第1話 世界は鏡らしい
観測の仕方で、世界は変わる。
そう言われたら、あなたは信じますか。
これは、ある学園の話です。
世界は物理でできている。
そう思っていた。
少なくとも、昨日までは。
「その顔、気に入らねぇんだよ」
朝の校門で、俺は胸ぐらを掴まれていた。
相手は長髪の不良。顔はやけに縦長で、目は三白眼。細身なのに圧だけが強い。
転校初日でこれか。
「どんな顔なら正解なんだ?」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
記憶が曖昧だからかもしれない。
俺はアニムスという名前らしい。それ以外は、ぼんやりしている。
「ムカつくんだよ、その余裕」
拳が振り上がる。
その瞬間、首筋がかゆくなった。
無意識に腕を払う。
――ゴン。
「ぐえっ!?」
鈍い音とともに、不良が崩れ落ちた。
俺は自分の手を見る。
「……偶然だよな?」
周囲がざわつく。
「当たったぞ今」
「反応早くない?」
「転校生やばくね?」
いや、本当にかゆかっただけなんだが。
不良は顔を押さえながら立ち上がる。
「今日はツイてねぇ……」
吐き捨てるように言って去っていった。
俺はため息をつく。
転校先、ヘルメリオン学園。
日本で唯一、“ギフテッド専用”と呼ばれる高校。
入学基準は学力ではないらしい。
構造理解能力。
意味がわからない。
◆
教室に入ると、視線が一斉に集まった。
「転校生だ。自己紹介を」
担任が言う。
俺は黒板の前に立つ。
「アニムス。……記憶が、少しない」
ざわ、と空気が揺れる。
「設定?」
「中二?」
「でもイケメン」
好き勝手だ。
「本当だ。俺も困ってる」
「ちょっと!」
茶髪の女子が立ち上がった。
目が強い。声もまっすぐだ。
「記憶ないってどういうこと!?生活どうするの!?」
「なんとか」
「なんとかって!」
彼女は俺の前まで来る。
「私はレスポンサ。対応の法則担当」
「法則?」
「知らないの?」
知らない。
というか、法則を“担当”って何だ。
休み時間、彼女は黒板に円を描いた。
大きな円。その中に小さな円。
「これ、似てない?」
「同じ形だな」
「これが“対応”。照応の原理」
チョークが乾いた音を立てる。
「古代のヘルメス哲学者たちはね、これを“未知を覆う障壁をこじ開ける道具”だって考えてたの」
「障壁?」
「世界の正体を隠してるヴェール」
彼女は小さく笑う。
「イシスのヴェールって知ってる?」
「知らない」
「照応を理解すれば、そのヴェールを少しだけめくれるって言われてる」
「随分ロマンチックだな」
「ロマンじゃない」
真顔になる。
「幾何学を知れば、遠くの星の動きを測れるでしょ?」
「まあ」
「同じ。小さい構造を理解すれば、大きい構造も推測できる」
小さな円を指差す。
「モナドを研究する者は、大天使を理解する」
「急にスケールが跳ねたな」
「原理は同じだから」
俺は黒板を見る。
円の中の円。
どこか懐かしい。
「じゃあ……俺を理解すれば、世界もわかる?」
レスポンサは一瞬だけ目を細めた。
「逆もね」
「逆?」
「世界を見れば、あなたもわかる」
その言葉が、妙に胸に残った。
◆
昼休み。
またあの不良が現れた。
「さっきの偶然だろ!」
「多分」
「ナメてんのか!」
拳が飛ぶ。
その瞬間、レスポンサが俺の腕に触れた。
「向き、揃えて」
「は?」
「怒らないで」
意味はわからない。
けれど俺は、力を抜いた。
相手の目を見る。
怒り。
苛立ち。
焦り。
それがそのまま伝わってくる。
俺はただ、受け止めた。
――ゴン。
また当たった。
「なんでだよ!」
「圧は返るの」
レスポンサが言う。
「怒りは怒りを呼ぶ。向きが揃えば、ぶつかる」
不良は舌打ちして去っていった。
「今、何した?」
「何も」
「嘘」
「本当に何もしてない。ただ、怒らなかっただけ」
レスポンサは少しだけ笑った。
「それ」
「え?」
「世界は鏡。内側が外に出る」
そのとき、廊下の向こうで小さな揉め事が起きた。
陰口。
笑い。
空気が濁る。
俺はふと思った。
もし世界が鏡なら。
「気にしてない」
ただ、それだけ言った。
空気が少し軽くなる。
ざわつきが止まる。
陰口を言っていた生徒が、気まずそうに目を逸らす。
「反応しなかった」
レスポンサが呟く。
「怒らなかったから、広がらなかった」
俺は校庭を見下ろした。
風が吹く。
桜が舞う。
生徒たちが笑う。
「世界って、敵だと思ってた」
「違うよ」
レスポンサは言う。
「映してるだけ」
世界は鏡らしい。
なら。
「俺は、何を映してる?」
そのとき、屋上に立つ金髪の少女が目に入った。
風が逆向きに揺れている。
「鏡だけじゃ足りないわよ」
小さく、そう聞こえた気がした。
世界は物理でできている。
そう思っていた。
でも、もし。
世界が心に反応しているとしたら?
俺はまだ、何も思い出していない。
けれど。
何かが、動き始めている。
俺はまだ知らない。
この学園が、俺の“過去”と関係していることを。
世界は鏡だとしたら、
あなたは何を映していますか。
第2話は「振動」です。




