14.
バルト男爵が去った後、入れ替わるように店に現れたのは、真っ白な調理服に身を包んだ、恰幅のいい男性だった。王都で指折りの高級レストランを営む名シェフ、ガストだ。
彼は椅子に座るなり、震える手で顔を覆った。
「ミコト殿……助けてくれ。一週間前から、突然……。どんな料理を作っても、泥を噛んでいるような味しかしないんだ。このままでは、今夜の王宮晩餐会の料理が出せない……!」
ミコトは彼の前に座り、その頭上をじっと見つめる。
そこには「幽霊」の姿はない。代わりに、彼の喉から胸元にかけて、「透明な蛇」のような執念の塊が、何重にも巻き付いていた。
「ガストさん。あなた、味覚を奪われたんじゃないわ。……自分の味に、毒を盛られたのね」
「ど、毒!? そんなはずは……私は常に厳選した素材を……!」
「物理的な毒じゃないわ。……あなた、最近、引退した先代シェフから『秘伝のレシピ』を引き継がなかった? それも、少し強引な形で」
ガストは目を見開いた。
「……なぜそれを。先代は病で倒れ、私が店を継ぐ際に、レシピを書き留めた手帳を譲り受けた。だが、先代は最後まで『まだ早い』と渋っていたのを、無理やり……」
「やっぱり。そのレシピ帳、先代の『教えたくない』という未練と、『お前に使いこなせるはずがない』という呪詛に近い不信感が染み付いているわ。あなたがそのレシピを使おうとするたびに、その蛇が喉を締め上げているのよ」
「では、私はもう料理を作れないのか……?」
ミコトは鑑定室の隅で、これ見よがしに「私はいつでも出動できる」と言わんばかりに剣をカチャつかせているレオンを横目で見た。
「レオンさん。……ちょっと、そこにある鍋を持ってきてもらえる? 私が煮炊きに使っているやつ」
「……これか? 持ったぞ。……斬ればいいのか?」
「斬らないで。……ガストさん、今から私が言う食材を、その鍋に入れて。……塩、少量の水、そして――あなたが一番最初に料理を楽しいと思った時の、初心の記憶」
ミコトはレオンが持ってきた鍋に、最高級の「白銀塩」を一つまみ投げ入れ、ガストに手をかざした。
「いいですか、ガストさん。先代の味を守ることも大事だけど、あなた自身の味を信じなさい。レシピに縛られているうちは、あなたの料理はただの『写し』よ。……はい、これを一口」
ミコトが差し出したのは、ただの塩水だ。
だが、ガストがそれを口に含んだ瞬間、彼の喉を縛っていた透明な蛇が、眩い光となって弾け飛んだ。
「……っ! しょっぱい……。いや、甘い……? 素材の味が、喉の奥まで染み渡るようだ……!」
ガストは涙を流して崩れ落ちた。
「ああ、私は……。先代の顔色ばかりを伺って、自分の料理を忘れていた……。ミコト殿、ありがとうございます!」
「今夜の晩餐会、レシピ通りじゃなく、あなたの直感で作りなさい。そうすれば、先代も文句は言えなくなるわよ」
ガストが深々と頭を下げ、活気に満ちた顔で店を飛び出していく。
「……ふん。また一つ、つまらぬものを解決したな」
レオンは少し自慢げに鍋を置き、定位置の椅子に戻った。その頭上のオーラは、ミコトの活躍を間近で見られた満足感で、これ以上ないほど鮮やかなピンク色に染まっている。
「レオンさん。……あなた、騎士団長なのに、私の鍋持ちまで板についてきちゃったわね」
「……。……あなたの頼みなら、私は帝国全土を敵に回しても、鍋くらいは運び続けよう」
「あはは、またそういう極端なことを……」
ミコトは赤くなった頬を隠すように、鍋をキッチンへと片付けた。
どうやら今日の夕食は、レオンも大好きな、お清め(愛情)たっぷりの温かいスープになりそうだ。




