16.
「……レオンさん。さっきからその書類、嫌な匂いがしてるわよ」
ミコトが鼻をぴくつかせ、レオンの膝の上にある羊皮紙を指さした。
レオンは羽ペンを止め、鋭い眼光を書類に落とす。
「これは隣国との国境付近で起きた、兵士たちの『集団居眠り事件』の報告書だ。魔導医師の診断では、ただの疲労とされているが……」
「ただの疲れで、屈強な騎士が三十人も同時に寝落ちするわけないでしょう。ちょっと貸して」
ミコトはレオンの手から書類をひったくると、それを光に透かした。
彼女の瞳には、文字の羅列とは別に、紙の繊維に染み付いた「細い糸のような紫色の呪い」が、うごめく虫のように視えている。
「……やっぱり。これ、文字を媒介にした『睡魔の呪い』ね。この報告書を書いた人物か、あるいは提出される過程で誰かが、これを読んだ相手を無気力にする術を仕込んでるわ」
「何だと……。つまり、この報告書が私の元へ届くこと自体が、暗殺の計画だったということか」
レオンが椅子から立ち上がる。その瞬間、鑑定室の空気がピりりと張り詰め、カイエンも即座に剣の柄に手をかけた。
「暗殺っていうより、あなたの思考を鈍らせて、国境の警備をガタガタにするのが狙いでしょうね。……レオンさん、この報告書を書いた『調査官・ハンス』っていう人、最近どこで何をしていたか調べられる?」
「カイエン、直ちにハンスの足取りを洗え」
「はっ! すぐに!」
カイエンが店を飛び出してから一時間後。
ミコトは店の中央で、ボウルに入れた「白銀の岩塩」に、問題の報告書を浸していた。
「いい、レオンさん。これから私がこの呪いの糸を『逆探知』するわ。糸の先には、術者がいるはずよ。……あなた、いつでも動ける?」
「当然だ。私の意識を奪おうとした不届き者だ、生かしてはおかん」
ミコトが印を結び、「還れ!」と一喝した。
すると、塩の中から紫色の光が矢のように飛び出し、王都の北西にある「高級宿場街」の方角へと伸びていった。
「――北西の宿屋『金色の鷲』よ! そこに、隣国のスパイが潜伏してるわ!」
「行くぞ、ミコト」
レオンはミコトの腰を抱き寄せると、窓から音もなく飛び出した。最強の騎士の身体能力で屋根を駆け抜け、数分後には指定の宿屋の三階、一人の男が祭壇の前で苦悶の表情を浮かべている部屋へと突入した。
「……ぐあああ! 呪いが……私の術が、跳ね返って……!」
「お前がハンスか。……いや、ハンスに化けた工作員だな」
レオンの剣先が、男の喉元を正確に捉える。
男の背後には、呪いの反動で実体化した「巨大な獏」のような化け物がのたうち回っていたが、ミコトが予備の塩を一つかみ投げつけると、断末魔と共に消滅した。
事件解決後、夕暮れ時の占いの館。
レオンはいつもの椅子に座り、少しだけ反省したようなオーラを纏っていた。
「……済まない、ミコト。私の不徳の致すところだ。まさか書類そのものが呪いだったとは」
「いいえ、レオンさん。あなたが日々、どれだけ危険なものと戦っているかよくわかったわ。……でも、これからは私がいるんだから。変な匂いのする書類は、先に私に預けなさいな」
「……ああ。そうさせてくれ。あなたがいなければ、私は今頃、王都のど真ん中で深い眠りに落ちていたところだ」
レオンはミコトの手を握り、その手の甲に静かに唇を寄せた。
彼のオーラは、感謝と、そして「絶対にこの女性を離さない」という、これまで以上に深く重たいピンク色に染まっている。
「……もー。レオンさん、あなたって、隙あらばすぐそうなるんだから」
ミコトは赤くなった顔を隠しながら、次の書類――今度は「ただの予算申請書」であることを確認して、彼に手渡した。




