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第1章

 二ヵ月後にはフィリップス魔薬学校を卒業するのに、百社受けても不採用だなんて……アンジェリン・アトリーは本当にバカ娘だ。救いようがない。自分で自分が嫌になる。

 強い風が頬に当たった。苦労して真っ直ぐにした金色の髪は、おかげでめちゃくちゃだ。手ぐしで整える気力さえ起きない。もう好き勝手にして、という気持ち。

 こぼれ落ちそうになる涙を飲み込んで、小走りに急いだ。新調したばかりのスカートが足にまとわりつく。

 行きかう人々の頭の向こうに、ようやく喫茶店の看板が見えた。筆記体で「エドワーズ・カフェ」と記されている。

 扉を開けると、吊り下げられた鐘が耳になじんだ音を奏でた。室内に満ちる暖かい空気、お茶の香り、賑やかな喋り声――そういったものに一気に包まれて、私はホッと息をついた。

「いらっしゃいませー」

 明るい声と共に、看板娘のクレアさんが迎えてくれる。ふっくらした顔に優しげな笑顔がお日様のようにまぶしい。

「本日もご来店ありがとうございます、アンジェリンさん」

「だいぶ混んでいるんですね」

 私は首を伸ばして店内をうかがって言った。

 薄いグリーンの壁を背景に、真っ白のクロスがかかったテーブルがいくつも並ぶ。どの席にも人がいて、目の前の皿が空になっていても立ち上がる気配が微塵もない。

「店内は満席なんです。でも、庭園のお席でしたら、すぐご案内できますよ」

 ちょっとためらった。今日は風が強いうえ、まだ少し肌寒い。サテンのブラウスに丈の短い上着を選んだのは失敗だったな。

「ここの席が空くまで、かなり待ちますか?」

「お客様次第ですから」

 クレアさんが困ったように肩をすくめると、濃紺のワンピースのパフスリーブも揺れた。

 この店の制服は、貴婦人付きのメイドのお仕着せのようなデザインだけど、もっとフワフワしていて可愛い。

 濃紺のワンピースのスカートはふくらみ、組み合わせる白いエプロンは襞飾りやレースをふんだんに使っている。カチューシャも真っ白なフリル付き。

 私は室内の席が空くまで庭園にいることにし、室内のガラス扉を抜けて外へ出た。

 日差しは暖かいけれど、いたずらな風が吹き荒れているために園内は人気がなかった。あちこちに設置された木製テーブルは空席ばかり。

 手入れの行き届いた庭には、色とりどりのチューリップやアイリス、パンジー、ヒースが咲いていた。薔薇の蔓を絡めたアーチや、黄金色の花をつけたエニシダの茂み、それにリスやウサギの形に刈り込んだ灌木もある。

 案内されたテーブルには、一輪のラッパズイセンが生けられた花瓶が置かれていた。

「今日はどうなさいますか? そうそう、今週から苺を使ったケーキも始まったんですよ」

 クレアさんから魔法の仕込まれたメニューを受け取る。

 ケーキの名前を指でなぞると、実物のまぼろしが目の前にあらわれる。二段のショートケーキ、タルトやパイ、苺が飾られたパブロヴァ、トライフルが誘惑するように飛び交った。

「どれも美味しそう。迷っちゃうなあ」

「タルトが一番人気ですね。私も味見しましたけれど、美味しかったですよ」

「じゃあ、それにします。紅茶はダージリンで」

「はい。ご注文承りました」

 クレアさんが立ち去って一人きりになると、遠ざかっていた悲しみがよみがえった。目頭がじんわり熱くなる。

 その時だった。リスの形の茂みの後ろの席に人影が見えたのは。

 鳥打帽を被った若い男性だった。黒いコートを羽織った肩はほっそりして、長く伸ばした黒褐色の髪を結んで垂らしている。

 急いで目をこすって、かすかに浮かんだ涙をふき取った。

 ケーキ類が売りのエドワーズ・カフェに、男性の一人客はめずらしい。女性のように繊細な顔立ちの青年だった。でも、表情は険しく、眉間にしわを寄せてチーズケーキを口に運んでいる。

 何だか、知っている人のような気がする。どこで会ったのか、全然思い出せないけど。

 ふいに強い風が吹いた。自分の真新しい金貨のような色の髪を押さえた瞬間、青年の鳥打帽がずれた。

 獣の耳みたいなものが頭の上にくっついていた。盛り上がった髪の毛かと思ったけれど、黒い柔毛に覆われてピンと尖っている。

 青年はあわてて帽子を直したので、見えたのはほんの一瞬のこと。

 切れ長の目を不安げにすがめて周囲を見回す。私の視線には気づかない様子だったけれど、青年は落ち着かずに皿の中身を残したまま立ち上がった。右手で鳥打帽をしっかり押さえて、エドワーズ・カフェの店内へと入っていく。

 私は化かされたような気分で、すらりとした姿を見送った。

 ……いったい、何だったのだろう? あの耳は。

 不思議でたまらなかったけれど、クレアさんの呼び声に気づくと、意識はたちまちそれた。

「店内のお席が空きました。本当にひどい風ですね……移動なさるでしょう?」

 クレアさんは、はためくスカートの裾を手で押さえていた。私はうなずいて立ち上がった。


 実技の授業中だというのに、私は気もそぞろだった。

 アルコールランプで熱しているガラス容器の中の液体に集中しなければいけない。でも、気づけば、担任のシーウェル先生の姿を追いかけている。

 今回の会社にも落ちたことをまだ連絡していない。優しい先生のこと、絶対に私を叱ることはないだろうと分かっていても、気後れがしてしまう。何たって、百社目なんだもの。

 シーウェル先生は、地味なツイードの背広を脱ぎ、ワイシャツの上から白衣を羽織っていた。灰色の髪を几帳面に後ろに撫でつけ、眼鏡の奥の穏やかな瞳も髪と同じ色合い。三十路を迎えたばかりだというのに、達観した老人のような雰囲気がある。

八つの作業台の間をゆっくり歩き、それぞれの班の進み具合を確認して回っている。

 教室には気の抜けた雰囲気が満ちていた。このクラスは、私以外の全員が就職先を得ていて、もはや試験もなく、単位を得るために出席しているだけだから。

 私は、ぼんやりしながら、火蜥蜴の糞の粉を一匙すくった。沸騰した液の中に入れた瞬間、金臭さが鼻をつく。

 今、作っているのは明かりの魔薬だ。粉状の薬を振りかけた対象物が、一定の時間、発光を続けるというもの。

 火蜥蜴の糞はふとした弾みで着火する恐れがある。よくよく注意する必要があるのに、意識がどうしてもそれてしまう。

 一通りの工程を追え、私はできあがった魔薬をペンに振りかけて効果を試そうとした。班長のジャネットがあわてて待ったをかける。

「駄目じゃない! 解除薬をまだ作ってないわよ」

 目を見開き、いつもの落ち着き払った表情が崩れている。

「あ……そっか」

「もう。しっかりしてよね」

 魔術をかける薬と、その効果を打ち消す薬。二つが対になったものを魔薬と呼ぶ。どんなに素晴らしい魔術をかけることができたとしても、解除薬がなければ不良品というのが、魔薬の決まりごと。

 今回作っているような、時間が経てば効果が切れる薬にしても、その決まりが当てはまる。

 自由度が高い魔術師に比べると、魔薬師には色々と制約が多くて、けっこう堅苦しい。大雑把な性格の私には、そもそも向いていないのかも……

「はい、皆さん、よく出来ました。今日はこれまで」

 授業が終わった。私は大急ぎで作業台の実験器具を片付ける。教科書やら筆記具やらを一まとめにして、シーウェル先生を追いかけた。廊下を歩くシーウェル先生の足取りはのんびりしていて、すぐに並ぶことができた。

「おや、アトリーさん、どうしましたか? 今の授業で分からない箇所でも?」

「いえ、違うんです……この前の会社から返事が来たんですけど……落ちました」

 まったく惨め。私はしょんぼりとうな垂れた。シーウェル先生は悲しそうに眉をひそめたものの、すぐに優しげに微笑んだ。

「そう落ち込まないで。次がありますよ」

「もう百社も断られているんですよ。……まだ受けられるところ、ありますか?」

「もちろんですよ。ちょっと遠い場所になるかもしれませんが――探しておきますね」

 本当に聖人みたい。就職科の教員ですら、さじを投げた私だというのに。

「ところで、食事はちゃんと摂っていますか?」

「はい? ええ、それはもう」

「そうですか、安心しました。私は心配事があると、食べ物が喉を通らなくなるのですよ。体力が落ちては元も子もないと分かっているのでですが、どうしても駄目でしてね……その点、アトリーさんは優れていますね。大丈夫、きっと上手くいきます」

 昨日、エドワーズ・カフェで木苺のタルトを食べたことが、何だか後ろ暗くなってくる……。不安で胸が苦しくても、私の食欲は決して衰えないんだもの。

 突然、シーウェル先生が片手をあげて大きく振った。「おーい」と誰かを呼んでいる。

 眼鏡の視線の先をたどると、コート姿のすらりとした青年がいた。昨日、エドワーズ・カフェにいた彼とそっくり。同一人物じゃなければ、ドッペルゲンガーだ。

 シーウェル先生の嬉しげな表情とは対照的に、青年は顔をしかめていた。

 やはり鳥打帽を被っていて、春物の黒いコートに黒のズボン、さらに一つに結んだ長髪が黒褐色で、どこもかしこも黒ずくめ。腕の中に古びた本を数冊抱えて、しぶしぶといった様子でやって来た。

「半年振りでしょうかねえ。今日も調べ物ですか?」

「ここの図書館は、へたな本屋よりも品揃えが充実していますから」

 青年は、シーウェル先生の問いかけに答えながら、私をチラリと見た。でも、特別な反応はなかった。

「司書のターナーさんがよく噂していますよ。けれども、私自身は君をとんと見かけないものだから、ユニコーンかドラゴンの噂話でも聞いている気になります」

「僕をけったいなものと一緒にしないでほしいですね」

「では、図書館を訪れるついでに職員室にも立ち寄ってください。そうすれば、私もちゃんと、君が人間だったと思い出せます」

 シーウェル先生は目を細め、とても楽しそうにからかっている。お気に入りなんだな。でも、青年は憮然とした表情で、とことん愛想がない。

「アトリーさん、彼はキッドマンです。見覚えがあるでしょう?」

 私は仰天してシーウェル先生を見た。どうして知っているのだろう、と思ったけれど、疑問はすぐに氷解した。

「渡り廊下に、首席卒業生の顔写真が展示してあるでしょう。その中にキッドマン君の写真もあるのですよ。三年前の写真だから、たいして変わっていませんね」

 なるほど。だから、昨日も見たことがあるような気がしたんだ。キッドマンさんは得意がるどころか、迷惑そうに肩をすくめた。私ならふんぞり返っちゃうけど。

「私が初めて担当した学級の生徒なのです。本当に優秀でした。授業中に間違いを指摘されて、何度も恥をかかされましたっけ」

 キッドマンさんは居心地悪そうにした。

「謝りますよ。僕もガキだったということで」

 昔の思い出話には、私はお邪魔に違いない。すぐに退散しよう。

 そう思って、別れの挨拶をする機会をうかがっていたんだけど、シーウェル先生の次の言葉にひきつけられた。

「君が開発した魔薬、ほら、あの――商品名を度忘れしてしまいましたね――動物の鳴き声をそっくりに真似られるという薬です。私も甥に贈りましたよ。とても喜んでいました」

 私は賞賛の眼差しでもってキッドマンさんを見た。

 大抵の魔薬師が、製薬会社や薬局に勤めて、処方箋の定められた薬の調合を行う仕事をする。新薬を開発するのは、ほんの一握りの人たちだ。

 こんな凄い人が先輩の中にいたんだ。落ちこぼれの私には、魔薬の開発なんて夢のまた夢だけれど……

 私の視線に気づいたのか、キッドマンさんは顔をそむけ、もごもごと「ありがとうございます」と礼を言った。

「一人で研究所を切り盛りするのでは忙しいでしょう。今はどんな薬に取り掛かっているのですか?」

「次のも娯楽用です。動物と話せたら面白いだろう、と思いつきまして、ぼちぼち進めています」

「おや、甥にうってつけの商品のようですね。それも発売したら買いますよ」

 シーウェル先生はニコニコしている。私は興奮のあまり、つい二人の会話に割り込んでしまった。

「すごいわ。あの耳も、新しいお薬の効果なんですか?」

 キッドマンさんがハッとして私をまっすぐ見た。

「ミミ?」

 シーウェル先生が不思議そうに聞き返した。キッドマンさんが険しい眼差しで睨みつけてくる。黙れ、と言わんばかりだった。よく分からないけど……口にしちゃいけないことだったみたい。

 気まずい沈黙に包まれた時、事務員さんの大声が聞こえた。印刷室から身体を半分出して、シーウェル先生を呼んでいる。

「はいはい、すぐに行きます。――キッドマン君、残念ですが、今日はこれで。またゆっくりお話しましょう」

 シーウェル先生が去ってしまい、キッドマンさんと取り残される。ほっそりした身体を怒気が取り巻いているように見えて……怖い。

「あの、えっと、失礼します」

「待て。君は見たのか、それとも誰かに聞いたのか? 説明しろ」

 何とも高圧的な態度だった。私は首をすくめて、昨日、エドワーズ・カフェにいたことを告げた。

 キッドマンさんに噛み付くような口調で言い渡される。

「決して口外するんじゃないぞ。いいな」

「ごめんなさい。秘密だとは思わなかったんです……」

 昨日の慌てっぷりを考えれば、すぐに分かりそうなものだった。自分の軽はずみさに、ほとほと嫌気がさす。

 キッドマンさんは気持ちを落ち着かせるように呼吸を整えた。

「君の言ったとおり、開発中の魔薬の効果だ。極秘の計画でね。誰にも知られたくない。分かるだろうね?」

 私がこくんと首を縦に振ると、「よろしい。で、君の名前は?」と尋ねられた。つい先程、シーウェル先生に紹介されましたけれども……

「アンジェリン・アトリーです」

 キッドマンさんは苛立たしそうに靴を踏み鳴らした。警戒するような眼差しを私に寄こすと、校門へ向かって足早に歩き出した。


 それから二日後のこと。

 南校舎へ続く廊下を歩いていると、シーウェル先生が走ってきた。白衣が風をはらんで後ろになびく。目指しているのは私のようだ。常時おっとりゆったりのシーウェル先生のこと、生徒や教師までもが訝しげに振り返る。

「どうしたんですか?」

 シーウェル先生は息を切らせて喘いだ。でも、顔は微笑んでいる。

「キッドマン君から……連絡があって……助手を雇いたいそうです。ぜひアトリーさんをと……」

「ええっ?」

 素っ頓狂な声を上げてしまった。あまりにも意外だったから。

「本当ですか? キッドマンさんは、私の成績が最低のものだってこと、ご存知なんですか?」

「成績表は、本人の許可なしに開示することはできないのです」

 シーウェル先生は一呼吸して、ずれた眼鏡の位置を直した。

「それに、キッドマン君んは、学校の評価については気にしない、と言っていました」

 心臓がどきどきと高鳴った。シーウェル先生は晴れやかな表情で、広い額に浮かんだ汗をぬぐった。

「たいへん気に入られたようですね。彼は人見知りなので、他人とは容易に打ち解けないのですが。だからこそ、アトリーさんをと望むからには、多少のことでは考えを変えないはずですよ」

 胸が詰まって言葉が出なかった。泣いてしまいそうで唇をきつく噛む。

 シーウェル先生が給料や休日の条件を教えてくれたけれども、その間、ずっと俯いていた。黙りっぱなしだったせいで、シーウェル先生は私の気持ちを誤解したらしかった。

「おや……私は、先走りすぎてしまったようですね」

 残念そうな声を出しながらも、首を横に振った。

「まあ、彼は気難しい性格です。アトリーさんが嫌ならば、もちろん断ってしまいましょう。連絡は私がしますから」

「違うんです。嬉しくて……だって、ずっと駄目だったから……」

 口を開いた瞬間、涙がこぼれて止まらなくなった。シーウェル先生はホッと息をついて、励ましの言葉をかけてくれた。

「泣いている暇はないのですよ。君自身がキッドマン君の研究所へ行って、契約を結ぶ必要があります。授業はいいから、行ってらっしゃい」

「はい!」

 私は元気よく返事をして、鞄を取りに教室へ向かった。

 

 薔薇が丘といえば、高級住宅地として名が知られている。私は、豪奢な門の並ぶ閑静な通りを進んで、『キッドマン』の表札が掲げられた鉄門の前へたどり着いていた。

 年若い魔薬師の研究所だから、アパートメントの一角か、はたまた町外れの倉庫か、と想像していたんだけど……大はずれ。広大な敷地に建つお屋敷だった。

 でも、見るからに荒れ果てていた。門の鉄には赤い錆が浮き、煉瓦を積み上げた塀には庭から伸び出した蔓が絡んでいた。ブナの巨木の向こうに、幽霊が住み着く寸前、といった様子の古い邸宅が垣間見える。

 煉瓦の塔にくっついた水晶玉のような物が光った。苛立ちを含んだキッドマンさんの声が響く。

「入りたまえ!」

 大きなきしみ音を立てて、鉄門が開いた。私は不安と期待がない交ぜになった気持ちで、足を踏み込んだ。

 外から見るよりも酷い有様だった。全然、手入れをしていないと見える。植木は野生に返って好き勝手に枝を伸ばし、うっそうとした森を形成していた。

 特に、ヒイラギの灌木やハリエニシダ、薔薇などの植物が幅を利かせていた。尖った葉っぱや棘に服をひっかけないように、用心して進まなくちゃいけなかった。

 獣道同然の小径を抜けて、緑の中に埋もれている玄関へ行き着いた。ノッカーを叩くけれども返事がない。自分で扉を開けると、耳を塞ぎたくなるような音がした。蝶番がだめになっている。中ドアには、色付きガラスが花の模様にはめこまれていた。

 室内は埃っぽく、私は思わず口元を押さえた。広間と呼んでもいいくらいの空間で、奥には優美な曲線を描く欄干つきの階段がある。大きな天窓から光が差し込み、空中に踊る埃がよく見えた。

 誰の姿もなく、しいんと静まり返っていた。荒廃しているとはいえ立派なお屋敷だから、使用人が出てくるかとも思ったけれど、そんな気配はない。

 自分の鼓動だけを聞きながら、色あせた絨毯を踏んだ。壁に並ぶ扉はどれもしっかり閉じられていた。

 突然、耳障りな音ともに一つが開いた。その部屋の中を覗くと、キッドマンさんがいた。一人掛けのソファに身を投げ出して座っている。

 応接室のようで、クッションの並んだソファやオーク材の低いテーブルがある。絵皿を並べるための美しいキャビネットもあったけれど、中は空っぽだった。この部屋も、庭や玄関ホール同様、荒廃した雰囲気だった。

 キッドマンさんは私に気づくと、眉間にしわを寄せて、「入って来い」と手振りで示した。

 かなり機嫌が悪そうで、心配のあまりに吐き気がしてくる。キッドマンさんは、すぐに出かける予定があるらしく、鳥打帽を被っていた。

「遅かったな。一応、書類を見せてもらおうか」

 私は震えながら鞄を開いて、履歴書と成績証明書を取り出した。

 成績のことは気にしないと言ったそうだけど、この無残な内容を見たら、考えを変えるかもしれない……

 緊張で頭に血がのぼり、目の前がちかちかした。キッドマンさんはすばやく目を通した。ほとんど開いて閉じただけだ。それだけでも私の成績の悲惨さは分かるはずだけど。キッドマンさんはかすかな溜息をついた。

「予想していた通りだ」

「わ、私を助手にしてくださったら、精一杯お勤めします。不出来なところは、これから改善していきますから……」

「魔力を持っているんだな。備考欄に書き添えてあるが、どの程度だ?」

 魔薬と魔術は似て非なるもの。ちゃんと処方箋があって、作業に正確さを求められる魔薬と比べると、魔術は自由で大雑把。

 魔術師の優秀さは、本人の生まれ持った才能によって決定付けられてしまう。それが、勤勉家が多い魔薬師にとっては我慢ならないことらしく、魔力さえ毛嫌いする人達もいる。キッドマンさんも、そういうお一人なのだろうか……

「魔力はありますけど、ほんのちょっぴりです。特に何にもできないんです。軽い物を持ち上げるとか、引き寄せる程度だけです、私にできるのは。魔力検査では最下の十三級でした」

 駄目と言われるかもしれない。そう思うと、胃がキュッと縮んだ。キッドマンさんは顔をしかめ、険しい表情で書類を作業台に置いた。

「まあ、いい。どうせ、君以外では意味がないんだから。――契約書に署名を」

 初めて必要とされて、頭がぽうっとなる。

 しかも、この人は調合するだけの魔薬師じゃなくて、新薬を開発している優秀な魔薬師。私のような落ちこぼれに、あまりにも分不相応な幸運という気がする。

 夢見心地のまま、渡された羽ペンを動かして名前を書いた。キッドマンさんは署名をなぞって確認すると、そそくさと書類をしまいこんだ。

「では、さようなら、アトリー君」

 キッドマンさんの声音がぎこちないことなんて、その時には気にもならなかった。


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