01 前編:面談
「あの、ここって相談も受けてくれるんですよね」
覇気のない昏い目をした青年は期待もせずに問いかけた。
彼の周囲は、誰も彼もが口を揃えて「お前が悪い」と言うばかり。
分かっている、そんなことは言われずとも分かっている。彼が悪かった、紛うことなき事実だ。己の行いの結果として現状がある。事ここに至って、責任転嫁するつもりはない。
「ええ、事前にご連絡いただいた際にお伝えしました通りに。まずはお話を伺い、必要に応じてあなた様のご希望ですとか、ご意思ですとか、それと適性やご経験等を考え合わせていく形となりますね」
応対の女性は柔らかく返す。個室に案内され、対座する。不思議な温度。どこに置かれても溶け込みそうな調度品だとか、あたりさわりのないしつらえの壁紙だとか、目を引かない壁掛けの絵だとか。
誰にも会いたくない、誰かに聞いてほしい、みんな死んでしまえという気持ちを叫んでもどこにも届けない、深遠の森の土に穿たれた深い穴ぐらのような気配だ。揺らされる葉の無い風。深く柔らかくて底のない穴ぐら。
「それでは、ここに至るまでを伺えますか。差し支えない範囲で」
「はい。では、自分の来歴のようなものを。つまらない話ですが」
青年は穴ぐらに向けてとつりとつりと声を零した。自らに残された最後の矜持のようなもので、哀れっぽくならないように、拳を握りしめて。
ありきたりな筋書きだ。
幼少期に顔を合わせた初恋の少女。無邪気に手を取り合い、好きなものを好きと言うことに何の抵抗もなかった頃の溢れんばかりの幸福の景色。相性を見ての婚約。思春期を経てのすれ違い。未来の約束が永遠でないと知らなかったこと。心の距離を測るための手段。信頼の喪失。
そして――
「婚約者だった女性とは破談に。俺はそれなりの家の長男で、後継者であったのですが、相手方の家との信頼関係を損なったかどで生家から除籍されて平民に、後継の椅子は弟へ。それで俺は生家の領地の片隅に住居と仕事を与えられ、日々細々と暮らしているところです。
ああ、今更、立場を失ったことを悔やんでいるのではありません。そのことはもういいんです」
握りしめた手の爪は白い。根元のほうには横に筋が入っていて、歪んでいる。青年は喉もとまでせり上がってきたものを、ただの息に換えて慎重に吐き出した。
「それはいい。いや良くはない。全く良くはないが、今となっては何一つ取り返しがつかない。あの時もっと素直になっていたら。けなすようなことを言わなければ。せめてもっと早く謝っていたら。
他の女と親しいのを見せつけて気を引こうだなんて、正気の沙汰じゃなかった。そんなもの、そんなもの、叩きつけておいてまだ壊れていないなと安心しているようなものだった。
分かってる、もう分かった。あとになって分かったんだ。だけど今や手遅れだ」
吐いた分の息を吸い込んで、その分を今度は言葉にすれば、思いがけずに勢いがついてしまった。心を落ち着けなければならない。相手は人間であって穴ぐらではないし、彼は分別ある大人であって頑是ない幼児ではないのだから。
職員の女性は対面でごく自然に耳を傾けていた。青年が茶の供されたカップを口元に運んで喉を潤す合間、彼女は口を開く。
「そうだったのですね。それで、」
しばらくぶりに茶の良い香りが鼻を抜けて、そのことに時間の経過を知らしめられて空しく思いながら、青年は少し身構えた。身構えながらここへ来たのだった。
また同じことを言われるのかもしれない。なんだって俺は今更こんなところへやって来たのだったろう。俺が悪くてあれこれを台無しにしたのにもかかわらず居場所があるだけ有り難いじゃないか。
悔いは尽きない。しかし人はそうやって暮らしているのだ。天に向かって唾を吐いた者は、当然の結果であるところの唾の掛かった人間として、生きていかねばならない。世の片隅で、人目につかぬよう身を潜めて、真面目に勤勉に実直に、弁え、反省し、日々感謝してこの先も一生、死ぬまで。
「それで、あなた様はどうなさりたいのですか?」
「え?」
青年は瞬いた。茶で満たされた潤いが眼球に隈なく行き渡るようだった。
「あなた様は、これからどうなさりたいのかと。ご希望ですとか、ご意思ですとか。参考までに」
聞き逃した可能性を考慮してか、女性は繰り返し言った。ごく当たり前に。
「これから」
意思。希望。彼がどうしたいのか。そんなこと。
「ええ、これから。あなた様の人生のことです」
雨が降ること、風が吹くこと、日は沈んで夜は明けて、まるで何でもないことのように。
「俺の? 俺は」
「はい」
女性もカップに口をつけ、待つともなく座って、ただそこにいる。
どうすべきか、どうしなければいけないか、どうするのが正しいか。あれから、これまで、そればかり考えてきたし、そう言われてきた。何故なら、自らの失敗によって当然だったはずの未来を失い、己に価値が無くなったから。
無くなったままでは指一本動かせなかったから、それらしいものをそれらしく入れ込むしかなく、動けない己に代わって周りがそうしたし、多少動けるようになってからは彼自身もそれをなぞった。そうすれば生きていけるのだと思った。
「俺は」
ここにきて、不意に彼の耳朶を打つものがあった。どこにもない穴ぐらに吸い込まれるばかりであった、聞こえた、いつぶりかの己の声だ。小指の先まで血が巡る。窓からは日が差していて、外は晴れている。明るい部屋だ。汗ばむか汗ばまないかといった程度の陽気。
生きている。
「どうしたい、というのを具体的にお伝えすることは、今の俺には出来ません」
か細いそれを撚り合わせて青年は言葉を紡ぐ。おそるおそる、懸命に、これまでにしたことがない作業に挑むように。
「今まで、いや今さっきまで、何も考えてこなかったんです。
ただ過去があって、その続きとして現状があって、苦しい。そう、苦しいんです。苦しいけれど、それは自らの行いの結果なのだからと、どうしようもなくて」
「苦しまれていらっしゃるのですね。そして、それをどうすることもできない。
しかし、――ほんとうに?」
初めて目が合った気がした。
投げかけられた問いを反射で受け取り、受け取ったからにはこちらが投げ返す番であるものを、戸惑い、持て余してしまう。
「あなた様のおっしゃいます、どうしようもない。その言いは何らかの飲み下しきれない物事を、咀嚼せず、味がしないようにしておきたいという響きがあります。
ご自身の身に起きたことや、境遇について、あなた様は繰り返し繰り返し、そう言い聞かせていらっしゃるようにお見受けします。そうするほかないのだと。
まるでご自身の口を無理矢理開けさせ、石でも飲み込ませるかのように」
口の中が苦い。言い淀み、
「……それは、そうかも、しれません」
胃の腑がずしりと重たくなる。いや、ずっとそうだったことに、今気付いただけだ。
「何のために?」
何のため、そんなの。だって、そうでもしなければ。
「それは、」
出しかかった声が思いのほか大きかったことに気づいて一旦留めて、それでもまだ唇は震える。
「それは……っ、それなら、それなら他にどうしたらよかったと言うんだ。俺には何の価値も無い。俺にはどうすることも出来ない。
財産も人脈も知識も、あの家にいたからこそだった。今の俺には何も無い。椅子に座る予定の人間として産まれて生きてきて、椅子に座れなかった人間になってしまって、滑稽なことにはじめから立っている人間よりも始末が悪い。そんな俺に何が出来るんだ。
ああ、こんな俺にも出来ることはある。慈悲だか情けだかで仕事や住まいを世話してもらって、それで生かしてもらっている。飯を食って、用を足して、眠って起きて、それくらいなら出来ていると言っていいかもな。はは。
だが、だが……」
瞬きをする。目蓋の裏の残照は人の形をしている。少年は立派な人間になりたいと語った。少女がりっぱってどんなの、と首を傾げるのに少年は、詳しく説明するのは難しいけれど良い感じの大人だ、返した。
「そうだ。俺は、このままではいたくない。今のままではいたくないんだ。もっと大きい仕事がしたいだとか、かつて着ていたような服を着て、かつて食べていたようなものを食べて暮らしたいだとか、そういうんじゃない。
ただ、そう、このままでは、俺が俺でいられなくなるような気がするんだ。それじゃあ今までの俺は間違いなく俺だったのかというと、妖精を素手で掴むような話だけれど」
青年は苦笑いを零すが、来訪時よりも余程生気を感じさせる表情だ。
星を見つけて、そこを目指してしか走っていられない生き物。足を止めたら遠からず死ぬだろう。青年は星を見失った。そうであるならば。
「ここまでのお話を整理しますと。現状に苦しまれていて、それはあなた様にとって好もしい状態ではなく、変えられるなら変えたいが、その手段がない、と捉えてよろしいでしょうか」
「ああ、ええと、そうかもしれません。ただ、そうだと言い切ると言い過ぎの気もしますが。どうにも煮え切らなくて情けないんですが、俺が苦しいことの原因は俺のやらかしだという自戒もあって。
ただ、そう、ここまでお話ししてようやっと分かりました。今のままではいたくない、それだけはそうだとはっきり言えます」
現状の否認。まだ迎えていない明日は予期されていた。心の奥底のほんのわずかな予兆が、彼の手に怪しいチラシを取らせ、彼の足をここまで導いた。
「それでしたら、転職はいかがでしょうか」
「え?」
木の幹から赤子、はばかりから王冠――「はばかり」は便所を指す古い語で、いずれもあるはずのない場所からあるはずのないものが出てきた想定外の事態を表す喩えであるが――、女性は青年の疑問符をまるで置き去りに、月と星と日の巡りによって祭祀を運ぶ神官のように揺るぎなく朗々と宣った。
「転職でございます。参りましょう、新天地」
「転職」
女性はおもむろにグッと握りこぶしを持ち上げて見せ、ややあってから、さしたる思い入れもなさそうに下ろした。




