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第3章

 その日、出社した私は、鉄門の前で立ち往生していた。

 どうしてだか分からないけど、閂が下ろされていて中に入れない。自由に出入りできなかったのは最初の一週間だけで、それ以降は開けっ放しになっていたのに。

 困っていると、研究所の中から鳩が飛んできた。薄っぺらい姿は紙でできている証拠で、旋回して元の姿に戻る。

 一枚の書付がヒラヒラと舞いながら手の中に落ちてきた。筆圧の強い、几帳面な文字が紙の上に並んでいる。

『アトリー君、おはよう。体調が悪化した。どうやら、たちの悪い風邪のようだ。今日は休みにする。帰りなさい』

 驚いたけど、当然の成り行きかもしれない。

 博士はここ数日、白い頬を上気させて、しょっちゅう鼻をかんでいた。「休んだほうがいいですよ」とすすめても、次の新薬に夢中になっていて、私の言うことなんか全然きいてくれなかった。

 一人で大丈夫なんだろうか。看病する人間が必要じゃないかな? 博士の養生って、ひたすら寝るだけのような気がする。

 心配だったけれど、入口はかたく閉ざされたまま。私は仕方なく踵を返した。

 せっかく、博士のリクエストに応えて、チーズケーキを作ってきたのに。土台は粗いビスケット生地で白いクリームをのせて、さらに削ったレモン皮を散らした。

 今日は一日、どうしよう? 友達と遊ぼうにも、当日じゃ、みんな都合がつかないだろうな。

 私は手持ちのバスケットを見つめ、途方に暮れた。

 ふいにシーウェル先生のことを思い出した。卒業以来お会いしていないから、ちょうどいい機会だ。

 フィリップス魔薬学校へ行ってみると、シーウェル先生は授業中だった。職員室にいた先生に言付を頼んで、図書室で時間を潰す。

 古い紙の香りのする棚の間を何の気なしに歩いていると、変身の魔薬に関する蔵書を見つけた。――高等魔薬の棚の片隅に。

 そういえば、講義で少し習っただけで、変身の魔薬の実験をやったことはなかった。

 本を開いてみると、頁には細かい文字がびっしり並んでいた。何という難解な処方箋。見ているだけで気が遠くなる。しかも、材料も貴重で、取り扱いが難しい物ばっかり。

 失敗したとはいえ、こんな魔薬を小さい頃に作れちゃうなんて、博士はやっぱり天才だなあ……

「アトリーさん」

 名前を囁かれた気がした。顔を上げてキョロキョロと見回すと、図書館の入口でシーウェル先生が手招きしている姿が目に入る。

 柔和な顔に穏やかな笑み。久々だと癒しの効果も倍増だった。

「フレミング先生がアトリーさんが来ていると教えてくれましてね。元気そうな顔を見られて嬉しいです」

「おひさしぶりです」

 私は、博士とのティータイムのために作ったチーズケーキを、シーウェル先生に差し入れした。

「おや、ありがとう。他の先生方と美味しく頂きますね。皆さん、大喜びしますよ。アトリーさんの料理の腕はシェフ並ですから」

「それは褒めすぎですよ、先生」

 シーウェル先生はにこにこして、バスケットを受け取った。

「どうですか、キッドマン君とはうまくやれていますか?」

 私はうなずいて、「博士は風邪で寝込んでいます」と続けようとしたけれど、できなかった。口封じの魔法に阻まれてしまって。

 うっかりしていた。この魔法の存在を忘れていた。

「どうしました?」

「先生にお話したいことがたくさんあるんですけど……無理みたいです。契約書にかけられた魔法がすごく強いんです。一級だとか」

 温和なシーウェル先生も仰天して、眼鏡がずり落ちた。

「キッドマン君は何ということを。いくら神経質とはいえ、行き過ぎです」

「最初は嫌だったんですけど、今はそんなに気にしていません。この口封じの魔法があるから、博士はいろいろ話してくれるのかもしれないし」

「そうですか……まあ、アトリーさんがそう感じているのなら」

 シーウェル先生は納得できない様子だったけれど、それ以上はゴチャゴチャ言わなかった。こういうところ、すごく助かる。

「今日は平日ですが、お休みを取ったのですか?」

「いえ、普通に出勤したんですけど、帰るように言われちゃって。あっ! 私がヘマして博士を怒らせたとかじゃないんですよっ」

 あわてて付け加える。シーウェル先生はおかしそうに微笑んだ後、ちょっと心配そうな顔つきになった。

「もしかして、キッドマン君は体調を崩しているのですか?」

 どうして分かるんだろう。魔法のせいで答えられなかったけど、私の様子から先生には伝わったらしい。

「学校に通っていた頃から、よくお休みしていましたからね。身体が丈夫ではないのでしょう」

 時には休みが一週間も続くので、優しいシーウェル先生は心配になって自宅を訪問したこともあるそう。でも、その度に私と同様、門前払いをくらっていたんだとか。今となっては、懐かしい思い出らしいけど、当時はやきもきしたことでしょうね。

「キッドマン君は自尊心が高いですからね。弱った姿を他人に見られたくないのでしょう」

「そんな意地をはっても仕方がないのに」

「まったく同感です」

 私とシーウェル先生はうんうんと頷き合った。

「もう一つ昔話をしますとね、彼は同級生とも打ち解けない生徒だったのですよ。常に距離というか壁というか、隔たりがありましたね」

 それは猫の耳のせいだ。シーウェル先生の残念そうな表情のせいもあって、私は急激に切なくなった。ところが、物思いに浸っていると、先生が急に含み笑いをした。

「そのキッドマン君がアトリーさんを助手に……何故でしょうかねえ。ひょっとして一目惚れですかね」

 違いますってば。博士は私に口封じの魔法をかけたかっただけ。

 本当のことを言いたかったけれど、その魔法のせいで否定もできない。私は博士に心で語りかけた。シーウェル先生が誤解したままなのは、博士が悪いんですからね――と。


 日にちが過ぎても、博士はちっとも回復しなかった。もう四日間も顔を見ていない。私は飛んできた書付をクシャクシャに丸めて、閉ざされた鉄門をうらめしく見つめた。

 要点を伝えるだけの、そっけない文面からは、博士の容態は何も分からない。寝床から一歩も動けないような状態なんだろうか? 熱に苦しんでいるんだろうか? ヒース・レストランの食事は病人にはコッテリし過ぎているけれど、何を食べているんだろう?

 とうとう我慢できなくなって、私は、自分の鳩の便箋と万年筆を取り出した。

『看病させてください。自慢じゃありませんけど、身体は丈夫なので感染のご心配は無用です!』

 書いた紙は、白い鳩になって屋敷の中へと飛んでいく。しばらくして博士の返事がきた。

『看病はいらない。帰れ』

『じゃあ、買出しだけでもやります。何か必要なものはありませんか? ご飯は食べているんですか?』

 引き下がるもんか。絶対に助けを必要としているはずなんだもの。間もなくして、博士の黒い鳩が飛んできた。

『雅屋へ行って、僕が注文した品を受け取ってきてくれ』

 こんな時にまで仕事してるの?

 私はあきれ返ったけれど、指示通りにクランブル通りへ向かった。お使いをしてくれば屋敷内へ入れてくれるはずだ、と考えて。

 無理やりにでも看病してやるんだから。帰り道に商店街を見て、病人にも食べられそうな物を買っていこう。

 雅屋の店主さんは、相変わらず、浴衣の胸元を大胆にはだけさせ、たくましい胸板で健康美を主張していた。ああ、博士はもうちょっと日に当たる必要があるのかも。

「アンジー、久しぶり。今週はなかなか顔を見られなくて、寂しいったらなかったよ」

「博士が……」

 言葉は契約の魔法に阻まれて口の中で消える。

「キッドマンが、どうかしたのかい? このところ、伝書鳩を頻繁に寄こして、私の仕事ぶりを、遅い遅い、とせっついてくれたが」

「鳩が?」

「昨日だけでも三十羽」

 太い眉をしかめた後、意味ありげに片目をつぶった。

「アンジーの鳩だったら、たとえ五十羽でも構わないけどね」

 からかいに反応する余裕はなかった。胸がざわめく。

「博士は何を注文したんですか?」

「茜林檎、鱗木の樹皮……」

 店主さんは軽い溜息をつきながら、聞き慣れない、いかにも高価そうな材料の名前をつらつらと挙げていった。

「茜林檎はともかく、鱗木の樹皮はとても貴重なものなんだよ。いつでも構わないというから、こちらも注文を受けたのに。いきなり、入用になったから寄こせ、と迫られても困るね」

 不満をこぼすなんて、店主さんにしてはめずらしい。それだけ大変だったんだろう。

「昔よりは手に入れやすくなったのだが、入荷に一年以上かかることはざらだよ。今回は、前々から注文していたこともあって、一週間でどうにか用意した――こんな荒業ができる材料屋は、私のほかにいやしない」

「さすがですね」

 店主さんはにわかに嬉しそうな顔になって、私の肩に手を置いた。

「いろいろ面白いこともあったのだよ。長い話になるからお座り。めずらしい砂糖菓子も一緒に取り寄せたのだ」

 私は首を横に振って、店主さんの腕を乱暴なぐらいの素早さで振り解いた。

「ごめんなさい、急いで戻らなくちゃ。博士が待っているから」

「そう……残念だな」

「お話はまた今度、聞かせてください」

 包みを受け取った私は、息を切らしてスクランブル通りを駆け抜けた。いったい、博士は何をしようとしているんだろう?


「雅屋さんから材料をもらってきました! 中に入れてくださいっ。博士!」

 私が叫ぶと、魚の目がキラリと光って鉄門がきしみながら開いた。長いスカートの下の足をもどかしく前に出し、屋敷の玄関へと走る。

 ところが、ここにも鍵がかかっていた。ノッカーを激しく叩いて博士を呼ぶ。

「うるさい。聞こえている」

 陰鬱な声だったけど、私はすごくホッとした。扉が開く。四日間ぶりに博士に会える。

 そう思って中に入ったのに、室内は真っ暗だった。天窓には覆いが掛けられているようで、一筋の陽光も差し込まない。

「材料を置いて帰れ」

 博士がうなるように言った。私は材料の入った包みを置いたけれども、指示通りにするのはそこまでだった。

「嫌です。どこにいるんですか? 姿を見せてください」

「帰れと言っているだろう!」

 私は無視して、明かりの魔具を取り出した。光が闇を蹴散らしてくれたけれども、一階の広間には誰の姿も見えなかった。博士は別の場所から声を飛ばしているんだ。

「博士!」

 階段を上がって寝室の扉を開く。ベッドを照らした。人が寝ていたような形跡はあるけれど、今は空っぽだ。じゃあ、作業部屋にいるの?

 慌しく廊下へ出た時、暗闇から腕が伸びてきた。明かりが叩き落され、身体は押さえつけられる。一瞬のできごとだった。

 心臓が止まりそうになったけど、私は安堵していた。

 ようやく博士に会えた。

 寝巻きの上からでも博士の体温が伝わってきた。とても熱い。高い熱を出しているに違いない。早く寝かせなくちゃ。

「なぜ、僕の言うことをきかないんだ」

 博士は苛立たしげに私を抱きしめる腕に力を込めた。

「だって、すごく心配で――」

「余計なお世話だ。このまま庭へ追い出してやる」

 そんなの嫌だ。私はもがいて逃れようとした。そうしたら、運の悪いことに――肘が博士のみぞおちに命中してしまった。

 うめき声をあげて私を放す。ほうり出された隙に床に落ちた明かりを拾いあげる。私の手の中に乗って、魔具はまた光り出した。

 博士は、相当な痛手だったようで背中を丸めている。私が与えたダメージが強かったわけじゃなくて、博士の体力が落ちていたせいだと思うけれど。

「ごめんなさい! 大丈夫ですか、博士……」

「見るな!」

 まるで悲鳴のようだった。

 博士の顔は黒い毛に覆われて、肌色の部分は一片も見えなかった。顔だけが猫に変化している。二つの目は黄色く変化して輝き、瞳孔は縦長に開いている。大きく裂けた口からは鋭く尖った歯が覗く。頭上の耳も、違和感なく馴染んでいた。

「君のためだったんだぞ。この気味悪い姿を見れば、怖がるだろうと分かっていた。だから、僕に近づかなくて済むように仕向けていたのに」

 博士は顔をそむけて非難がましく言った。沸々とこみ上げてくるのは怒りだった。

「馬鹿を言わないでくださいよ! 何が私のためですか、博士が見られたくなかっただけでしょう? なんてくだらない。何も知らせてくれないほうが嫌ですよっ」

 病人を叱り飛ばすなんて、自分でもどうかしていると思う。だけど、腹が立って言葉が止まらなかった。

「すごく心配してたのに、私がそんなことを気にすると思うなんて……ひどすぎます……」

 急に涙がこみ上げてきた。私は唇を噛んで鼻をすすった。

「君は――嫌じゃないのか? 今の僕は化け物だ」

「平気だって言ってるじゃないですか」

 博士は何かを言いかけて、激しく咳き込んだ。あわてて駆け寄ると、博士はよろめいて私にもたれかかった。大変だ。身体が燃えるように熱い。


 ベッドに横たわった博士は弱々しげに呟いた。

「昔から、こうなんだ。具合が悪くなると猫の姿に近づいていく。身体の中に残った魔薬の効力に、身体が負けてしまうんだろう」

 案の定、博士はろくに食べていなかった。ダンロップさんと顔を合わせないで済むようにヒース・レストランの配達も断り、二日前に食べたショートブレッドが最後の固形物だとか。

「病気も治らなくて当たり前です。これからは私の監督下で、しっかり養生してもらいますからね」

 凄みをきかせて言い渡した。博士は苦しげに息をしながら、黄色い目で上目遣いに私を見上げた。

「魔薬の材料を――作業部屋に運んでくれ」

「分かりました。でも、調合するのは禁止ですよ」

 玄関へ行って、雅屋の包みと食料品を取ってくる。作業台の上に袋ごと置いて、食べ物を持って寝室へ戻った。買ってきたのは琥珀のようなゼリーたち。中に果物が閉じ込められている。

「味がいろいろあるんです。桃、グレープフルーツ、ブドウ、洋ナシ。どれがいいですか?」

 食欲のない博士の気を少しでも惹こうと、この清涼感のある冷菓を一つずつ取り出して見せる。博士は熱でとろんとした眼差しを向けていたけれど、やがて「……ブドウ」と呟いた。

「ちゃんと食べてくださいね。私はその間にオートミール粥を作ってきます」

 博士に薄紫色のゼリーとスプーンを渡して、私は寝室を出て台所へ行った。

 鍋を取り出してコンロにかける。お湯を煮立てて、オートミールを放り込んだ。自分でお粥を作るのは初めてだったけれど、十分も煮込むと、それらしい形状になってきた。

 器によそって寝室へ行くと、ベッドはもぬけの殻だった。

 ベッドサイドのテーブルにトレイを置いて、あわてて作業部屋へ向かう。

 案の定、博士がいた。雅屋さんから受け取ってきた包みを開けて、その上、器具まで用意している。

 私は無性に腹が立ってきて、ずかずかと作業部屋に入って博士の腕をつかんだ。

「駄目ですよ! ベッドへ戻って寝てください!」

 博士は頑固に首を横に振った。こんなに具合が悪いというのに。

 たとえ、顔が猫になっていたって具合の悪さは分かる。黄色い目は熱っぽく潤んでいるし、寝巻きから出た手は赤味を帯びている。時々、肩を震わせては苦しそうに喘ぐ。

「止めないでくれ。人間の姿へ戻るための魔薬を作るんだ」

 博士のお父さんが最後に完成させた薬に違いない。

「今じゃなくてもいいでしょう? 元気になってからで――」

「いいや。この分だと、変化はさらに進行する。以前にも似たようなことが起きたから確信があるんだ。今のうちに魔薬を用意しておかなければ。手までが変化してしまったら、調薬ができなくなる」

 もっともな理由だった。私は引き下がるしかなく、やきもきしながら博士を見守った。

 私がやったことも見たこともないような、複雑な処方箋だった。博士は立っていられず、いつもは窓際に置いてある背もたれのない丸椅子に座って作業した。

 すでに作り終えてあった薄黄色の塊を膜のように伸ばし、細かく刻んだ茜林檎やフジミノリを包み込む。それだけでは終わらず、鉢に黄繭とササの結晶を入れ、すりこぎで丹念に混ぜる。百合根の汁を加えて加熱する。

 ようやく作業が終了した。この魔薬は一時間を置いて、熟成させなければ効果を発揮しないらしい。

 椅子から立ち上がった博士がよろめいたので、私は駆け寄って身体を支えた。寝室まで一緒に行ってベッドに寝かせる。博士は精も根も尽き果てた様子で、ぐったりと横になった。

 もう、無茶ばかりするんだから。見ているほうの身にもなってほしい。博士が起きたら、今度こそオートミール粥を食べさせよう。

 私は台所へ戻り、腕まくりして、すっかり冷めている鍋を再び火にかけた。ところが、今度は煮過ぎてしまったのか、糊のような状態になる。

 もう一度、最初から作り直さなくちゃ。肩を落とした時、床板のきしむ音が聞こえてきた。

 博士ったら、また寝床を抜け出したんだろうか。

 そう思って扉のほうを向くと、奇妙な物音がし始めた。まるで扉を引っかいているような音だ。ふいに取っ手が回り、扉が開く。入ってきた黒豹を見て、私は短い悲鳴を上げた。

 恐怖で足がすくみ、逃げることもできなかった。でも、豹には飛び掛ってくる気配が微塵もない。むしろ、おそるおそるといった調子で近づいてくる。私は遅まきながら理解した。この生き物は豹じゃなくて巨大な猫で、しかも博士なのだと。


 博士は訴えかけるような眼差しで私を見上げた。鋭い牙の並ぶ口を開けて、出てきたのは低い鳴き声だった。喋ることすら、できないんだ。もっとも猫化が進んだ時でさえ、口をきけていたはずなのに。背筋がうすら寒くなってきた。

「ああ、博士、何を言いたいんですか? 全然わかりません――」

 泣きべそをかいた時、猫と話せる魔薬のことを思い出した。それを使えば、意思疎通ができるかもしれない。

 私は階段を駆け上って作業部屋へ行き、例の魔薬が入った瓶を取ってきた。数個しか入っていない粒の一つを慎重に取り出し、口の中に放り込む。

「お願い。もう一度、話してください」

 私は博士の前に跪き、祈るような気持ちで両手を握り締めた。獣の口がゆっくりと動き、鋭い牙と赤い舌がのぞく。

「アトリー君、僕の言葉が分かるか――?」

「ええ、分かります、博士。良かった……」

 少なくとも話すことができて、安堵のあまり、涙腺がゆるむ。熱い涙が頬を伝い落ちた。

「僕がさっき作った薬を飲ませてくれ。もう熟成しているはずだ」

 私は言われたとおりに作業部屋へ行って、魔薬を持ってきた。コップに注ぎいれようとして、ハッと思いとどまる。今の博士はそれじゃ飲めない。考えた末に、紅茶のポットを出して魔薬を入れた。博士を寝そべらせて頭をわずかに上向きにさせ、開いた口の中に魔薬を少しずつ流し込む。

 ゆっくり時間をかけて、博士に全部の薬を飲ませた。ところが、待っても待っても、毛皮に包まれたしなやかな身体に変化は起こらない。

「どういうことだ……?」

 博士は愕然として自問した。私も衝撃を受けていたけれど、博士の体調のほうが気にかかった。

「落ち着いてください。また具合が悪くなってしまうかも。一旦、寝床に戻りましょう」

「いや、身体は楽になったんだ。この姿になった時に」

 言われてみれば、博士の身体に触れても、ぬくもりを感じるだけで熱いとは思わなかった。博士の動作も口調もきびきびしていて、やせ我慢をしているようにも見えない。

「元気になっただけでも良かったわ」

 それだけでも安心して胸を撫で下ろす。ところが、博士の眼差しは暗かった。

「風邪じゃなかったのかもしれない。そんな気がしてきた。猫化の魔薬の効力が増して、僕の身体が必死に抵抗していた結果じゃないかな。体調が悪かったのは」

 ということは、完全に変化してしまった今、博士はどうなるのだろう……?

「一生、この姿のままじゃないかな」

 博士の口調は静かだった。悲愴でもなく、かといって吹っ切れたという風でもなく。お父様の日記の中で見た姿と重なる。ゾッとした。博士は――諦めてしまったんだ。

「父の魔薬が効かなくなった。いよいよ僕もおしまいだな」

 博士は、暗闇が凝り固まったような獣の身体で、気だるそうに床にうずくまった。無駄のない優美な肉体であるにも関わらず、いちじるしく精彩に欠けていた。剥製のほうがまだ生き生きしている。

 胸が引き裂かれるように苦しかった。博士が元に戻らないと思うと、胃の底が冷たくなってきて、膝の震えが止まらない。

「もっとたくさん飲めば、効き目が出ませんか?」

「鱗木の樹皮がもうない。少量しか手に入らなかったから、使い切ってしまった」

 博士は気のない調子で、ビロードの太リボンのような尻尾で床を打った。

「雅屋さんに頼んできます」

 私が出かけようとすると、博士が「いらないよ」と言って止めた。

「これが僕の運命だったんだ。アトリー君はもう好きにするといい。この姿じゃ、あの口封じの魔法を解いてやることは出来ないが……」

 お別れを言おうとしている。最後まで聞いてしまったら、何もかも駄目になってしまう気がして、私は急いで台所を飛び出した。


 外は怪しい空模様だった。灰色の雲が重く垂れ込め、生ぬるい風が吹いている。

 クランブル通りを目指して走っているうちに雨が降り出した。雨足は強くなる一方で、髪も服もぐっしょりと濡れて肌にはりついた。

 革靴も雨の犠牲になった。もう履けなくなっちゃう。頭の隅で考えながら、土砂降りの中をひたすら走り続けた。

 雅屋に飛び込むと、店主さんが私の姿を見てギョッとした。

「どうしたんだい、ずぶ濡れじゃないか。風邪をひいたら大事だよ。さあ早く、着ている物を――」

「鱗木の樹皮が欲しいんです!」

 店主さんの言葉を遮って、私は訴えた。顔を濡らしている水滴が雨なのか涙なのか、自分でも分からない。

「調薬に失敗したのだね」

 店主さんは力強い腕で私を椅子に座らせた。駄々をこねる子供をなだめるように優しい声で答える。

「貴重なものだと話したっけね。今回、一週間で入手できたのは奇跡なのだよ。次はいつになるか、はっきりした約束はしてあげられないな」

「すぐに必要なの。お願いします。遅くなれば、博士はきっと――」

 口封じの魔法のせいで、先が続けられない。もどかしさに悲鳴を上げたくなった。時間が過ぎてしまえば、博士の戻れる見込みがどんどん減っていく。そんな不吉な予感がしていた。

「お願い、お願いします! 私、何でもやりますから」

「意地悪で言っているのではないし、駆け引きをしているのでもないよ。本当にできないのだ。私が手に入れられないなら、他の誰にだって無理なことだよ」

「何とかしてください。鱗木の樹皮がないと博士が……」

「キッドマン?」

 店主さんは不愉快そうに顔をしかめて、私の濡れた頬を大きな手で包み込んだ。

「彼は何を考えているのだろうね。女の子をこんな雨の中に走らせたりして」

「博士が悪いんじゃないんです。私たち、とっても困ってるんです、だから助けて!」

 私はとうとう堪えきれなくなって泣き出した。

「弱ったなあ」

 店主さんは頭を掻いた。私を抱き寄せ、背中を軽く撫でてくれる。

 小さな子供みたいな扱いだ。でも、レモンのような柑橘系の爽やかな香りに包まれて、私の興奮はちょっとだけ収まった。

「――そういえば、アンジーはフィリップスの卒業生だったね。あの学校ならば、鱗木の樹皮を貯蔵しているかもしれない」

 希望を与えられて、涙に汚れた顔を上げる。店主さんの朗らかな微笑を見ると、何でもうまく運ぶ気がしてくるから不思議だった。

「駄目でもともと。当たってみるだけ損はないだろう」

「ええ、ありがとうございます。すぐに行ってみます!」

 即座に表へ飛び出そうとした。ところが、店主さんは腕に力を込めて、私を引き止めた。

「お待ちなさい、馬車を呼んであげる。これ以上濡れたら身体に障るよ。車が到着するまでの間に、その服もどうにかしようじゃないか」

 気遣いは嬉しかったけれど、この雨では車は出払っていて、私を迎えに来るまでは時間がかかりそうだ。一刻も早く、鱗木の樹皮を手に入れたい。でも、正面切って抵抗しても無駄だろう。私は大人しく従うふりをして頷いた。

「拭くものを持ってくるよ。ちょっと待ってて」

 店主さんは店の奥へと入っていく。ごめんなさい、と心の中で謝って、大粒の雨が叩きつける露天へ躍り出た。


 雲の向こうに隠された太陽が沈んだようで、外は暗くなっていた。いつの間にか、時間が随分と過ぎている。

 道の端には下水に流れ落ちなくなった水が溜まっていた。皆が避けているので通りやすく、私はあえて水溜りの中をバシャバシャと水を跳ね飛ばしながら進んだ。靴の中に水が入り込み、つま先がかじかんだ。雨粒が顔に容赦なく打ちつけ、泳いでいるような錯覚さえしてくる。

 校門は開いていた。侵入した私は裏手にまわって、渡り廊下から校舎へ上がった。濡れぼそった髪の先から雫が落ちて、タイル敷きの床に円を描く。ふと顔を上げると、博士の写真が目に入った。涙が出そうになって慌てて堪える。

 下校時刻を過ぎているのだろう、生徒はほとんどいなかった。これ幸いと、足早に進んでいく。ところが、南校舎へ渡ったところで教師陣の一人と出くわしてしまった。

「こら、駄目じゃないか! なんて格好でうろついているんだ!」

 魔薬史担当のオルグレン先生だ。向こうは私の顔を覚えていないらしい。

「シーウェル先生は? どこですか?」

 詰め寄る様子があまりにも尋常でなかったのか、オルグレン先生はごくりと唾を飲んだ。

「今、実習室で会ってきたところだが――」

 私は背中を向けて一目散に走り出した。叱責する声が後ろから追いかけてくる。でも、オルグレン先生自体は動いていないようで、声はどんどん小さくなっていく。

 私は実習室の引き戸を勢いよく開けた。

 シーウェル先生は窓際の棚の前にいて、日当たりの良い場所に置かれた植木鉢の雑草を抜いていた。慌しい物音にも動じることなく、のんびりした動作で振り返る。

 でも、さすがのシーウェル先生も、私の姿を見ると驚いた表情になった。

「どうしたのです、アトリーさん? 傘をささないで来たのですか? ひどい有様ですよ」

「ここに鱗木の樹皮はありますか?」

 まるで気が触れたように見えるだろうと、鏡で見なくても想像できた。シーウェル先生はかすかに眉をひそめて、気の毒そうな視線を向けた。

「足が震えています。疲れているのでしょう。そこの椅子におかけなさい」

「あるんですか?」

「ありますよ」

 それを聞いて安堵した。足から力が抜けそうになったけれども、なんとか持ちこたえる。

「欲しいんです。お願いします。私にください」

「アトリーさん、残念ですが――」

 シーウェル先生に断られるなんて考えてもみなかった。いつだって優しくて、どんな厄介事に直面しても「少しも難しいことはありません」という風に微笑んでいるのだもの。

 でも、ちょっと冷静になれば、当然のことだと分かる。雅屋さんが言っていたように、鱗木の樹皮は入手さえも困難な代物なのだから。

 この状況を洗いざらい説明すれば、シーウェル先生が考えを変えてくれるかもしれない望みがある。でも、契約の魔法のせいでほんのわずかも話すことができない。

 以前に、雅屋の店主さんが言っていた事を思い出した。口封じの魔法を破れる薬はある。でも、服用すれば廃人になるかもしれない――

 怖い。でも、即座に心を決めた。何もしないで手をこまねいてなんかいられない。

「私に口封じ破りの魔薬を飲ませてください。そうしたら、何もかも打ち明けられます」

 なるべく毅然としていようと思ったのに、声は情けなく震えていた。シーウェル先生の温和な顔が一気に青くなった。明らかに狼狽して、私を叱責するかのように声を荒げた。

「恐ろしいことを言わないでください。軽々しく提案することではありません。分かっているのですか? そんなことをしたら、貴女は……」

「覚悟はできています。必要ならば止むを得ません。博士が助かるなら、私はどうなってもいいんです」

 言葉がいとも簡単に口から出た。そうなんだ。博士のはにかんだ微笑み、ぶっきらぼうな口調、照れ隠し、ためらいがちな態度――そういったものが、今では私にとって、何よりも大切なものになっていたから。

 シーウェル先生は迷っている様子で眼鏡の奥の瞳を動かしていた。でも、やがて意を決して私を正面から見据えた。

「緊急事態なのですね」

「……はい」

「事情は分かりませんが、アトリーさんがそこまで決意するのです、ただならぬ理由があるのでしょう。いいでしょう、私も教え子のために一肌脱ぎます」

 私の目には、シーウェル先生の後ろから光が差しているように見えた。本当に。かつてないほどシーウェル先生は神々しく、清らかに輝いていた。

「ありがとうございます……」

 思わず、涙が出そうになる。シーウェル先生はおろおろして止めた。

「アトリーさんはもう充分に雨に当たってきたのでしょう? さらに泣いて、顔を濡らしてはいけませんよ」

「す、すみません」

 バッグも何も持ってこなかったので、拭くものがなく、私は手の甲で顔にしたたる水分をぬぐう。すると、シーウェル先生が自分のハンカチを差し出した。

「これで拭いてください。私は着替えになるものを借りてきますから。鱗木の樹皮を渡すのはその後で」

「で、でも……急いでいるんです」

「十分もかかりませんよ」

 シーウェル先生は穏やかに言って、教室を出て行った。

 時間を置かずに戻ってきたけど、私に差し出した着替えは濃紺のワンピースと襞飾りのついたエプロンだった。――エドワーズ・カフェのお仕着せそっくり。

「運動部の生徒から体操着でも借りられれば良かったのですが……下校時刻を過ぎているので、あいにくと誰もつかまらなかったのです」

「で、この衣装はどこから……?」

「一昨年の学園祭で使用した物なのです。私の担当した学級が喫茶店を開きましてね。小道具の一部が教室の戸棚に残っていたのです」

 シーウェル先生は弱りきった表情だった。どうやら、拒絶される可能性を危ぶんでいるらしい。

「濡れている服よりはましだと思うのですよ」

 でも、私は喜んで衣装一揃いを受け取った。実は、クレアさんを見てて、エドワーズ・カフェの制服には密かに憧れていたのよね。

 シーウェル先生は安堵して廊下へ出た。私が着替えている間に、倉庫へ忍び込み、鱗木の樹皮を盗み出してくれるという。

 エプロンドレスを身にまとった私はご機嫌で一回転し、特に必要のないカチューシャまで装着した。

「おや、お似合いですよ」

 戻ってきたシーウェル先生は、私の姿を見て、とりあえず褒め言葉を口にしてくれた。

 唇の前に人差し指を立て、いつものように優しげに微笑んだ。

「鱗木の樹皮のことは絶対に内緒です。非常に強力で、持ち出し禁止の品ですから」

「あ……」

 シーウェル先生を窮地に追いやったことをようやく悟った。

「私に渡したことがばれたら、先生はクビになるかもしれないんですね……ごめんなさい。私ったら、自分の事ばっかり考えて……」

 ところが、シーウェル先生は愉快そうに笑った。一度決めてしまうと、度胸が据わるらしい。意外と豪胆なのかもしれない。

「誰も気づかないと思います。鱗木の樹皮なんて使いこなせる人間は校内にはいませんからね。なくなったことが発覚するのは――果てさて、一年後か五年後か、ひょっとすると十年後かもしれません。さあ、受け取ってください」

 脱いだ服をスーツケースに入れて、鱗木の樹皮が入った箱を濡れないように厳重に布でくるんで一緒にしまった。

 渡り廊下を足早に通り過ぎる途中、黒い空に稲妻が走った。雨はいよいよ激しさを増している。

「アトリーさん、大丈夫ですか? こんな天気の中を一人で……?」

 校門まで見送りに出てくれたシーウェル先生が心配して訊いた。貸してもらった傘の骨がひしゃげそうなくらい、突風が吹き荒れている。

「ええ、研究所まで遠くありませんから。大丈夫です」

 私が明るく答えた時、校門の前に屋根付きの馬車が止まった。馬は雷に怯えないように、魔具の目隠しと耳当てをしていた。御者が私たちに尋ねる。

「申し訳ありませんが、アトリーさんという方をご存知でしょうか? ブラックモア氏に頼まれて来たのですが――」

「アトリーは私です。でも、ブラックモアなんて人は知らないわ」

「『雅屋』とお伝えすれば分かるでしょうか? そう言付けられているのですけれども」

 そういえば、雅屋さんの名前を知らなかった。

 仰天すると同時に、感謝の気持ちでいっぱいになる。親切を足蹴にして飛び出してきたというのに、わざわざ車を寄越してくれるなんて。

 スーツケースを大事に抱えて車の後部座席に乗り込んだ。空が一瞬明るくなったと思うと、間髪を置かずに轟音が響く。シーウェル先生が声を張り上げた。

「気をつけて! 今の落雷は近かった! 屋内へ入ったら、この嵐が通り過ぎるまで外へ出てはいけませんよ」


 無事に研究所へたどり着いた私は、転がるように庭を通り抜けた。雷のとどろく間隔がどんどん狭くなっている気がする。玄関の扉を開けた瞬間、真昼のごとく周囲が照らし出された。

「博士! 鱗木の樹皮が手に入りましたよ!」

 居間のほうから鳴き声が聞こえた。また言葉が分からなくなっている。猫と話せる魔薬の時間切れだ。私は台所に立ち寄って薬を飲み、居間へ駆けつけた。

 博士は絨毯の上にうつ伏せになり、前足に頭を乗せて、雨粒がガラスに叩きつけられる様子をぼんやり見ていた。

「何だ? その格好は」

 反応を示してくれたのが嬉しくて、私はにっこりしてスカートをつまんだ。

「エドワーズ・カフェの制服みたいでしょう?」

「確かに似ている」

 私は博士の傍らに膝をついて、スーツケースを開けた。鱗木の樹皮の箱を取り出して見せる。

「よく手に入れることができたな」

「シーウェル先生のおかげです。今度、一緒にお礼に行きましょう」

 私の楽天ぶりを嘲笑するように、博士は鳴いた。

「材料が揃っただけだ。僕が戻れるかどうかは、まだ分からない」

「きっと成功しますよ」

「どうかな。倍量の魔薬を飲んだところで、結果が変わるだろうか。そもそも、アトリー君が薬を完成させられるのか、甚だ心許ない。見ていたから分かると思うが、難しい調薬なんだ」

 無性に腹が立ってきた。馬鹿にされたことはもちろん、博士が望みを捨ててしまっているのが分かったからだ。こんなの博士じゃない。簡単に諦めるような人じゃなかったはずだ。

「自分の秘密を守るために、私を騙したくせに! そこまでゲスなことをしたのに、どうして今回は潔いんですか!」

「……アトリー君、言いすぎじゃないか」

 博士の抗議を無視して、私は怒鳴った。

「私を置いてけぼりにして、勝手に諦めないで!」

 目に涙の粒が盛り上がる。私の怒りに同調するように雷が落ちる。博士は怒っていたけれど、言葉を飲み込んだ。

「……悪かったよ。無関係の君がここまで付き合ってくれたんだ。結果の見えていることに骨折りするのは僕の趣味じゃないが、最後までやらないとな」

 博士と連れ立って階段をのぼり、作業部屋へ入った。昼間、博士が作業した時のまま、器具や使いかけの材料が出しっぱなしだった。

 処方箋が記された帳面は、歳月を経て痛んでいた。日記で見たのと同じ筆跡だったけれど、こっちの文字はずっと細かく、一列にびっしり書き込まれていた。整形して印刷された処方箋とは比べ物にならない読みにくさ。どうしよう、全然分からない。独自の崩し文字なんかも混じっていて、まともに解読することさえ不可能そうだった。出だしからつまづいて、私は打ちのめされた。

「大丈夫。僕は作り方を暗記している。アトリー君は言われたとおりに手を動かせばいい」

 博士は作業台の上によじ登った。部屋の半分を占めるほどの巨大な台なので、博士が寝そべっても許容範囲だ。博士は尻尾を身体に引き寄せて、材料やら器具やらをなぎ倒さないように注意を払っている。

 想像していたよりも博士の指示は丁寧だった。私の技能を考えた上で、ゆっくりと、分かりやすい言葉を選んでくれる。私を焦らせるようなことも言わなかった。

 こんな時だっていうのに、私はいつの間にか楽しんでいた。もっと博士に教わりたい。こんな時間を重ねてゆきたい……

 黄繭や百合根の汁を混ぜた液体を火にかけた。弱火で加熱しながら、焦げ付かないように底をさらうようにかき混ぜる。いよいよ鱗木の樹皮を入れる段になると、さすがに高揚した気持ちは消えた。背筋が冷え冷えしてくる。フィリップス魔薬学校から手に入れた分も、通常の二回分の量――つまり、今回では一回に足りる量しかない。たとえ失敗しても、やりなおしはできない。そう思うと、手が震えた。

「安心しろ。うまくいっている。紫の煙が立ち昇った瞬間に混ぜるんだ。よく目を凝らしていれば簡単だ――」

 博士の声に励まされて勇気を奮い起こした。瞬きすらも我慢して、容器の中の液体に集中する。色つきの煙がパッとあがった。今だ。刻んだ鱗木の樹皮を放り込んだ途端、色が深みを増して七色に輝いた。


 生きた心地のしない数時間を過ごした。私にできることは終わり、もう成るがままに任せることしかできない。

 熟成した魔薬を慎重にポットへ入れた。前のように博士の顎に手を添えて、静かに静かに流し込む。長い時間をかけて中身が空になった。

 嵐はすでに静まっていた。もう夜が明けてもいい頃だ。日の出は何時になったら訪れるのだろう。暗がりの中に、強い風になぶられた植木の哀れな影がうかがえる。窓辺には、葉や花びらが吹き寄せられていた。

 太陽の昇る方向へ両手を組み合わせて一心に祈った。どうか、博士が人間に戻れますように。その願いさえ叶うのなら、何を手放しても惜しくない。本当に、心からそう思える。

 静寂を破ったのは博士の吐息だった。

「何も起こらないな」

 黄色の瞳は虚ろだった。綺麗だけれど、まるでビー玉のよう。

「まだです、博士。きっと、効果が出るには少し時間がかかるんです……だから、信じて待ってください。お願いします」

「いや、待っても無駄なことだ」

「私が失敗したんですね……」

 張りつめた糸が切れた。涙が溢れて止まらない。

「いや、調薬にまずいところはなかった。僕の命運が尽きたんだ。もっと早く、この姿になってもおかしくなかった」

 私は首を横に振った。そんな言葉も聞きたくない。魔薬が成功していたのなら、博士が元に戻れないことは決定になる。

「私、口封じ破りの薬を飲みます。シーウェル先生に打ち明けるわ。そうすれば、きっと、誰かが博士を助けてくれる」

「駄目だ。許さないぞ」

 博士は唸り声を上げた。鋭い爪に傷つけられることはないと分かっていても、思わず、身が竦んでしまうような恐ろしさだった。

「アトリー君はよくやってくれた。最後に出会えて……良かったと思う」

 悲しみに身が裂かれそうだった。私は膝から崩れ落ちて、こぶしで床板を何度も叩き、声を限りに泣き叫んだ。

「博士のお役に立ちたかったのに。博士と、もっと一緒にいたかったのに――」

 トン、と軽い衝撃がした。博士が作業台から飛び降りたのだ。獣ならではのしなやかな足取りで近づいてくる。私は身体を起こして抱きついた。立ち止まっていても、毛皮の下の筋肉は、かすかにうねって息づいている。

「もう泣くな。休め。そして――忘れてしまえばいいんだ」

 博士はためらいがちに赤い舌を出して、私の頬をつたう涙を舐め取った。ざらついた舌の感触。ぬくもりを感じる。感じるのに。


 明るい日差しが窓からいっぱいに差し込み、寝室の中を照らしている。目を開けた私はベッドに横になっていた。隣には博士。ちゃんと人間の姿だった。だからすぐに、これは夢だな、と悟った。

 黒褐色の髪がほっそりした肩に流れている。閉じたまぶたを縁取る睫毛が肌に影を落とす。ほとんど焼けていない肌はきめ細かく整い、羨ましくなるような白さ。喉骨の華奢なかたち。私の乏しい記憶力が立派に働いて、こんなにも鮮やかに博士の容姿を刻み込んでいたようだ。

 こんな夢なら、二度と覚めなくていい。現実のほうが辛くて苦しいなら、私は喜んで決別する。夢の世界の住人になってやる。

「アトリー君……」

 博士の目が開く。黄色じゃない。深みのあるダークブラウンの目。なんとなく甘い気分に浸って博士の顔を見つめる。

 ところが、何でも思い通りになるはずの夢の中であっても、博士はそっけなかった。

「手を離せ」

 気づくと、私の右手は博士の手首をしっかと握っていた。

「いいじゃないですか。どうせ夢なんですし」

「寝ぼけるのもいい加減にしろ。君を引き剥がすのに、僕がどれだけ苦労したと思ってるんだ」

 博士は苦虫を噛み潰したような調子で、口早にまくし立てた。

「この手だけはどうやっても離れないから、こうやって仕方なく一緒に寝ているんだ。意外と馬鹿力だな、アトリー君は。僕としては、まったく不本意極まりない事態であって、直ちに改善を求め――」

 つまり、夢じゃない? 現実? 博士は人間に戻れたの?

 私は手を離すと、今度は身体ごと抱きしめた。博士はうろたえて身をよじる。

「良かったあ!」

「何をするんだっ。いいか、僕は、君の父親でも兄でも弟でもなければ、ましてや恋人でもないんだぞ! その辺りを自覚して行動しろ!」

 博士の顔は朱色に染まっている。私はその顔をまじまじと見つめ、運命の優しさを噛みしめてニッコリした。

「魔薬が効いたんですね」

 抵抗をやめた博士は、真剣な表情になって考え込んだ。華奢な見た目だけれど、触れてみると、意外と肩幅があって驚く。

「分からないんだ。僕は、倍量にしたぐらいで元に戻れるとは考えていなかった。今も同じだ。だが、他には何もしていないだろう? 何か、新しい要因が入りこんだのか――?」

「何でもいいじゃありませんか。万事、うまくいったんですもの」

「同じ事態が起こるかもしれないじゃないか。その時のために、対処法を見つけておかなければ」

「ねえ、博士、少し休みましょう」

 私は博士の手に、自分の手を重ねて微笑んだ。博士が黙りこみ、照れくさそうに視線を外す。

「アトリー君には礼を言わないとな。僕一人だったら、何もせずに放棄していた……すべてを」

 視界がぼやけた。おかげで、博士のはにかんだような笑顔が見られない。

「本当に涙腺がゆるいな。もう泣かなくてもいいだろうに」

「嬉しいんです」

 まぶたを閉じると、心地よい倦怠感に包まれた。抗いがたい睡魔が襲ってくる。博士の指先がそっと顔に触れた。涙を拭いてくれたのだ。何か言わなきゃ、と思いながらも、私は眠りの中へ沈んでいった。


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