10.
カランカラン、と上品な鈴の音が響く。
入ってきたのは、バルト男爵とは対極にあるような、痩身で神経質そうな壮年の男性。仕立ての良い漆黒の燕尾服を纏い、片手には銀の杖を突いている。
鑑定室の隅では、もはや風景の一部と化したレオンとカイエンが、黙々と書類の山を捌いている。
「……バルトの紹介で来た。あのような成金が、最近は憑き物が落ちたように穏やかな顔をしているのが解せなくてね。……ここなら、私の『消失』も解明できると言われた」
男はミコトの向かいに座り、帽子を脱いだ。
彼はアルキル伯爵。だが、ミコトが彼の顔を見た瞬間、その背後のレオンがピクリとペンを止める。
「アルキル伯爵……。王立図書館の館長ですね。あなたほどの御仁が、何に困っているのですか?」
ミコトは彼の頭上を凝視する。
そこには「幽霊」の類は視えない。代わりに、彼の体から「砂時計の砂」のような粒子が、さらさらと零れ落ちては消えていく、奇妙な現象が起きていた。
「私の周りから、大切な『時間』が消えていくのだ。書き上げた原稿が白紙になり、昨日植えたはずの庭の苗が枯れ、しまいには……今朝、妻の髪から私の贈った飾りが消えていた。魔法師は『未知の魔力逆流現象』だと言うが、何も解決せん」
「……消失、ね。いいえ。あなた、時間じゃなくて『愛着』を吸い取られているわよ」
ミコトは引き出しから、レオンが持ってきたあの「白銀の岩塩」を一粒取り出し、伯爵の前に置いた。
「伯爵。あなた、最近、古い歴史書を修復しませんでした? 羊皮紙じゃなくて、もっと別の……重たい革で綴じられた本を」
伯爵の顔が青ざめる。
「……なぜそれを。禁書庫の奥で見つかった、著者の不明な年代記を、私の手で修復したばかりだ」
「やっぱり。その本、著者の『忘れられたくない』という強烈な執着が染み付いてるわ。本が形を保つために、持ち主であるあなたが周囲に注いでいる『愛着』を、魔力として喰っているのよ。だからあなたが大切にしているものほど、真っ先に消えていく」
ミコトが指摘すると、伯爵の足元に、本を模したような黒い霧がうっすらと現れた。
それを見たレオンが、椅子から立ち上がる。
「ミコト。そいつを斬ればいいか?」
「レオンさん、座って。剣じゃ本は直せないわ」
ミコトは伯爵に向き直り、静かに告げる。
「伯爵。その本を今すぐここに持ってきなさい。……修復するのではなく、『供養』するんです。その著者がもう十分、歴史に名を刻んだことを私が教えてあげます」
「……。魔法式ではなく、対話で救うというのか」
「ええ。思い出は力になるけど、執着は毒になる。その境界線を引くのが、私の占いの仕事ですから」
数時間後、伯爵が震える手で持ってきた古い本。
ミコトがそれを最高級の塩と、前世から受け継いだお経(のような言霊)で包み込むと、本から立ち上っていた黒い霧は、最後には柔らかな光となって伯爵の指先を掠め、消えていった。
「……消えた。胸のつかえが、嘘のようだ」
「明日には、白紙になった原稿も元に戻っているはずですよ。……ただし、これからは仕事と同じくらい、奥様への『愛着』を形にすること。わかりましたか?」
伯爵は深々と頭を下げ、満足げに帰っていった。
「……ミコト。あなたは、私以外の男にも、そうやって優しく諭すのだな」
レオンのオーラが、再び「嫉妬の紫色」に濁り始める。
「レオンさん。あなた、自分の書類仕事に戻りなさい。……それとも、あなたも飴玉がほしいの?」
ミコトが呆れ顔で飴を差し出すと、レオンは耳を赤くして「……いただく」と呟き、大人しく席に戻った。その光景を見て、副団長のカイエンが「団長、飴で懐くのはやめてください」と、泣きそうな声を上げていた。




