向へ戻ってしまう。

「私がここにいること、博士に教えたら駄目よー」

 冗談で声をかけてみる。周辺は再び静まり返って、最初にやって来た猫も飽きた様子で離れていく。一人ぼっち。

 膝を抱えていると、突然、藪が大きく揺れた。

 今度は猫じゃなさそうだ。ひょっとして土地の所有者かもしれない。私は腰を浮かせた。

 ところが、もっと悪い相手だった。

「動くな! 君がいることは分かってるんだ!」

 苛立たしげな声。聞き間違えるものですか。博士だ。

 私はもちろん、おとなしく待ってなんかいなかった。契約書を破棄させられたら何もかもおしまい。茂みを掻き分けて奥へと進む。小枝が手や腕を引っかいて、ミミズ腫れがたくさんできる。博士が息を切らせて叫ぶ。

「止まれ!」

 その時、薄暗い茂みの中から何十という瞳が睨んでいることに気づいた。私は思わず、怯んで立ち止まった。

 よくよく見ると、何てことはない、十数匹の猫がうずくまっているだけ。でも大群だと、かなり迫力がある。

 躊躇している間に、博士の息遣いが背後に迫ってきた。進まなくちゃ。私が足をあげると、猫たちが毛を逆立ててフーッと威嚇した。

 だ、だめだ。違う方向へ――

 でも、すでに遅く、振り向いた途端に博士に腕を掴まれた。

「僕の話を聞けよ。そうすれば納得できるから――」

「嫌ですっ。聞きたくありません!」

 私は首を横に振った。

「私を言いくるめる気でしょう? 博士の話を聞けば、私は馬鹿だから、納得して引き下がっちゃうかもしれない。でも、嫌なんです。博士と一緒に居たいんです!」

 博士は妙に落ち着いていた。追いかけっこをしたせいで頬に赤味が差し、肩が上下しているけれど、顔つきはさわやかだ。

「思ったとおりだ。早合点しているな。僕は、アトリー君を解雇するとは一言も言ってない」

「嘘つき。契約書を持ち出してくる理由なんて、他にあるはずが――」

 私は絶対に渡すまいとして、自由な右手で封筒を抱きしめた。

「僕に渡せ。その契約書は破棄する」

「やっぱり、私を厄介払いする気だわ!」

 怒りと悲しみで、留める間もなく涙が落ちる。博士は弱りきった様子で私の腕を放した。

「少しは落ち着いて、話を聞けというのに。――わかったよ。その封筒を開けてみろ」

 私は首を振って、鼻をすすった。抵抗を試みようにも、もう逃げることもできない。

 観念して、言われたとおりに封筒の中身を出した。

 契約書が二枚、入っていた。私が乱暴に扱ったせいで折れ目がついてしまっている。まったく同じ見た目で、用紙の色だけが違っていた。

 赤い紙には見覚えがあるし、私と博士の署名が入っていた。でも、緑の紙では空欄になっている。

「それが五級の契約書で、一般的に使われるやつだ。赤色の用紙は――見れば分かると思うが――僕とアトリー君が取り交わしている契約書だよ」

 博士は大きく咳払いした。

「今の書類を破棄して、新しく契約しなおすんだ。そうすれば、アトリー君の口封じの魔法は一級から五級に下がる。今後は、魔薬の開発に関すること以外なら、誰にでも話せるようになるんだ」

 にわかには信じがたくて、緑色の用紙をまじまじと見てしまった。その上に、うわずった声で博士に詰め寄った。

「い――いいんですか?」

「なぜ、そんなことを聞く?」

「だって、私なんか役立たずだし、魔術を知らないうちに使ってしまうみたいだし……魔薬の効力と合わさったら、どんな大惨事を引き起こすか分からないのに……箒の時よりも、もっと酷いことになるかもしれないんですよ……」

 声がどんどん小さくなる。自分から言わなくてもいいのに、私ったら本当にどうしようもない。

「訓練すればいいだけだ」

 博士はきっぱりと言った。

「アトリー君の補強魔術は、今はまだ危険が大きい。だが、僕が人間に戻れたのはその力のおかげだ。使いこなせれば、立派な技術になる。もっと自信を持ちなさい」

 張りつめていた緊張が一気に解けた。私は糸が切れた操り人形みたいに、湿った草に覆われた地面にへなへなと座り込んだ。

「私……博士に追い出されるとばかり思ってて」

「手に負えない早とちりだよ。僕の気が変わらないうちに契約変更するぞ」

 ぶっきらぼうな物言いのわりに、博士の眼差しは優しかった。

 最初の契約書に触れて二人で呪文を唱えると、紫色の魔法の炎に包まれて灰になった。緑色の契約書に、博士が貸してくれたペンで名前を書き込んで完了。あっけないほど簡単だった。

「本当にありがとうございます」

「これで、口封じ破りの魔薬を試してみる機会はなくなったな」

 照れ隠しのように呟き、新しい契約書を封筒にしまった。博士の優しさが胸に染み入る。

「まったく、こんなに手をかけさせられるとは。アトリー君はまた魔術を使うから、探し出すのに苦労した」

「ごめんなさい。ひょっとして、あの猫たちって新薬で?」

「ああ。意外と協力してくれるものだな」

 博士って、どうしてだか、猫に好かれる体質のようだ。

 以前は、猫耳がはえていたから、それでお仲間と勘違いされていたのかもしれないけど。

「どうして、耳のあるふりを続けていたんですか?」

 ちょっぴり非難をこめて聞いた。だって、急に驚かされなかったら、私もいきなり飛び出さなかったかもしれないのに。

 博士はうろたえていた。

「そ……それは……」

「理由があるんですよね?」

 耳まで真っ赤に染めて口ごもっている。

「僕の身体が元通りになったら、アトリー君が辞めてしまうと思ったんだ。だから、契約書の変更も、言い出しにくくて――」

 博士が解雇するならともかく、どうして私のほうから辞めるんだろう? 首を傾げると、博士はもごもごと言葉を続けた。

「当然のことだと思ったんだ。アトリー君を無理やりに助手にして、嫌な思いをさせた。何度も泣かせてしまった。僕は付き合いやすい人間とはいえないし、雅屋がどうも君を気に入っている様子だし、僕のところにとどまる道理はないと――」

 私が思わずふき出すと、博士はムッとした表情になった。

「何がおかしい?」

「私たち、馬鹿みたいですね。お互いに疑いあったりして」

「……そうだな」

 博士は肩から力を抜いて微笑んだ。道端にひっそり咲く花のような控えめな笑み。私、博士のこういう表情がすごく好き。


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