「君といると、息が詰まる」と婚約破棄されたので実家に帰ったら、「なぜ、もっと早く帰ってこなかった!?」と泣かれました
「ただいま……戻りました」
三年ぶりに帰った実家の玄関で、私は頭を下げた。
「婚約を破棄されました。ですので、その……しばらく、こちらに置いていただけないでしょうか」
出迎えたメイドが、目を見開いた。
「た、大変です!」
「え?」
「クラリスお嬢様がお戻りになりましたわぁぁぁぁぁ!」
叫ぶなり、メイドは屋敷の奥へ駆けていった。
「あの……」
待ってください、と言う暇もなかった。
玄関には、また私ひとり。
情けなかった。
二十歳にもなって、嫁ぐはずだった家から追い出されて、そのうえ実家に泣きつくなんて。
父は怒るだろう。
母は悲しむだろう。
兄には呆れられるかもしれない。
いっそ、このまま逃げてしまおうか。
そう思ったときだった。
「クラリス!」
母が、ものすごい勢いで階段を駆け降りてくる。
「お、お母様?」
そのまま抱きしめられた。
「おかえりなさい……! よかった、本当によかった……!」
母が泣いている。
どういうことだろう。
私、婚約破棄されたんですけど。
「クラリス!」
今度は廊下の奥から、兄が駆けてきた。
「お兄様」
兄が私の肩を、ぎゅっと掴んだ。
「痛いです」
「遅えよ、馬鹿!」
「ええ!?」
「三年だぞ! 三年!」
兄の目から、涙が落ちた。
「なぜ、もっと早く帰ってこなかった……!」
私は呆然とした。
婚約を破棄されて帰ってきたのに。
どうしてみんな、こんなに嬉しそうなのだろう。
そして。
いつの間にか、父も玄関の柱のそばに立っていた。
「……お父様」
父は何も言わなかった。
私を見て、一度だけ小さく頷く。
それから背を向けて、奥へ行ってしまった。
やっぱり。
父だけは怒っている。
この縁談を持ってきたのは、父だったのだから。
「お帰りなさいませ、クラリスお嬢様」
背後から声がした。
振り返る。
玄関ホールに、使用人たちが並んでいた。
メイド長のマーサ。
料理長。
メイドたち。
三年の間に増えた、知らない顔も少しある。
けれど。
知っている顔は、みんな笑っていた。
「……皆さん」
マーサが目元をハンカチで押さえている。
「お帰りなさいませ」
「どうして……」
「はい?」
「どうして、皆さんまで……」
泣いているのだろう。
私は婚約を破棄された。
侯爵夫人になるはずだったのに、なれなかった。
なのに。
「それは……お嬢様がお帰りになったからでございます」
それだけだった。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
もう一度、そう言われた。
私も、涙が止まらなかった。
◆
私が侯爵家へ嫁ぐと決まったのは、十七歳のときだった。
家同士の縁談だったが、私は嬉しかった。
美しくて、優秀で、社交界でも評判の人だった。
だから、良い妻になろうと努力した。
彼の好きな料理を覚えた。
彼の嫌いな香水をやめた。
苦手だった舞踏も練習した。
彼が忙しいときは、邪魔にならないよう黙って待った。
待つのは、得意になった。
三年で、ずいぶん上手くなった。
それから。
あの家では、だんだん私の名前が消えていった。
最初は、
「クラリス嬢」
だった。
やがて、
「お嬢様」
になった。
そのうち、
「奥様になられる方」
になった。
三年目には、誰も私を呼ばなくなった。
用があるときだけ、誰かがそばに来る。
用が済めば、いなくなる。
朝起きて。
言われた通りに支度をして。
言われた場所に座って。
言われるまで、動かない。
そういう三年間だった。
そして昨日。
「君といると、息が詰まる」
婚約者はそう言った。
隣には、美しい伯爵令嬢がいた。
「彼女と結婚したい。婚約を解消してくれ」
私は笑って、
「承知いたしました」
と答えた。
三年間で一番、上手に笑えたと思う。
泣いたのは、馬車に乗ってからだった。
◆
「……申し訳ありません」
夕食の席で、私はもう一度頭を下げた。
「何がだ」
父が尋ねる。
今日初めて聞いた、父の声だった。
「せっかくの縁談を、駄目にしてしまいました」
父は黙った。
やっぱり怒っている。
「お父様が持ってきてくださったお話なのに――」
「クラリス」
「はい」
「あれは、私が望んだ縁談ではない」
「……え?」
「先方から打診があった。だからお前に伝えた。それだけだ」
私は目を瞬いた。
「でも、お父様は……」
「断るつもりだった」
「ええ!?」
「俺も反対だった」
兄が肉を切りながら言った。
「お兄様まで?」
「俺だけじゃない」
母を見る。
「私もよ」
「ええ!?」
全員ではないか。
「だったら、どうして!」
「お前が嬉しそうだったからだよ!」
兄が叫んだ。
「『私、この方の奥様になりたいです』って笑ってただろうが!」
覚えている。
十七歳の私だ。
「だから父上も断れなくなったんだよ!」
「余計なことを言うな」
「事実だろ!」
父の顔が赤い。
「でも……侯爵家ですよ?」
「それがどうした」
父は眉を寄せた。
「娘が嫌がる縁談なら、侯爵だろうが公爵だろうが断る」
あまりにも当たり前のように言われて、何も返せなかった。
母が私の手を握った。
「あなたの人生だもの」
そして、私の手を撫でる。
「あなたが幸せなら、それでよかったの」
「……お嬢様」
料理長が、銀の皿を持ってやってきた。
「お食事の途中ではございますが」
テーブルに置かれたものを見て、私は目を丸くした。
「……林檎のパイ」
「はい」
「覚えていたの?」
「もちろんでございます」
料理長は少しだけ笑った。
「お嬢様がお帰りになる日は、必ず焼こうと決めておりました」
「……いつから?」
「三年前からでございます」
駄目だった。
また涙が出た。
「おい」
兄が呆れる。
「泣きながら食うなよ」
「誰のせいですか!」
「知らねえよ!」
母が笑った。
兄も笑った。
料理長も笑っていた。
父だけが、笑わなかった。
黙ってパイを一口食べて。
「……先に休む」
そう言って、席を立った。
私は俯いた。
それから、パイをもう一口食べた。
やっぱり甘かった。
三年前と、同じ味がした。
◆
食事のあと。
私は自分の部屋へ向かった。
三年間、誰も使っていない。
きっと埃だらけだろう。
そう思って扉を開けた。
「……え?」
何も変わっていなかった。
白いカーテン。
窓辺の机。
読みかけの本。
少し小さなベッド。
花瓶には、新しい花まで飾られている。
「マーサ」
「はい」
「どうして、そのままなの?」
マーサが首を傾げる。
「そのまま、と申しますと?」
「私はもう、嫁ぐものだと思っていたでしょう?」
「はい」
「だったら、この部屋は――」
「いつお戻りになってもよろしいように、整えております」
私は花瓶を見た。
新しい花。
水も、透き通っている。
「……毎日?」
「もちろんでございます」
言葉が出なかった。
母が、後ろから言った。
「帰ってきちゃいけないなんて、誰が言ったの?」
「でも……」
「結婚しても、子供ができても、おばあちゃんになっても」
母が笑う。
「ここはあなたの家よ」
私はずっと、勘違いしていた。
家を出るということは。
この家の娘ではなくなることなのだと。
でも。
私の部屋は、まだここにあった。
◆
翌朝。
朝食に、蜂蜜入りのパンが出た。
「……これ」
「好きだったでしょう?」
母が言う。
三年前まで、毎朝のように食べていたものだった。
食後。
庭を歩いていると、兄が馬を連れてきた。
「乗るか?」
「この子……まだいたの?」
「お前の馬だぞ」
十二歳の誕生日にもらった、栗毛の牝馬だった。
もう年老いていたけれど、私を見ると嬉しそうに鼻を鳴らした。
そっと鼻先を撫でる。
「この子も、ずっと?」
「そりゃいるだろ」
兄が、何を当たり前のことを、という顔をした。
「お前の馬なんだから」
◆
午後。
部屋へ戻ると、机の上に書類の束が置かれていた。
「……これ」
見覚えがあった。
三年前、私が作った灌漑計画だ。
村の水不足をどうにかしたくて、何度も地図に線を引いた。
けれど婚約が決まり、途中で放り出したもの。
これも、捨てられていなかった。
それどころか。
一枚目の余白に、見慣れた字で書き込みがあった。
『水路の幅、要検討』
父の字だった。
二枚目。
『北側は雨季に増水』
三枚目。
『村への確認が必要』
その次。
『橋との距離を再計算』
最後までめくった。
父の字は、何枚にも残っていた。
私が置いていった、未完成の紙の束。
父はずっと、読んでいた。
私は書類を胸に抱いた。
そして、もう一度、一枚目を開いた。
「……やってみよう」
三年前に、途中でやめたこと。
今度は。
最後まで。
◆
それから、私は村へ通うようになった。
朝、家を出れば、
「行ってらっしゃいませ、クラリスお嬢様」
帰れば、
「お帰りなさいませ、クラリスお嬢様」
最初は、そのたびに驚いた。
でも、いつの間にか。
「行ってきます」
「ただいま」
そう返すようになった。
測量をして、地図を引き直して、土を掘った。
ひと月もすると、水路の形が見えてきた。
忙しかった。
でも、楽しかった。
順調だと、思っていた。
◆
とある大雨の日。
引いたばかりの水路が溢れた。
畑がひとつ、駄目になった。
私は翌朝、村へ走った。
畑の前に、農夫が立っていた。
泥の中に、潰れた麦が沈んでいる。
「……申し訳ありません」
私は頭を下げた。
「私の設計が、間違っていました」
農夫は何も言わない。
「本当に、申し訳ありません」
顔を上げられなかった。
まただ。
私は、また失敗した。
迷惑をかけて。
謝ることしかできなくて。
ここにも、いられなくなる。
「クラリス様」
「……はい」
「顔、上げてください」
農夫が、泥だらけの手で頭を掻いていた。
「やり直しゃあいいでしょう」
「え?」
「麦は来年も生えます」
そして、私の背中を叩いた。
「明日、また来てくださいよ」
――明日、また来てくださいよ。
その言葉が、すぐには飲み込めなかった。
◆
その夜。
私は俯いたまま、屋敷の門をくぐった。
泥だらけの靴。
濡れた裾。
何より、顔を上げられなかった。
「クラリスお嬢様」
マーサだった。
「……ただいま、戻りました」
「お帰りなさいませ」
いつもと同じ声だった。
何も変わらない。
まるで、私が失敗したことなんて知らないみたいに。
「あの、マーサ」
「はい」
「今日、私……」
「お風呂が沸いております」
それだけだった。
食堂へ行くと、いつも通り、四人分の皿が並んでいた。
兄がパンを齧っている。
母がスープをよそう。
父が新聞を畳んだ。
「遅かったな」
「……はい」
「食え」
誰も、聞かなかった。
畑のことも。
水路のことも。
私は黙ってスープを飲んだ。
温かかった。
それだけで、涙が出そうになった。
食事の終わり際。
兄が、こともなげに言った。
「明日は?」
「……え?」
「村。行くのか」
私は顔を上げた。
兄は私を見ていない。
母も、父も、何も言わない。
ただ、全員が、私の返事を待っていた。
「……行きます」
「そうか」
兄はそれだけ言って、席を立った。
通りすがりに、私の頭を一度だけ叩く。
「痛いです」
「うるせえ」
父も立ち上がった。
そして、部屋を出ていく間際に、ぽつりと言った。
「……図面は、直せる」
扉が閉まった。
私は、スープの残りを全部飲んだ。
◆
次の日。
村へ行った。
その次の日も。
そのまた次の日も。
父の書き込みが残った計画書を、いつも持っていった。
その中の一行を、何度も読んだ。
『村への確認が必要』
三年前には分からなかった意味が、今なら分かる。
私は、聞いたつもりになっていただけだった。
「教えてください」
私は農夫に言った。
「何をです?」
「この村のことを……全部」
だから、聞いた。
どこで水が足りないのか。
雨の日、水はどこへ流れるのか。
どこなら農作業の邪魔にならないのか。
年寄りでも管理できるのか。
子供が落ちそうな場所はないか。
分からなければ、聞いた。
別の人にも聞いた。
何度でも聞いた。
そして全部、計画書に書いた。
ある日には、話しているうちに畑の畦へ腰を下ろしていた。
「クラリス様、そんなところに座ったら服が汚れますよ」
「洗えば落ちます」
「伯爵令嬢が言うことじゃありませんよ」
「では、伯爵令嬢はどこに座れば?」
「そりゃあ……椅子じゃないですかね」
私は周りを見回した。
畑。
水路。
泥。
「ありませんね」
「ありませんな」
二人で笑った。
そんな頃だった。
村へ向かう道で、後ろから馬の足音がした。
「乗れ」
兄だった。
「お兄様? お仕事は」
「今日は休みだ」
「昨日も休みだと言ってませんでしたか?」
「うるせえな」
兄は村まで来て、そのまま一日、泥をさらっていった。
帰り道、私は聞いた。
「どうして来てくださったんですか」
「見に来ただけだ」
「何をですか」
兄は前を向いたまま言った。
「お前が、ちゃんと笑ってるか」
私は何も言えなかった。
「笑ってたな」
それだけ言って、兄は馬を速めた。
次の日から、母が弁当を持たせるようになった。
三人分もあった。
「多いです」
「農夫の方と食べなさい」
母はそう言って、私の背中を押した。
そして半年後。
水路は完成した。
◆
「クラリスお姉ちゃん!」
後ろから声がした。
振り向く。
村の女の子が、小さな花を差し出していた。
泥だらけの手だった。
「ありがとう」
受け取る。
「あっ」
後ろにいたメイドが声を上げた。
「お嬢様、お召し物が」
白い袖に、小さな泥の跡がついていた。
女の子の顔が曇る。
「……ごめんなさい」
「どうして?」
「汚しちゃった」
私は袖を見た。
それから、もらった花を見た。
「洗えば落ちます」
「え?」
「でも」
花を胸元へ挿した。
「これは、洗ったら落ちてしまいますね」
女の子が笑った。
子供たちも笑った。
農夫たちも笑った。
「クラリス様!」
誰かが呼ぶ。
「はい!」
振り向く。
また、別の誰かが呼んだ。
「クラリス様!」
「はい!」
気づけば私は。
一日に何度も、名前を呼ばれるようになっていた。
◆
そんなある日。
父が一通の手紙を持ってきた。
「クラリス」
「はい?」
「王都からだ」
差出人は、王立内政院。
私の灌漑計画を見た、と書いてあった。
一年間、王都に行政を学びに来ないか、と。
行きたい。
読んだ瞬間、そう思った。
だから。
「断ります」
夕食の席で、私は言った。
父が眉を上げた。
「なぜだ」
「だって、王都ですよ?」
「そうだな」
「一年も家を離れるんですよ?」
「そうだな」
「私はもう二度と、この家を出ないと決めたんです」
沈黙。
父と母と兄が顔を見合わせた。
「馬鹿か、お前は」
兄が言った。
「なっ」
「こら」
母が嗜める。
「だって馬鹿だろ」
兄は私を見る。
「本当は……行きたいんだろ」
答えられなかった。
行きたい。
本当は。
ものすごく行きたい。
「でも……」
怖かった。
また外へ出るのが。
また失敗するのが。
また、帰ることになるのが。
「クラリス」
父が言った。
「はい」
「ここはお前の家だ」
「……はい」
「だから、いつでも帰ってこられる」
私は父を見た。
「失敗したら帰ってこい」
「もちろん……」
母が笑う。
「成功しても帰ってきてね」
兄がパンを齧りながら言う。
「つうか一年だろ。何を大げさに言ってんだ」
「お兄様!」
「部屋は残しとく」
「……え?」
「まあ」
兄はそっぽを向いた。
「残すも何も、ずっとお前の部屋だけどな」
胸の奥が熱くなった。
私はずっと、勘違いしていた。
帰ることは、失敗することだと思っていた。
家を出ることは、帰らない覚悟をすることだと思っていた。
違った。
帰れるから。
もう一度、出ていけるのだ。
◆
一か月後。
玄関の前に、王都行きの馬車が停まっていた。
一年前。
私はここへ帰ってきた。
今日。
私はここから出ていく。
父がいる。
母がいる。
兄もいる。
その後ろに、マーサと料理長、メイドたち。
一年前と同じ顔が並んでいた。
「……皆さんまで」
「当然でございます」
マーサが言った。
「大げさですよ。一年だけなのに」
「お帰りの際には、皆でお迎えいたしましたので」
マーサは微笑んだ。
「今度は、皆でお送りするのが筋かと」
ずるい。
泣きそうになる。
「クラリス様ー!」
遠くから声がした。
「……え?」
屋敷へ続く道を、何人もの人が歩いてくる。
農夫。
村のお年寄り。
そして。
「クラリスお姉ちゃーん!」
子供たちまで。
「どうして皆さんまで!?」
先頭の農夫が笑った。
「王都へ行くって聞いたんで」
「お仕事は!?」
「今日はちょっとくらい遅れても大丈夫です」
「駄目です!」
みんなが笑った。
あの女の子が走ってくる。
「お姉ちゃん!」
「はい」
「これ!」
小さな花束を差し出された。
「ありがとう」
「一年したら帰ってくる?」
私は答えようとして、一瞬だけ止まった。
一年前なら、嫌だった言葉だ。
でも。
「ええ」
私は笑った。
「帰ってきます」
「絶対?」
「絶対」
「じゃあ待ってる!」
母が抱きしめてくる。
「ちゃんと食べるのよ」
「分かっています」
マーサが私の襟を直した。
三年前。
侯爵家へ向かう朝にも、こうしてもらった。
「クラリスお嬢様」
「はい」
「お部屋は整えておきます」
「毎日は掃除しなくていいですよ」
「イヤです」
マーサが茶目っ気たっぷりに笑った。
「お嬢様のお部屋でございますから」
兄が私の鞄を馬車へ放り込む。
そして、耳元で言った。
「あの計画書……」
兄が顎で父を示した。
「王都に送ったの、父上だぞ」
「……え?」
「三年前、お前が置いてっただろ」
「はい」
「ずっと取ってた。たまに引っ張り出しては、ああでもない、こうでもないって書き込んでた」
あの字を思い出した。
『水路の幅、要検討』
『北側は雨季に増水』
『村への確認が必要』
「完成した分を王都へ送ったのも父上だ」
私は父を見た。
父は、明後日の方向を見ている。
「お父様」
「……何だ」
「王都へ送ってくださったんですか」
父は黙った。
しばらくして。
「良い計画だった」
それだけ言った。
胸が詰まった。
「どうして、教えてくださらなかったんですか」
「言う必要ないだろう」
「……ありがとうございます、お父様」
「分かったから早く乗れ。遅くなる」
「お父様!」
父は私に背を向けた。
あの日と、同じだった。
私は馬車へ乗った。
扉を閉める。
御者が手綱を握る。
馬車が動き出す、その直前。
「あっ、待ってください!」
私は扉を開けた。
全員がこちらを見る。
私は父の背中を見た。
「行ってきます!」
父が振り返った。
その顔が、歪んだ。
「……クラリス」
父は、私の名前を呼んだ。
「ああ。行ってこい」
父が泣いていた。
初めて見た。
母が笑って、その背中を撫でた。
兄が空を見上げた。
マーサが目元を拭う。
料理長が大きく手を振る。
村のみんなも手を振った。
「頑張ってこいよ、クラリス様!」
「お土産よろしく!」
「クラリスお姉ちゃん、またねー!」
そして。
使用人たちが、揃って頭を下げた。
「――行ってらっしゃいませ、クラリスお嬢様」
馬車が走り出す。
家が遠ざかっていく。
みんなが小さくなっていく。
それでも、もう怖くなかった。
だって私には。
帰る家が、ある。
お読みいただき、ありがとうございました!
少しでも「面白かった」「あったかい気持ちになった」と感じていただけましたら、
ブックマークやページ下部の【☆☆☆☆☆】から評価をいただけると、とても嬉しいです!
そして、もう一作読みたい方へ。
一途な想いや、切ないすれ違いがお好きな方へ。
『「絶対に戻るな」と一方的に婚約破棄されましたが、翌朝彼は殺されていました。せめて仇だけは取らせてください』
https://ncode.syosetu.com/n7389mu/
五年間の婚約を、一方的に破棄されたクリスティーナ。
荷物はすべてまとめられ、
寝室の鍵まで替えられ、
最後に彼から告げられたのは――
「何があっても、絶対に戻るな」
そして翌朝。
彼は、殺されていました。
なぜ彼は、そこまでして彼女を追い出したのか。
嫌われていたと思っていたすべての行動の意味が、
真相とともに反転していくお話です。
切ない恋のお話がお好きでしたら、こちらもどうぞ。




