表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/4

第2章

 日差しは強く、自然と身体に活力がみなぎってくる。私は意気揚々とキッドマン博士のお屋敷の門前に立ち、魚の目のように光る水晶玉に笑いかけた。

「おはようございまーす!」

 返ってくる言葉はないけれど、門が音をたてて開く。

 敷地内の植物達は、気候の変化とともに、さらに活発化していた。葉がそこかしこに伸び、緑の匂いが充満している。薔薇の芳香も。赤や白、ピンクや黄色の花がこぼれ落ちるように咲いていた。

 屋敷内の埃っぽさは相変わらずで、掃除されている気配がない。古びているとはいえ、これほどのお屋敷なのに、使用人の一人も雇っていないのだろうか。

 博士を探して、契約の時に入った応接室の扉を叩いてみる。でも、中からは物音一つしない。少し待ってから、もう一度やってみたけれど同じこと。

 他の部屋も試してみようと踵を返した時、博士が階段を下りてきた。前と同じように鳥打帽を被り、飾り気のない白いシャツに黒のズボンという服装だった。

「今日からお勤めです。よろしくお願いします」

 博士は寝不足なのか、機嫌が悪そうだった。

 でも、思い返してみれば、楽しそうにニコニコしている顔なんて見たことない。いつも仏頂面なのだから、理由を気にする必要ないよね、きっと。

 私は博士が被っている帽子に目をやって尋ねた。

「お出かけになるんですか?」

「いいや、出かけるのは君のほうだ」

 私の前に立った博士は、大きな封筒を押し付けてきた。

「まず、これを郵便局で発送してくれ。その後はミルトン商会へ行け。クランブル通りにある魔薬の材料を扱う専門店だ。僕の取り寄せた材料が入荷しているはずだ。店主には君の事を伝えてある」

 矢継ぎ早に指示されて、私はおたおたしてしまった。

「あのう、ミルトン商会の場所が分からないので……行きかたを紙に書いてくれませんか?」

「路上の案内板を見るか、通行人にでも聞いてくれ」

 博士は煩そうに言って、私に背中を向けて二階へ戻っていった。私は途方に暮れながら、何となく、手紙の宛名を見た。プリンス魔薬商会となっている。

 小さな雑貨屋でも扱っているような、有名な魔薬を出している会社だ。

 やっぱり博士はすごい人なんだ。私は封筒を抱きかかえた。


 郵便については難なく片付いたけれど、ミルトン商会へのお使いには手こずった。――店の場所が分からないんだもの。

 路上に設置された案内板には、たくさんの店の名前がこまごまと書き込まれているのに、ミルトン商会の文字はなかった。人のごった返すクランブル通りを端から端まで歩き、軒を連ねる店舗が掲げる看板を一つずつ確かめたけれど、見つからない。

 通りすがりの人を呼び止めて、ミルトン商会の場所を聞いてみることもした。ところが、誰一人として、そんな店は知らないと答える。

 私は途方に暮れてしまった。魔薬の材料屋なんて一般の人には用のない店だから、脇道か裏路地にひっそりと開店しているのかもしれない。

 しらみつぶしに回っていくしかないのだろうか? ……どうしよう、とても一日では探し出せない気がする。

 途方に暮れた時、個人経営の小ぢんまりとした魔薬局を見つけた。

 私は一も二もなく飛び込んだ。年季の入った建物ながらも、店内は清潔に保たれていた。カウンターの向こうには、茶色いキャラコのワンピースに白衣を重ねたお婆さんがいる。

「すみません、ちょっとお尋ねしたくて。ミルトン商会という材料屋をご存知ですか?」

 姿勢のよいお婆さんは、色素の薄くなった目を少し見開いた。

 それから目尻のしわを深くして、懐かしそうに微笑んだ。

「ミルトン商会さん。久々に聞きましたね。あそこは看板を変えて、もう五年ほど経ちますよ」

 仰天した私は、思わず、素っとん狂な叫び声をあげてしまった。

 どういうことなんだろう? 博士は「連絡を取った」とまで言っていたのに……

「でも、私は、そこで品物を受け取るはずなんです」

「お店そのものは続いていますよ。ですが、店主さんが若い方に変わりましてね、その折に名前を改めたんですよ。今では『雅屋』さん」

 お婆さんは愉快そうに笑い、道順を丁寧に教えてくれた。

「あなた、新人さんなのね? 年配の魔薬師だと、昔の店名で呼んだりするんですよ。覚えておいたほうがいいですよ」

 私は照れ笑いを浮かべるしかなかった。キッドマン博士はまだ若いはずだけど。

 几帳面な性格のようでいて、けっこう、間が抜けたところがあるのかもしれない。

 雅屋は、見過ごしてしまいそうな店構えだった。大きな仕立て屋の裏手にあって、看板は扉の取っ手に板切れをぶら下げただけの物だった。

 店内は薄暗く、入ってすぐに木の枠組みに紙を貼ったランプが置かれていた。赤茶色の丸テーブルと、クッション付きの椅子が二脚。

 主な家具はそれだけだったけれど、壁中に大小の額縁が掛けられているので、にぎやかな印象があった。

 一目で異国のものだと分かる絵画ばかりだった。顔も身体も平坦な人物画、三角形の山を描いた風景画。また、絹糸で刺繍した布地や押し花、街並の写真などを収めた額もあった。

 それらの物に気を取られつつも、奥手に見える扉に向かって呼びかけた。

「こんにちはー」

 ガウンのような物を着た男性が出てきた。白地に濃紺の点々が飛び、腰に横縞の太帯を締めている。

 奇妙だったけれど、何より驚いたのは、服の前が大胆にはだけていて、たくましい胸板が露出していることだった。

 私はあわてて顔をそむけた。でも、男性には悪びれる様子もなく、親しげな微笑を浮かべて堂々としている。

「これは『浴衣』といって、れっきとした東洋の衣装なんだよ」

 身体つきにふさわしい、精悍な顔立ちだった。赤味がかった金髪を短く刈り、活動的な性格がうかがえる。

「可愛いお嬢さんの名前を当ててみせようか。私はね、しがない魔薬の材料屋などやっているが、実は神通力があるのだよ、アンジェリン・アトリー」

「……キッドマン博士から、お聞きになってるんですよね、私のこと」

「これはこれは。一枚上手だね」

 店主さんは唇の端を吊り上げた。

「意外と時間がかかったね。分かりにくかったかい?」

 私はあいまいに笑った。

「昔は『ミルトン商会』っていう名前だったんですね」

「そうだが――キッドマンが店名を間違えたのかい? 奇妙なことだね。彼は、私が経営者になってからのお客なのに」

 不思議そうに筋張った首をひねりながら、椅子をひいて私にすすめた。店主さんは、店の奥へ消えて、ティーポットとお菓子を運んできた。

「あの、長居はしませんから……ここへ来るだけでも手間取ってしまったので。急いで返って、博士に材料をお届けしないと」

「つれないことを言わないで。お茶の一杯ぐらい付き合うのは礼儀というものだよ」

 のらりくらりと言いながら、カップにお茶を注ぎ、茶色い小ぶりのパンの説明をする。

「これはね、『まんじゅう』というんだよ。この衣装の国の菓子だ。豆の一種を煮込んで砂糖と混ぜたものが中に入っている。甘みは少ないが、上品な味だね。おひとつどうぞ」

 この店主さん、奇妙な格好でも決まっているのは、男前だからなんだろうか。

 骨組みはしっかりして体格もいいし、肌は健康的な色合いに焼けている。なのに、無骨さはまったく感じられない。何というか……妙に色気がある。

「キッドマンも堅物そうに見えて、なかなかどうして油断ならないな。君みたいな若くて可愛いお嬢さんを助手にするとは」

 二人きりで向かい合い、しかも品定めするように緑の目で見つめられて、私はそわそわした。

「……いいなあ。私も売り子を雇おうかな。店の中がパーッと華やぐような娘さんをね」

 照れもしないでさらりと言えるあたり、遊び人なのかもしれない。

「アンジェリン、ね。可愛い名だね。天使と呼んでもいいかな」

「やめてください」

「では、呼び名はアンジーだな。ねえ、キッドマンのところで働き始めたのはいつから? 偏屈だろう、あの男。わざわざ苦労する道を選ぶとは殊勝だね」

 店主さんは話し好きのようだった。なのに、一人で店にこもって退屈しているようで、あれこれと話しかけてくる。聞き上手なので、私はつい乗せられて、百社から不採用を受けたことを打ち明けていた。

 ふいに、壁の時計に目をやってハッとした。いつの間にやら、だいぶ時間が過ぎている。今頃、博士は痺れを切らしているに違いない。

「大変。もう戻らないと……!」

「残念だなあ。しかし、帰りたがる娘さんを無理に引き止めても、私の株が下がるだけだね」

 店主さんは店の奥へ消えて、包みを手に戻っていた。

「白繭、赤繭、ササゲの粉末。重くはないと思うが。ああ、代金は月払いだから」

「そうですか。どうもありがとうございます」

「また近いうちに、どうぞ」

 店主さんは意味ありげにウインクした。

「うちのお客さんはむさ苦しいオジサンばかりなんだよ。後は、使い走りの小僧だね。アンジーには、私の清涼剤になって欲しい」

 軽い戯れだと分かっているのに、私はうろたえた。顔が火照るのが自分でも分かる。店主さんはますます楽しそうに微笑んだ。

「今度はもっと、ゆっくりしていって」

 私は逃げるように外へ飛び出した。


 研究所へ帰り着いた時には、お昼近くになっていた。

 雷が落ちることを覚悟していたのに、キッドマン博士はむしろ、戸惑ったように何度も瞬きした。

「早かったな。雅屋を突き止めるのに、もっと時間がかかると思ったのに……」

 博士はブツブツ呟いている。あれ、おかしいな。今度はちゃんと雅屋って言ってる。

「あのう、材料屋さんは『ミルトン商会』じゃなくて『雅屋』ですよね?」

「そうだ。名前を間違えて教えてしまったな。済まなかった」

 別段、驚いた様子もなかった。そのせいで探すのに苦労したんだから、もう少し、反応してくれてもいいのに。

「次は、どうしようか……」と、私が渡した包みに視線を落とす博士。

 どうしてだか、どこも行っていないはずなのに帽子を被りっぱなし。

「お昼ご飯は召し上がりましたか?」

「いや、まだだ」

 私が「作りましょうか?」と申し出る前に、呼び鈴が鳴った。玄関の扉を開けると、丸いお腹がせり出した小熊のような男性が立っていた。

「こんにちは、キッドマン様。昼食をお届けにあがりました」

 抱えた二つのバスケットからは、食欲をそそる匂いが立ち上っていた。

「彼は、ヒース・レストランのダンロップだ。僕の食事はいつも、ここに頼んでいる」

 ニコニコしているダンロップさんから、博士はバスケットを受け取った。二つのうちの片方を私に押し付け、さっさと階段を上っていく。

 私は、応接間でバスケットを開いた。卵ときゅうりのサンドイッチ、カマンベールチーズ一切れ、ポテトフライとフィッシュ&チップス。中身がぎっしり詰まっていて、味も良かったけれど、独りぼっちの食事では、あまり美味しいと思えなかった。

 食べ終えた私は、階段をのぼって作業部屋の扉を叩いた。博士の返事があってから、遠慮がちに中に入る。

 作り付けの棚が壁を覆い隠して、天井まで届いていた。使い込んだ作業台は細かな傷だらけ。アルコールランプ、ガラス容器、すり鉢といった器具が並び、使っている材料のせいで甘酸っぱいような匂いがした。

「あの。午後は、何をしたらいいでしょう……?」

 博士の態度はそっけなかった。

「そうだな。掃除でもやってもらおうか」

 お手伝いさんじゃなくて、魔薬師の助手なのに。私はがっくりした。……でも、初日なんだから、仕方ないか。

「どこをですか?」

「一階の部屋すべてだ。まあ、一日二日では片付かないだろうな」

 私は気落ちしながらも、掃除用具を探して、階段の下の物置から発見した。箒とちりとり、はたきを持って、適当に扉を開けると、そこは広々とした食堂だった。天井が高く、縁にはブドウや絡まった蔓の模様がしっくいで浮き出るように描かれていた。

 私は、昔のキッドマン屋敷に思いをはせた。昔はこの通りでも目を惹く、すてきなお家だったに違いない。なのに今は、床にも食卓にも、分厚い埃が雪のように積もっている。

 私はハンカチで口元を覆い、慎重に室内へ踏み込んだ。それだけで埃がもうもうと舞い上がる。真っ先に窓を全部開け放って、新鮮な空気を入れた。

 食卓の脚をそっと拭うと、美しい木目と蔓草の彫刻があらわれた。椅子も揃いのアンティークらしく、同じような模様がついている。

 クリスタル製品を収納したキャビネットまで置かれていた。台の部分はすべてガラス張りで、棚の後部の鏡が光を反射する。けれども、豪華なコレクションも埃をかぶって輝きを失っている。

 私は慎重にはたきをかけていき、次は暖炉へ取り掛かった。マントルピースの上には、時計と陶器の写真立てが置かれていた。写真に写っているのは、はかなげな風情の美しい女性と、五歳ぐらいの少年だった。

 博士だ、とすぐに分かった。生意気そうにすぼめられた口許や、アーモンド形の目に面影がある。

 隣の女性は、今の博士をもっと細く、そして壊れやすそうにした感じだった。博士のお母様だろう。

 背後に写っている玄関扉は、どう見ても、このお屋敷のものだった。玄関はきれいに掃き清められ、荒れ果てた今とは全然違う。

 どうして、屋敷を荒れ放題のまま放置しているんだろう? 博士は魔薬の開発で成功しているんだから、お金がないわけじゃないのに。

 窓の外が暗くなってきた。床に落ちた埃を掃きだす前に、博士がやって来て「もう帰ってよろしい」と告げた。


 最初のうちは、掃除もおもしろかった。まるで宝探しみたいで。埃がこびりついた花瓶を根気強く拭いていると、あどけない表情の天使が顔をのぞかせたりする。

 客間には、豪華な天蓋つきのベッドが置かれていた。埃をはらって、羽根布団のカバーや敷布を洗濯して、すっかり綺麗にすると、まるで外国のお姫様の寝床みたいになった。

 一ヶ月が過ぎても、毎日毎日、掃除ばかりしていた。一部屋ごとが相当広かったし、かなり汚れていたから。

 いつの間にやら、私の相棒は、ガラス容器やアルコールランプや秤じゃなくて、箒とはたきと雑巾にすりかわってしまった。

 食堂、台所、居間、客間、クロークルームと順繰りに回って掃除すると、幽霊屋敷さながらだったのが「ちょっと年季の入ったお屋敷」と言えるまでになった。壁に空いた穴や、蝶番がはずれかかって傾いている壁などは、私の手には負えなかった。大工さんに修繕してもらわなくちゃ。

 私は自分の仕事のできばえに満足して、階段をのぼって作業部屋へ行った。分厚い扉を叩き、向こう側にいる博士に報告した。

「終わりました、博士。一階の部屋をすべて清掃しました!」

 博士が顔を出した。嬉しそうな素振りはなく、それどころか、まったく気のない様子だった。

「じゃあ、次は庭だな。適当にやってくれ」

 私の落胆は、言葉では言い表せないほどだった。

 一階の部屋をすべて清掃したあかつきには、魔薬師らしいことをやらせてもらえる、と思っていたのに。博士が直接そう言ったわけじゃないから、私の勝手な思い込みだったんだけど。

「アトリー君、どうした?」

 博士が怪訝そうに尋ねてきた。きっと、私、恨めしげな眼差しをしていたんだ。

 はっきりと伝えてみようか。もっと別の、ちゃんとした仕事がしたいって――

 でも、すんでのところで思いとどまった。博士は、私の悲惨な成績にも目を瞑ってくれた貴重な人。それを忘れて、わがまま言っちゃいけない。

「何でもありません。すぐにやります」

 強張った顔の筋肉を無理やり動かして微笑んだ。頭では分かっていても、気持ちのほうはみじめ。いつになったら、魔薬師らしい仕事ができるのだろう……


 下宿に向かう足取りの重いことといったら、一気に体重が増えたかのよう。足元を見ながら、とぼとぼと歩いていると、急に呼び止められた。

「アンジェリンじゃないの! 久しぶりね! 今、帰り?」

 街路の明かりに照らし出されているのは、ジャネットの気の強そうな顔だった。一ヶ月ちょっと会っていないだけなのに、とても懐かしく感じる。

「どう、一緒にご飯でも食べていかない?」

「賛成!」

 二人で連れ立って通りを歩く。ジャネットが就職したのは大手の魔薬局で、とても忙しいらしかった。

「調薬の注文がひっきりなしなの。まるで機械にでもなったみたいに薬を作っているわ」

 ジャネットは愚痴が溜まっているようで、紅を塗った唇を尖らせた。でも、私としては羨ましい。

「もう一人前の魔薬師ね。尊敬しちゃうな」

「アンジェリンのほうがすごいじゃない。キッドマン博士の助手なんて。学生の頃には分からなかったけど、あの人って有名なのねえ。職場でも、たまに話題にのぼるの。若き天才魔薬師ってね!」

 めずらしいことに、ジャネットがうっとりした視線で遠くを見つめる。

「じゃあ、私が何をしてるか知ったら驚くわ。まるでお手伝い――」

 私は口ごもった。恥ずかしくて言えなかったわけじゃなくて、言葉が出なかったのだ。

 おかしい。何度喋ろうとしてみても、口が拒んでいるようで、その先が言えないのだ。

「ああ、契約の魔法ね」

 ジャネットが合点した。

「な、何なの、それ?」

「あんたってば、何を驚いているの? 知っているでしょ。雇用契約書に署名すると、いろいろ魔法をかけられるってこと。今、発動したのは、口封じの魔法でしょうね」

 初耳だけど……ところが、ジャネットの話では、就職科の先生やシーウェル先生から、説明があったという。

 働き口によって契約の魔法の種類は多少変わるものの、口封じの魔法だけは、必ずかけられるらしい。

「従業員が、従業員が仕事内容や雇い主について知った情報を、むやみに口外できないようにするためよ。うちの職場なら、どのお客さんがどんな魔薬を服用しているか、その秘密を漏らさないように」

「魔法をかけられたこと、全然気づかなかった……」

「あのねえ。仮にも契約書なんだから、署名する時はちゃんと読みなさいよ。相変わらず、抜けてるわね」

 ジャネットは呆れた顔をしたけれど、哀れむようにしげしげと私を見た。

「アンジェリンにかかった魔法は強そうよ。拘束が普通よりも厳しい感じがする。魔薬の開発に関わるともなると、重要なことをたくさん知るからでしょうね」

 開発に関わるどころか、作業部屋にさえ入れてもらえない身だというのに。博士が何を作っているのか、全然知らない。漏らす秘密なんて、一つだってありはしない。

 まったく不当だ、という思いが身体の中で弾けた。友達と愚痴を言って慰めあうこともできないなんて。本当に新薬の手伝いをしているなら救われるのに、そんな兆しも全然なくて、敷地内の掃除ばかり――

「博士にかけあってくる! 魔法を軽いものにしてもらう」

「ええっ? 無理だと思うわよ。やめなさいってば」

 ジャネットの制止もきかず、私は薔薇が丘へ向かって走り出した。

「ご飯はまた今度ね!」

 夜のキッドマン屋敷はますます幽霊屋敷じみていた。こんもり茂る植物の影はおどろおどろしく、私は門をくぐってすぐに明かりの魔具を使った。棒の形をしていて、その先端から光が放たれる。足元を照らし、垂れ下がる枝を手で押し分けて進んだ。

 真っ暗な屋敷の中で、二階の仕事部屋の扉の隙間から明かりが漏れている。博士はまだ仕事に熱中しているようだ。私はごくりと息をのんで、思い切って扉を開けた。

 博士は調べ物の最中だった。昨日、私が本屋から受け取ってきた本を開いている。作業台の上には、他の本や、資料の束や走り書きの紙が散らばっていた。

 博士は鳥打帽を被ったままで、押さえつけられた前髪の下にあるダークブラウンの目は仰天していた。長い睫毛に縁取られたまぶたを何度も瞬く。

「何だ? 一体、どうしたんだ?」

「博士、お願いがあるんです」

 私は追い出される前にと思って、つかつかと入っていった。

「私にかけた契約書の魔法を軽くしてください。お願いしますっ」

 整った顔に警戒の色が浮かぶ。それも一瞬のこと、博士は威圧的に言い渡した。

「断る。契約書には、口封じの魔法の強度も書いてあった。アトリー君は読んだ上で署名したはずだ」

 それを指摘されると反論できない……

「で、でも、博士の研究のこと、私は何も知らないです。手伝わせてくれないじゃないですか。なのに……」

「くどいぞ。僕は絶対に考えを変えない。くだらない話で煩わせないでくれ」

 博士の口調には有無を言わせないものがあった。私はすごすごと引き下がるしかなかった。


 次の日、出社する私の足取りは重かった。

 博士の機嫌を損ねてしまったのは間違いない。ひょっとしたら、暇を出されるかもしれない……

 玄関の扉に紙切れが留めてあった。走り書きで「雅屋へ行け」とだけ。私は胸を撫で下ろしてメモを取った。

 普段だったら、雅屋へのお使いは心が躍るイベントだった。店主さんはふざけてばかりだけど、質の良い材料の見抜き方や、教科書でしか名前を見たことがないような珍しい材料を見せてくれる。私の仕事の中で唯一、魔薬師らしいひと時。

 でも、今日は、契約の魔法のことで気が重かった。店主さんは、私の顔を見たとたんに言った。

「おや、浮かない顔をしているね。どうしたんだい?」

 私は答えかけて口ごもった。この人にだって、誰だって、何を打ち明けることも禁じられているのだ。

「お話できないんです。本当は聞いてもらいたんですけど……」

「キッドマンのことだろう? 偏屈だからねえ。アンジーの苦労が偲ばれるというものだよ。私たちの間で遠慮は無用だ。何でも話してごらん」

 私は首を横に振った。

「実は、契約書の魔法が……」

 全部を説明する前に、店主さんは気づいた。

「そうか。キッドマンのことだから、強いやつをかけたんだろう。それでも抜け道はあるさ――私の質問に答えて。キッドマンは昨日、何を食べた?」

 駄目だった。言葉が出ない。店主さんは次の質問に移った。

「今日のキッドマンの服装は?」

「まだ会っていないんです」

「じゃあ、昨日の服装でいいよ」

 やっぱり言えない。私は首を振った。まったくもう、身振りばっかりしてる。口がきけなくなったみたいだ。

「これは手ごわい」

 店主さんは、愉快そうに口元を吊り上げた。

 問答は二十分ほども続いた。私に答えられることはほとんどなくて、首を振る動作のくり返し。

「最後に、キッドマンの顔を思い浮かべて。どんな表情をしてる?」

「えーっと、仏頂面です。眉間にしわが少しできてて」

 店主さんは噴き出した。

「ごめん。今のは興味で聞いただけ。――アンジーにかかっている口封じの魔法は一級のやつだ。ごまかしは通用しないね。普通は、国家機密に関わるような人物にかける」

 もう。人の気も知らないで、おもしろがっている。浴衣の広い袖口に腕を突っ込み、首を傾げるようにして私の顔を覗き込んだ。

「ひょっとして、この魔法がアンジーのお気に召さないのかな?」

「当然です」

「魔法そのものを解くことはできないが、短時間なら効果をなくす魔薬があるよ」

「本当ですかっ?」

 期待を込めて、店主さんの切れ長の瞳を見つめた。吸い込まれそうな緑色の目がいたずらっぽく輝いている。

「副作用が凄まじいが、ね。廃人になる可能性が九割だ」

「そんなの使えません……」

「まあまあ、元気をお出しよ」

 明るい調子で慰めて、空になったカップにお茶を継ぎ足してくれた。湯気の立ち上る液体は、店主さんの緑の目と同じ色合いだった。この茶葉も、浴衣の国の特産品なんだとか。

「それにしても、キッドマンはどういうつもりなんだろうね。一級の口封じが付いた契約書など、なかなか手に入るものじゃないよ。この私ですら、用意するのは難しいだろうな」

 ふたたび腕組みをして首を傾げた。気安い表情を止めて、真剣になると男前度がぐんと上がる。

「アンジーは、キッドマンの弱みでも握っているのかい?」

「そんなのありませんってば。逆に何も知らないから、理不尽だと思うんですよね」

「本当かなあ? いくらキッドマンが神経質だといっても、何の根拠もなしに一級の口封じは使わないと思うよ」

 私には、その契約書がどれだけ貴重なものなのか、今ひとつ掴みきれないけれど。

「アンジーが気づいていないのか、もしくは重要だと思っていないだけか。ようく思い出してごらん」

 ふいにハッとした。もしかして、あの耳のこと? 近頃は思い出しもしなかったけど。

「思い当たることがあったみたいだね」

「ええ。でも、誰にも言わない約束をしたんです」

 それに、猫の耳が新薬の実験のせいなら、もう消えているんじゃないのかな……?

「甘い甘い。口約束なんぞで安心する性質じゃないよ、彼は」

 店主さんの自信ありげな言葉が私の胸をかき乱した。まさか、博士が私を疑っているなんて、そんなことは――

 でも、打ち消そうとすればするほど、疑惑が暗雲のように広がっていった。


 雅屋で受け取った包みを差し出す私の手は、知らず知らずのうちに震えていた。博士の顔を見ると、頭部を覆っている鳥打帽に目が吸い寄せられる。ああ、聞かなくちゃ。ためらっていても仕方ない。

「あの耳は――まだ生えているんですか?」

 博士がギクッとしたのが分かる。手が一瞬止まった。

「それは、もう口にするな」

 博士は答えなかったのだけど、分かってしまった。耳はまだ生えたままなんだ。ひょっとしてひょっとすると、博士はあの耳を元に戻すことができない?

 店主さんの言葉が頭の中でぐるぐる回る。博士の刺すような眼差しに耐えて、勇気を奮い起こした。

「私にかけた口封じが強力なのは、博士が心配しているためですか? それなら、ご心配には及びません。私は口が堅いんです。誰にも言いません」

 私は精一杯の誠意を込めたけれど、博士が心を打たれた様子はなかった。返って、眼差しがきつくなる。すくみあがっていると、博士が腹立ちまぎれに壁を叩いた。

「何度も同じことを言わないと、理解できないのか? あの契約書はそのままだ、君は誰にも話すことが出来ない」

「博士は……口封じの魔法をかけるために、私を助手にしたんですか? そうなんですね」

 博士は息遣いも荒く、険しい顔で睨みつけた。私は身の危険すら感じて後ずさりした。

「分からないのか? どんなに重要なことなのか。魔薬師にとって、自分のかけた魔法を解除できないことは重大な失態なんだ。能力を疑われてしまう。僕の作ってきたものすべてが――否定されかねないんだぞ!」

「もちろん分かります。私だって魔薬師の端くれなんですから。決して誰にも話すつもりは……」

「信用できない」

 博士は私の言葉をぴしゃりと遮った。聞こうともしてくれない。無性に腹が立って悲しくなってきた。

「どうして決め付けるんです?」

「こちらが逆に聞きたいよ。なぜ君を、僕自身を破滅させる鍵を持つ君を、僕が信じられると思うんだ?」

 泣きそうだ、と思う間もなく、涙が瞳から転がり落ちていた。とめどなく溢れて頬を濡らしていく。

「私、辞めます。博士が必要としてくれていると、そう思っていたのに」

 実際には全然違っていたんだ。博士は私に脅威を感じ、秘密を守らせるために助手に雇ったんだ。

 なんて、みじめなの。博士は、私に何ひとつ期待なんかしていないんだ。魔薬の開発を手伝わせる気は当然ない。室内の掃除も、庭の雑草抜きも、暇潰しにやらせているだけなんだ。

 博士は、泣いている私に余計に苛立ったかのように、足を踏み鳴らした。

「よくよく物分りが悪いな。僕は君の口を塞ぎたい。だから、契約書を使った。解雇して、魔法を解除するわけがないだろう」

 私はもっと声を張り上げて泣いた。邪魔に思われて、何の役にも立たないと思われて、でも辞めることもできない。百社目の不採用通知を受けた時が人生の最悪だと思っていたけれど、そうじゃなかった。こっちのほうが酷い。みじめで、情けなくて、絶望的。


 私は魔法が好き。空飛ぶ絨毯や魔女の箒、動き出す人形とか、そういった類のものが小さい時から好きだった。もっとささやかな魔法だっていい。手紙が鳩になる、とか。

 本当は魔術師になりたかったけど、私には魔力が足らなかった。十歳の頃だったかな。無理だと分かったのは。衝撃だった。でも、魔薬師なら勉強すればなれると分かって立ち直ったんだ。

 調薬はすごく楽しい。自分の手から不思議が生み出される瞬間って、すばらしいと思う。先人が作った処方箋をなぞるだけとはいえ、本当に感動する。

 魔薬師になりたかった。できれば、新しい魔薬も作ってみたかったの。私なんかには壮大すぎる夢だけど。

 でも、今となっては、もう叶わない。キッドマン博士の下でお手伝いさんとして働くしかないんだもの。掃除ばっかりやってて、どうして魔薬師になれる? 私の夢は完全に潰えてしまった。

 博士は、泣きくれる私を屋敷から追い出しこそしなかったけれど、非常に腹を立てて「静かに泣けっ」と怒鳴った。私を客間に引っ張り込むと、扉や壁や窓に音無しの清水をまいた。泣き声が室内から漏れないようにして、博士は作業部屋に戻った。

 さんざん泣いて、身体中の水分を出し尽くした気分だった。ぐったりしてベッドに倒れこむ。羽根布団のカバーや敷布も洗濯したから、横になったって気持ち悪くない。

 博士は、私がどうしていようと構わないのだ。今ここで寝てしまったって、気にも留めない。自分に迷惑がかかりさえしなければ。

 思った途端、枯れたはずの涙が滲み出してきた。

 落ち着いてきたのに、惨めさがぶり返す。もう嫌。いっそ、眠ってしまおう。博士は気にしないんだから。現実の辛さは夢の世界まで追ってこない。

 布団の下にもぐりこんで目をつぶった。日は明るく、眠気が訪れる気配はない。なんて静かなんだろう。音無しの魔法は、この部屋の外の物音も遮るのだろうか。静寂に耳を澄ませていると、こんなことじゃ駄目だ、という気持ちになった。自暴自棄になってどうするの? 何が良くなる?

 ――もし、私が優秀だったら、博士はどうしただろう? 秘密のために雇ったとしても、ちゃんと助手らしい仕事をさせるはず。そうなれば、道はうんと開ける。

 天啓のように閃き、目から鱗が落ちる思いだった。キッドマン博士に雇われたままだって、魔薬師になることはできる。要は、私が何をするかだ。

 博士は天才と謳われる魔薬師なんだもの、ここで働いていること自体は間違いじゃない。幸運と言ってもいいんだ。

 博士に認められて、魔薬の開発のお手伝いがしたい。そのためには、泣きくれていたり、客間で怠けたりしていてはいけない。

 私は勢いよくベッドから降りて、出口に駆け寄った。

 扉を開いた途端、何かにぶつかる手ごたえがあった。そして、人の呻き声も。

「ご、ごめんなさいっ。大丈夫ですか?」

 間の悪いことに、博士が扉の向こうに立っていた。私ったら、思いっきり扉をぶつけてしまったんだ。

 博士は赤くなった額を手で押さえていた。

「腫れたりしたら大変です、すぐに冷やさないと」

「問題ない。だが、扉はゆっくり開けろ」

「……はい」

 私はしょんぼりとうな垂れた。博士はいつもにも増して、怒っているみたいな表情だった。

「いい加減、泣くのにも気が済んだようだな。これから新薬の調合をするから手伝え」

「え?」

 ぽかんとして聞き返した。博士が苛立ったように睨みつける。

「アトリー君程度の実力では、ろくに使い物にならないとは思うが――熱意だけは買ってやる」

 白昼夢かと思うほど、うますぎる運びだった。

 博士の顔をまじまじと見ると、照れているみたいに、頬がうっすら色づいていた。私が御礼を言う前に、博士はクルリと背中を向けた。長い髪が尻尾のように揺れた。博士は大股で歩き出す。

「早く来い。調薬を始めるぞ」


 調薬を行う博士の手つきは流れるようだった。丁寧に一つずつ作業を完了していく。動きに無駄がない。私はすっかり見惚れてしまった。

 新薬って、シーウェル先生に話していた猫と話せる薬のことだろうか? セッコクの乳液を入れているし、言語系の魔薬だということは間違いなさそう。

 ふいに博士が顔を上げた。壁に作りつけられた棚を指差す。

「その戸棚から、イヌハッカの蒸留水を取ってくれ」

「はい!」

 私は飛ぶように踏み台に乗って、黄緑色の液体が入った瓶を博士に渡した。

 博士は解除薬も一緒に作っていた。魔薬に成分を足すと同時に、隣に置いた解除薬の容器に働きを打ち消す成分を同量だけ混ぜる。

 魔薬の分量を書き留めておいて、後で解除薬を作る人もいるけれど、博士のやり方のほうが確実で安全だ。

「アトリー君! 物置からガラス容器を持って来るんだ。なるべく、これに近い大きさがいい」

 博士は、アルコールランプで熱している容器を指差してから、続き部屋の扉をあごで示した。

「はい、すぐに」

 中に入ると、書庫のように棚が列になって、ずらりと並んでいた。見出しが付けられ、整然と片付けられている。博士の几帳面な性格があらわれている。

 棚の開き戸を開けると、ガラス容器が大小ごとにお行儀よく整列していた。

 でも、ちょうどいい大きさのものが見当たらず、私は隣の棚を開けた。そこには見出しが付いてなかったから、容器が入っているかもしれないと思って。

 ところが、入っていたのは、焼き菓子がいっぱい詰まったバスケットだった。ショートブレッド、クッキー、ジンジャーブレッドマンビスケット、バナナブレッド――エトセトラ、エトセトラ。

 博士がエドワーズ・カフェにいた謎が解けた。お菓子が好きなんだ。

「早く持って来い!」

 開けたままの扉から、博士の苛立った声が聞こえた。私はあわてて、一番大きさが近そうな容器を取って、物置部屋から出た。

 全部の工程が済み、ササゲの粉末で覆われたクルミほどの大きさの粒が十個ほど出来上がった。

 見た目はチョコレートみたいだった。でも、味のほうは――まあ、たいていの魔薬は苦くて美味しくない。材料を見れば、容易に想像できるだろうけども。

 解除薬は、スイカズラを使っているので真っ白だった。こっちはホワイトチョコレートの粒のよう。

 私は博士に言われて、棚から小さな空き瓶を二つ取った。博士は、片方に魔薬、もう片方に解除薬を入れると、上着のポケットに入れた。

「出かけてくる」

「実際に試すんですね?」

 博士は、愚問だと言わんばかりの表情で頷いた。でも、私は傷つくどころかワクワクして、博士の後に続いて研究所を出た。

 ところが、博士は、家の前の通りを行ったり来たり、頻繁に立ち止まっては塀の上を見たりや細い道を覗き込む。何をしているんだか、全然わからなかった。

 ようやく立ち止まった博士の視線の先を追うと、白地に黒ぶちの猫。首輪をしていないから野良だ。

 猫は警戒して身体を丸めたけれど、博士がゆっくりと近づいていっても逃げなかった。博士は、ぼさぼさの毛並みを撫でつつ、ポケットから魔薬を取り出して口に含んだ。

 博士に抱き上げられて猫が鳴いた。動物に親しんでこなかった私の耳には、不満のうめきにも喜びの声にも聞こえてしまう。

 どきどきする胸の高鳴りを感じながら、博士の端正な顔をじっと見つめた。考え込むような表情だ。

 博士は猫を地面におろしてやった。黒ぶち猫は、さっきと同じ、日当たりの良い塀の上に丸くなった。

「猫が言っていること、分かりました?」

 興奮を抑えて、なるべく静かに訊いたつもり。

「大雑把には。だが、それだけじゃ駄目だ。僕の言うことも猫に伝えないと。セッコクの乳液を増やして――ハニーサックルの粉末の量を減らす必要があるのかもしれない――」

 博士は私のことなんか見ていなくて、自分自身と相談しているような調子だった。だけど、ちっとも構わない。新薬の実験に立ち会えたんだもの。

 出てきた時とは打って変わって、博士は急いた足取りで研究所に戻る。私は心をはずませて後に続いた。


 次の日、私は一つの計画を抱えて居間へ入った。

 奥へ進むとサンルームがあって、大きな窓から庭を一望できる。今はお化けの住む森のようになっているから、すてきな眺めとはいかないけれど。

 日当たりが良いので、温室さながらの暑さだった。風を入れるために庭へ続く扉を開けると、小さな発見があった。扉を出た先は煉瓦敷きになっていて、鉄製のベンチが置いてあった。

 日よけの屋根には蔓薔薇が絡みついて、あずまやのようになっていた。旺盛に咲く小ぶりの黄色い花は、花弁が少なくて豪華さに欠けるかわりに、かぐわしい匂いを放っていた。

 試しにベンチに座ってみると、枝葉が頭上に差し掛かって、木漏れ日がいい感じに降り注ぐ。私は居間にあった小さな円卓を運び出し、ベンチの前に設置した。

 真っ白なクロスをかけて、昨日の晩に作ってきた焼き菓子を次々に並べていった。中央にはフルーツたっぷりのダンディーケーキ。スコーンと正方形や円形のビスケットは二段重ねのプレートに、焼いたメレンゲはガラスの皿に盛り付ける。

 スコーンにつけるクロテッドクリームと、苺やブルーベリーのジャムの皿を置き、台所へ戻ってお湯を沸かした。

 レースを敷いたトレイの上に、台所の食器棚から発掘した、赤い薔薇模様のティーカップと揃いのポットを並べる。

 万端に整えて、私は作業部屋の扉をノックした。

「博士、お茶にしましょう!」

 窓際の椅子に深く座って、本を読んでいる最中だった。面食らったような顔で私を見る。

 少々くじけそうになったけれども、私は勇気を奮い起こして「こっちです、こっち」と博士を居間へ誘導した。

「座ってください。今、紅茶を注ぎますね」

 突然のことに驚いているのか、博士は、借りてきた猫みたいにおとなしかった。

 カップに紅茶を注ぎ、ダンディーケーキを皿に切り分ける。ナイフを入れた途端、中に詰まったドライフルーツが皿にこぼれ落ちた。

 緊張しすぎて胸が苦しかった。博士がカップを取って飲んでくれた時には、詰めていた息がほっと漏れた。

 博士はスコーンを皿に取り、クロテッドクリームをつけて口に運んだ。再び、私の心臓は早鐘を打つ。

「あの、味はどうでしょうか?」

「なかなか美味い」

 その一言だけで舞い上がるくらい嬉しかった。

「私が作ったんです。これくらいしか、取り得はないんですけど」

「アトリー君は、料理が得意なんだな」

 私はちょっと恥ずかしくなって、照れ笑いを浮かべた。

「食べたい物があったら、リクエストしてください。たいていはお応えできると思います」

「頼もしいじゃないか。調薬の腕前も、それほどの自信を持てるようになってくれれば、僕としても有難いんだがね」

「あ、はい。善処します」

 博士が口元に微笑を浮かべた。からかいのこもった、皮肉な表情だったけれど、私が初めて目にする博士の笑顔だった。

 紅茶をゆっくり飲み、ダンディーケーキを食べる。アーモンドパウダーとレモンの香りが口の中に広がった。真っ赤なチェリー、数種類のレーズン、オレンジピールやレモンピールのにぎやかな味わい。

 二言三言を交わしただけで、会話はほとんどなかった。でも、気まずくはなく、心地よい静寂の時が流れた。博士の表情も穏やかになる。

「ここに座ったのは何年ぶりだろうな。父の葬式が終わって……母が出て行くよりも前のことだ。……五年以上は経つのか」

 昔を懐かしむような、それでいて寂しそうな呟き。

「お父様は、もう、お亡くなりに……」

 博士の年齢を考えると、お父様は今生きていても、五十歳前だったかもしれない。

 私がしんみりしたのも束の間、博士の視線が荒れ放題の庭へ移ったため、あわてて弁解した。

「すみません。庭にはまだ手をつけていないんです。私、きっと、博士のご両親がいらっしゃった頃のように綺麗にしてみせます」

「いいんだ。昔もこんな状態だったよ。外から覗かれないように、植木に魔法をかけて、わざと葉を多く茂らせているんだ」

 ご両親は秘密主義だったんだろうか。内心では不思議に思いながらも、博士の整った横顔を眺める。

「今日は、新薬の実験はしないんですか?」

「午後にやるつもりだ。君も昨日のように手伝え」

「喜んで」

 私は胸を弾ませつつ、博士に提案した。

「ねえ、猫を飼われたらいかがでしょう。そうしたら探しに行かなくて済むから、手間がうんと省けますよ。猫の世話って、思うほど大変じゃないんですって。昔、友達に聞いたんですけど」

「いや、猫は飼わない」

 博士は、わずかな躊躇もなく、きっぱりと言い切った。

「でも、猫はお好きなんでしょう?」

 それは間違いないはず。猫耳に、猫と話せる魔薬とまでくれば……

「好きだが、飼わない。そう決めているんだ」

 博士はいつもの気難しい表情に戻ってしまった。紅茶を一気に飲み干すと、立ち上がって室内へ入った。


十一

 言うなら、今しかない。私はおそるおそる口を開いた。

「待って。博士、待ってください」

「なんだ? 調薬の最中に邪魔しないでくれ」

 当然ながら、博士は不機嫌そうに眉を吊り上げた。

「この新薬は、すっごく苦いですよね? リンドウの蕾まで使うし。娯楽用の魔薬なのに、どうなんでしょうか。治療用なら、多少はまずくても我慢しますけど――」

 しどろもどろで言葉を重ねる私に、博士は苛立ったようだった。

「はっきり言いたまえ。どういうことか、僕には全然わからないぞ」

「……美味しくしたほうがいいと思うんです。魔薬でも」

 私は首を縮めた。博士は呆気に取られた顔をしている。言わなきゃよかった。叱られる。

 ところが、博士は、困ったように顎に手をやった。

「アトリー君の考えも、一理あるだろうな」

 私が思っているより、短気な性格じゃないのかもしれない。

「ベラドンナの蜜を甘味料として足すこともできるが、余計な効能まで追加されてしまう。それを無効化するために、また別の材料を加えなければならなくなる。僕はそういう調合はしたくない」

「砂糖だったら、何の変化もありません」

「何だって?」

 博士はぎょっとした。無理もない。魔薬の素材はどれも、魔力を帯びた特別なものばかり。何の効能もない調味料を加えるなんて、普通の処方箋ではあり得ないことだもの。

「実は私、魔薬の味が苦手で、砂糖でくるんだりシロップをかけたりしていたんです。おかしな効果が出たことなんて、一度もありませんよ」

「当然、そうだろうが……」

「大体、見た目がチョコレートそっくりなのに、実際には苦くて不味いなんて、騙された気がします」

「騙されたって……少し、大げさじゃないか?」

「そんなことないですよ。普通はそう思いますよ」

 昔から抱えてきた不満だったので、ついつい口調に熱がこもる。

「そういえば、この前、雅屋さんが教えてくれたんですけど――遥か東の国々では、料理に百合根の汁や黄繭を加えて、普段の食事を簡単な魔薬のようにしてしまうんですって」

 博士は顔をしかめた。私の主張に対して、感心したような呆れたような、どちらともつかない複雑な表情だった。

「うん――まあ――試してもいいよ」

「すぐに用意しますね」

 私は大喜びで台所へ行き、砂糖壷を取ってきた。博士は、空の容器に調合中の魔薬を取り分けて、砂糖を混ぜた。分量が見るからに足らなかったので、私は思わず口出しした。

「待って、博士。もっと入れてください。それだけじゃ、リンドウの蕾の苦さに負けてしまいます」

 その後は通常の工程に戻って、砂糖入りとそうでないものと二種類の薬が完成した。それぞれの魔薬を、効能が出ない程度にちょっぴりずつ舐めて味見する。

「確かに、このほうが摂りやすいな」

 苦味がごまかされて、ほのかに甘い。これだけで充分かもしれないけれど、私としては、やっぱりチョコレートの味になってほしいところ。

 そのためには、砂糖以外に、別の材料を加える必要がある。ココアパウダーとか生クリームとか。

 勝手に考えをめぐらしていると、博士がふわりと微笑んで賞賛の言葉をかけてくれた。

「すごいじゃないか、アトリー君」

 仏頂面をやめた博士は、とても優しそうに見えた。私は「大したことじゃないです」と謙遜しながらも、その笑顔を記憶に刻み込んだ。


十二

 新薬作りって、けっこう簡単かもしれない。

 猫の言葉を聞き取る段階まで、すんなりと出来上がったものだから、私はそう思いかけた。ところが、人間の言葉を猫に伝えるとなると全然うまくいかず、愚かな間違いは正された。

 一ヶ月もの間、開発は進展ナシだった。

 博士は、資料にうずもれる日々が続いた。私はその間、台所でリンドウの蕾の味をチョコレートらしくするために奮闘していた。

 博士にそうしろって言われたわけじゃない。自分がやりたかっただけ。

 時間が経つのはあっという間だった。少し前までは一日がひどく長かったのに、今はふと気づくと、室内が暗くなっている。

 窓から差し込む光がオレンジ色を帯びると、三十分もしないうちに、辺りは真っ暗になる。イチイの古木やブナの大木の輪郭が闇の中に浮かび上がり、広がった枝の形が気味悪かった。

 博士同様、私の研究もとんとん拍子には進まなかった。

 リンドウの蕾がもつ独特の風味は、なかなか完全に消せなかった。甘味料を使って打ち消そうとすると、妙に甘ったるくなってしまう。

 どうやって解決したらいいのか、長いこと考え付けなかった。苦味をいかしたらどうだろう、と閃いたのは突然だった。

 ――甘いチョコレートよりも、濃厚なビター味。

 発想を転換してやってみると、リンドウの蕾の苦味がうまくひきたって味わい深い。チョコレート菓子としても、なかなか優秀なお味じゃないかしら。

 私はできたものを皿に載せて、二階へあがった。博士に見せるために。

 どんな反応をされるだろうか? 自分では大満足のできばえだけど、求められてやったことじゃない。博士はむしろ、その時間を使って、魔薬の勉強をするべきだったと考えるかもしれない……

 あれこれ心配になってきて、扉の前で立ち往生してしまった。

 ようやくノックをすると、すぐに博士の返答があった。

「勘が働くじゃないか。これから調薬を始めるところだった」

 博士の様子は、心なしか、浮き足立っていた。長髪を尻尾のようになびかせて室内を歩き回り、棚から器具を出して作業台に並べていく。

「今度こそ、うまくいきそうだ。僕の処方箋では、リンドウの蕾が他の材料に邪魔されて、効能を充分に発揮できていなかったんだ。改善する方法がわかったから――」

 博士は言いながら、続き部屋へ消えた。私は皿を台の上に置いて、いそいで後を追いかけた。

 まるでバランスゲームみたいに、博士は腕いっぱいに瓶や包みを抱えていた。私は三分の一ほどを引き受けて、材料を運ぶのを手伝った。

「これで全部だ。アトリー君が持っている材料は最後のほうで使うから、台の右端に置いてくれ。――ん? この皿は何だ?」

 博士は、黒い粒が並ぶ皿に目を留めた。

「……リンドウの蕾の味を変える方法を考えたんです。よろしかったら、一つ食べてみてください」

 ためらいながら言うと、博士は無造作につまんで口に放り入れた。私は呼吸を止めて、博士の表情の変化を見守る。

 博士はちょっと眉を動かすと、私のほうに向き直って、驚きに満ちた顔で言った。

「これがリンドウとは思えないな。チョコレートだと言われれば、信じてしまいそうだよ。すばらしい」

「よかった。あの……新薬に使ってくれますか?」

「もちろんだ。喜んで、そうさせてもらう」

 天にも昇る気持ちだった。自分が魔薬師として、ものすごく前進したような気がした。

 実際には、魔法とは何も関係のないことをしたんだけど。


十三

 博士は片膝をついて、でっぷり太った虎縞の猫の頭を撫でた。私には理解できない言葉で話しかける。でぶ猫は回れ右をして、後ろに一列に並んだトランプの中から、ダイヤのキングを口にくわえて戻ってくる。

「すごい。博士の指示がちゃんと伝わってます。とうとう完成ですね!」

 私は興奮して大声を上げた。博士はうつむいて口元に手をやる。

 照れてるんだ。可愛い、と思っていると、盛大なクシャミを二つ。鼻がむずがゆかっただけらしい。

「二つ憎まれですよ」

「うるさい。アトリー君も試してみるか?」

 形のよい鼻を無造作につまみながら、博士が聞いた。密かに期待していた私は即座に頷く。

 小瓶を受け取り、チョコレートの粒そっくりの新薬を口に入れる。

 うん、美味しい。我ながら上出来。

 私はでぶ猫の前にしゃがみこんで頼んだ。

「今度は、ハートのクイーンを持ってきて」

「いやあよ。お断り」

 にべもなく断られて、私は仰天した。でぶ猫はふくよかなお尻をむけて、博士のほうへすり寄っていく。笑いを堪えている博士。

「この魔薬は、猫の気持ちまでは操作できないからな」

 まるで同調するように、でぶ猫は喉をゴロゴロ鳴らす。

「分かってます。ティータイムの支度をするので、私は先に戻りますね」

 博士はまだ唇の端に笑みを浮かべていた。私がすねていると思っているのかしら。

 屋敷へ戻って郵便受けを開けると、青の太線が三本走った封筒が入っていた。プリンス魔薬商会からの手紙で、私はちょっとドキリとした。

 テーブルの上に刺繍入りのクロスを敷き、ティーセットを並べる。

 今日、作ってきたのは、七種類のベリーを使ったサマープティング。白い大皿の上に、ケーキの濃いピンク色が鮮やか。生の木苺とミントの葉を飾って、博士を待つ。

 やがて鉄門が開き、玄関へ向かってスタスタ歩いていく博士の姿が見えた。私が手を振って呼ぶと、博士は庭を横切ってやって来た。

「サマープティングか。時期らしくていいな」

 博士の顔に、ほんの少しだけど、嬉しそうな表情が浮かぶ。

 ケーキを切り分けて、ホイップクリームを添える。カップに紅茶を注ぎ、甘酸っぱくてジューシーなお菓子をのんびり味わった。

「手紙が届いていましたよ。プリンス魔薬商会からです」

 手紙と一緒に、銀のペーパーナイフも渡す。博士はすぐに開封して、透かし模様入りの便箋を取り出した。

 私は固唾を呑んで、手紙に目を通す博士の横顔を見つめた。読み終わった頃合をみて聞いた。

「何だったんですか?」

「新薬の提案書を送っていたんだ。その返事だよ。この文面からすると、販売にこぎつけるのは難しくなさそうだな。試作品ができているなら、お披露目に来いとのお達しだ」

「じゃあ、ちょうど良いタイミングでしたね」

 プリンス魔薬商会の人々が博士の開発した魔薬を試して、売れるかどうかを会議で検討するらしい。不採用になる可能性もあるそうだけど、博士なら、まず間違いないだろう。

 博士は便箋を片手に持ったまま、空いたほうの手でカップを持ち上げた。

「もう少し細かい調整をしたほうがいい。半月なら、連中も待ってくれるだろう。アトリー君はあの薬に気になった点はあるか?」

 博士は私が猫にふられたことを思い出したのか、口の端に笑みを漂わせている。

「何にも。効能も味もバッチリだし、満点だと思います」

「自分の功績をさり気なく言い出すとは、君もしたたかだな」

 苦笑した博士は、次の言葉で私を仰天させた。

「この薬の販売が決まったら、アトリー君にも利益を得る権利があるのは、ちゃんと分かっているよ」

 冗談で言ってみただけで、催促しているつもりなんか毛頭なかった。大体、私がやったのは味付けだけで、魔薬の効能とは無関係だ。

「ええっ? そんな、とんでもない。ほんの少し、お手伝いしただけなのに」

「何を言う。アトリー君の考えた処方を利用しているんだから、当然のことだ」

 博士はぴしゃりと言った。気分を悪くした様子だったので、私は素直に受け入れることにした。

「ありがとうございます。もう一切れ、いかがですか? チーズビスケットもありますよ」

「プティングをもらおう。アトリー君は、この後、何をするつもりだ?」

 唐突にたずねられて、私は返答に困ってしまった。新薬の開発は終わっちゃったから、当分、博士の手伝いをすることもないだろう。

「特に、考えてなかったんですけど――二階のお部屋の掃除をしましょうか?」

「やらなくていい。客間を君の作業部屋にして、魔薬を作ってみなさい」

 幻聴か、もしくは博士が酔っているのか、と疑ってしまった。プティングに入れたブランデーの量は合っているはずなのに。

「掃除や買い物だけでは、腕が鈍る一方だからな」

 博士の口調はぶっきらぼうだったけれど、今ではそれが照れ隠しだと分かっている。

「本気で魔薬師になるつもりなら、既存の処方箋を真似るばかりではいけない。成分を少しずつ変えて工夫しなさい。材料は物置のものを使って構わないから」

「あ――ありがとうございます!」

 博士が、私の魔薬師を目指す気持ちを汲み取ってくれた。興奮した気持ちはなかなか静まらなかった。

「でも、何を作りましょう?」

「アトリー君の仕事の助けになる魔薬を作ればいい。掃除のために箒を動かすとか、買い物の荷物を軽くするとか」

「そうですねぇ……」

 私は腕組みをして考え込んだ。


十四

 客間を整えるのはすぐに終わった。掃除は済んでいたから、壁際に寄せられていた机を真ん中に移動させたくらい。

 さて、何を作ろう。博士の案どおり、箒に手伝いさせるのも良さそうだけれど、どうやったら出来るのか全然わからない。魔力を使えば、(短時間なら)できるけど――博士と私の技能の間には、深くて暗い溝がある。

 思いつかなかったので、今日はやっぱり掃除をすることにした。手を動かしていると、時々、いい考えが浮かんだりするし。

 二階の端の部屋は、どうやら、博士のご両親の寝室だったようだ。幅の広い寝台があり、反対の空間には、籐の椅子と小ぶりのテーブルが置かれている。庭を見下ろせる窓にかかったカーテンは開けっ放したままで、豪華な房付きのタッセルで束ねられていた。

 階下の部屋と同様に、長い間使われた形跡がなく、埃が厚く積もっていた。オレンジとレモンイエローの細いストライプ模様の壁紙は色あせ始めている。

 ベッドの敷布を外していると、床に置いた布団のカバーをうっかり踏んで滑ってしまった。かび臭い布の上に倒れただけでも嫌なのに、ベッドの頭部に頭をぶつけて、その弾みで壁に掛っていた絵画が落っこちて背中に命中する。もう最悪。

 痛む背中をさすりながら起き上がった。幸いにも、私の背骨にも泉を描いた絵画にも損傷はなかった。絵画を元の位置に戻そうとして仰天する。壁にぽっかり穴が空いていた。

 秘密の場所に隠されていたのは古びた本だった。思わず手にとってしまった。革張りの表紙は茶色く色あせ、表紙に型押しされた金文字は薄れていて解読できなかった。

 適当に開いてみると、目前に庭園の景色が広がった。植木の数は少なく抑えてあり、毅然と立っている一本の白樺が目を惹く。根元にはロベリアの青い小花がぐるりと植えられていた。円形のタイルが芝生の上に置かれて、小道のように庭の奥へと続いている。

 魔法仕掛けの本だ。

 紙面に目を落とすと、手描きの文字が並んでいた。男性のものらしい、角ばっていてしっかりした筆跡。

『私は庭のベンチに腰掛けて、新しい薬の着想を考えていた――』

 どうやら日記みたい。読んじゃいけないだろうな。

 本を閉じようとした時、女性の悲愴な呼び声が聞こえてきた。私はギクリとして固まる。

 食堂の写真に写っていた婦人がこっちに向かってくる。黒褐色のまとめ髪がほつれて青ざめた顔にかかっていた。白いワンピース姿のせいもあって幽霊みたいだった。ほっそりした腕には大きすぎる、黒い毛むくじゃらの生き物を抱えていた。

「見てください、これを!」

 私は日記の主の視点で女性が差し出したものを覗き込む。今までに見たことのない生き物だった。大きさは中型犬ほどで、三角に尖った耳や長い尻尾があって猫に似ている。でも、顎は丸くて、人間の子供を思わせる顔をしていた。

「この子が魔薬を作ったのです! 自分で試して――失敗して――こんなおぞましい姿に」

「変身の魔薬か!」

 渋い声が私の中から出てくるように響いた。感嘆する気持ちが混じっている。

「生物の姿かたちを変化させるのは、熟練した魔薬師が処方箋どおりに調薬しても難しいというのに」

「感心している場合ではありません! 解除薬がないのです。しかも、本人にもどうやって作ったのか、今となっては分からないと」

「時間が経てば元に戻るはずなんだ」

 子供が初めて言葉を発した。すねているような口ぶりで、生意気そうな性格が伺える。

「猫になろうとしたんだけど、失敗しちゃった。でも、一日で戻るはずなんだよ」

「なぜ、猫になろうとした?」

「ヘーゼルと遊ぼうと思ったんだ」

 それが子供の飼い猫の名前だとすぐに理解した。日記の主が知っている情報は、説明がなくても分かるのだ。

「馬鹿な子!」

 女性がすすり泣いた。パッと手を離した瞬間、子供は地面に転がり落ちたが、見事なとんぼ返りを打って着地する。

 私は女性に歩み寄って、か細い背中を撫でた。

「落ち着きなさい。処方箋も分からないまま行動するのは危険だ。一晩、待ってみよう。この子の言うとおり、自然と元に戻れるかもしれない」

 気休めの言葉。日記の主の不安が私の中に流れ込んできて、手にとるように感じ取れる。不吉な予感に胸がざわめく。この子供はひょっとして――

 映像が途切れた。私はためわらずに次の項をめくっていた。


十五

 私の前に、正確には日記の主の前に、巨大な猫のような生き物がうずくまっていた。翌日になっても、子供の身体は元に戻らなかったんだ。

「よく考えて、思い出してごらん。どの材料をどれだけ入れたのか。茜林檎、ササの結晶、巴旦杏――これだけで変身の魔薬は出来上がらない。他にも加えた成分があるだろう?」

「それ以外には覚えてないんだ」

 生意気さがなりをひそめ、子供は心細そうだった。日記の主は深い溜息をついた。

「……それでは仕方がないな。父様と一つずつ試して、元に戻れる薬を作ろう。変身の魔薬は複雑で危険だ。長い時間がかかるだろうが、覚悟しなさい」

 子供は黒い頭を垂れた。その日の記録はこれで終わりだった。

 現実に戻った私は、埃まみれの床に座り込んで荒い息をしていた。あの子はすぐに戻れるはずよ、と自分に言い聞かせた。そうじゃなかったら、博士はここに居ないもの。私は安心したいがために、「ようやく解除薬が完成し、人間の姿に戻ることができた」の記述を探して頁を繰った。

 でも、事はうまく運ばなかった。私は知らなかったけれど、変身の魔薬は相当入り組んでいるらしい。そんな薬を七歳で作れてしまうなんて、博士はやっぱり天才だ。でも――返って、それが不幸だったんだわ。

 博士の四つ足を人間の手足に戻し、次に尻尾を失くすことができると、後ろ足だけは元に戻ってしまう。お母様はかんしゃくを起こして、ヘーゼルを捨ててしまった。お父様は、猫の顔のまま泣きじゃくる子供をなだめる。私も一緒に泣きたくなった。

 博士は学校へ行けなくなったばかりか、外出もできなかった。ほとんど監禁状態で、庭へも出してもらえなかった。背の高い植木がたくさん植えられ、魔法によって森のように生い茂ると、庭へ出るお許しが出た。

 日記の主は――博士のお父様は、息子の不憫さに胸を痛めていた。痛いほどの悲しみや辛さが伝わってくる。

「私の力では、あの子を戻してやれない。エーメリー博士やキャンベル博士に相談しようと思う」

 薄暗い部屋の中、ランプの明かりに女性の姿が浮かび上がっている。美しい顔はすっかりやつれていた。でも、夫の言葉を聞いた途端、目に爛々とした輝きがともる。

「いけません! あんな年端もいかない子供が魔薬を作ったなんて、きっと誰も信じやしません。あなたが自分の子供を実験体にしたと、世間はそう思いますわ」

「考えすぎだよ。博士たちは私の友人だし、あの子の気性も才能も知っているし――」

「いいえ、いいえ! 駄目です、こんな醜聞を漏らしては。あなたの名前に傷がつきます! 私には分かります」

 血の気の失せた頬に涙がこぼれる。博士の身を大事に思う私にさえ、彼女が正気を失ってしまうんじゃないか、と不安になってくる。

「分かった。誰にも言わないとも。だから、落ち着きたまえ」

 女性は何度も念を押し、ようやく安堵して静かになった。

 おかしい。博士が元に戻らないはずがないのに。私は耐えられなくなって、終わりに近い頁を開いた。

 少年は成長していた。身体は人間に戻っていて、すらりと伸びた背丈は今の博士とほとんど変わらない。

 でも、顔は黒い毛で覆われて、いまだに猫の仮装をしたような状態だった。私は愕然とした。十年は経過しているはず。その間、博士はずっとお屋敷の中で……?

「さあ、お飲み。今回の薬は自信作だ」

 私が知っている博士も活動的じゃないけれど、こんな死人のような表情はしていない。期待もなく、失望もないといった様子で、濃紫色の液体を飲み干した。

 博士の顔に変化が出てきた。毛が薄くなって消えてゆき、滑らかな肌があらわれる。ひげもなくなった。白目が見えるようになり、瞳孔は閉じて、人間らしい目になる。長いまつ毛が縁取りをし、優美な形の眉毛ができる。

 けれども、博士の態度は冷めていた。

「前回と同じで、時間が経てば元通りになるかもしれない」

「そうだな。経過を見よう」

 抑え目に頷いた。でも、今回はうまくいく自信がある。貴重な鱗木の樹皮を使ったのだから。

 日記の主が、突然、激しく咳き込んだ。止まらない。私まで呼吸が苦しい。胸を押さえて床に膝をつくと、博士が青ざめて駆け寄ってくる。心配そうに覗き込まれた瞬間、博士の顔の横にあった耳が消えて、頭の上に三角の耳が出現した。日記の主も私も絶望に呻く。

 その後の頁は空白だった。


十六

 私は考えるよりも早く、階段を駆け下りていた。行き先は庭だ。

 屋根のように折り重なった葉の厚さ、縦横無尽に伸びる枝の長さを調べる。この庭の植物達は冬にも活発で、生き生きと茂っていた。それは、魔薬の成せる技だったというわけだ。

 まずは、この魔薬の効果を打ち消して、成長する速度を正常にしなくちゃ。園芸用の簡単な魔薬がちょっと強力になっているだけ。たいして難しくない。終わったら、今の茂っている分を枯らす魔薬を使う。そうすれば、あの日記で一番最初に見た時の庭とずいぶん近づくはず。

 やることは単純明快だったけれど、かなり時間がかかった。一ヘクタール近くある庭が丸々だもの。大量の魔薬を調合しなくちゃならない。植木鉢一個分とはわけが違った。

 物置部屋から材料をごっそり持ち出して、半ば狂ったようになって魔薬を作り続けた。一回ごとの分量を完成させては庭へ撒いてくる。そのうち、自分の意識が離れて、身体が勝手に動いているような感覚さえしてきた。

 博士は博士で新薬の研究に没頭しているらしく、作業部屋から出てこなかった。好都合。だって、止められたくないもの。

 時間があっという間に過ぎていく。夕焼けが庭の木々を赤く染め、次には夜の闇に包み込む。円かな月が高くのぼり、ぼんやりした白い光を投げかける。

 ようやく終わった頃には月が沈みかけていた。私はおぼつかない足取りで階段を上がって、作業部屋の扉を開いた。でも、博士の姿はない。そうか、寝ているんだわ。

 後から考えると、私の行動は尋常じゃなかった。二階の扉を片っ端から開けて博士の寝室を突き止め、安らかに眠っている博士を乱暴に揺さぶって起こしたのだから。

 博士は怒らなかった。寝ぼけていて、そこまで思考がついていかなかったようだ。

 就寝中ともなれば、さすがに帽子は被っていなくて、ピンと尖った耳が見える。

「帰っていなかったのか? 一体、どうした――?」

「来てください!」

 博士の腕を引っ張り、寝巻き姿のままで庭へ連れ出した。

 朝日が昇る瞬間だった。生まれたばかりの光が、重い葉を落として格好よくなった木々や芝生に降り注ぐ。うっそうとした森はもはや影も形もない。

 博士は呆然として、変わり果てた庭を見ていた。驚きすぎて声も出ないみたい。

 私はやや正気に戻って、びくびくし始めた。やりすぎたかもしれない。魔薬の決まりごとを無視して突っ走ったから、元に戻せる自信はなかった。

 博士の肩が震えている。怒鳴られるかと思って身をすくめると、博士の口から堪えきれなくなった笑い声が弾けた。

「ものすごい形相だったから、何かと思えば――アトリー君、どうして突然、こんなことをやったんだ? しかも徹夜だろう?」

 日記のことは言わないほうがいい。とっさに判断して、言い訳をひねり出した。

「やり始めたら熱中しちゃって。私、加速しちゃうと止まらなくなるんです。ええと、どうでしょう?」

「さっぱりしたな」

 そう言う博士の表情も晴れ晴れしていた。気のせいかもしれないけど。

「私、そんなに変な顔でしたか?」

「うん。拒否したら殴られそうだった。まさに鬼気迫る表情だったな」

 思い出したら、おかしさがぶり返したようで、博士は噴き出した。そのまま笑い続ける。

 意外と笑い上戸なのかもしれない。腹が立ったけれど、滅多に見られない博士の笑顔だ。ホッと息をついたとき、足から力が抜けた。よろめいた瞬間、博士がすばやく抱きとめてくれる。

「ご……ごめんなさい」

「寝ていないからだろう。客間で休むといい」

 まだ唇の端に笑みを浮かべながら、博士が言った。

 ところが、その後に立て続けてクシャミ。普段、室内に籠もっている博士は肌が白いけれど、今は頬がほんのり赤く色づいている。

「薄着のまま連れ出しちゃったから――ごめんなさい。大丈夫ですか?」

「平気だ」

 博士はそう言ったものの、ちょっと熱っぽい目をして額に手を当てた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ