第4話 始まるスパルタ教育
あの日から、一年以上が経過した。
僕の体はすっかりと大きくなった。
前世の常識だと、この時期の子どもは一人で歩き始めたり、言葉を理解して簡単な言葉を離し始める時期だろう。
だけど、今の僕は少し違う。
まずは肉体面。
短い距離ではあるが、軽く走ることができるまでに成長している。
この時期の子どもの成長の個人差は大きいと聞くから、前世の一歳児と比べてどうかは分からないが、少なくともとても成長の早い部類には入ると思う。
そして言語面。
これは難しい。
最近になって、母が何度も自分を差して同じ言葉を繰り返すのを聞いて、「ママ」という言葉は覚えたが、それ以外の会話はまだ聞き取りすら覚束ない状況だ。
転生者であるため、前世の記憶にある日本語がこの世界の言語の習得の妨げになっているのではないかと、最近になって思い至った。
まっさらな頭の中に新しい言語を詰め込むのと、既にある言語を通して翻訳しながら覚えるのとでは、習得ペースに違いがでるのは当然の事かも知れない。
僕の座る小さなテーブルの上に、母が食事を置いてくれた。
子どもが食べやすいように細かく調理された離乳食だ。
スプーンを持って、それを食べようとした時、母がそっと僕の手からスプーンを取る。
ご飯をスプーンで掬い、フーフーと冷ましてから僕の口に運ばれる。
もうこの時期の子どもは一人で食べられるように訓練を始めるべき時期だと思うが、母はあの日から僕に対してとても過保護になった。
あの雪の日。
二人の兄弟が僕より先に旅立たったあと、そう間を置かずに僕の意識も途絶えた。
父に抱きかかえられる感覚が、あの時の最後の記憶だった。
そして暖かい家の中、母の泣きじゃくる声と共に僕は再び目を覚ますことができた。
母に抱きしめられ、僕の名前と共に何度も何度も同じ言葉を繰り返す母の顔が今になっても忘れられない。
僕が自分と兄弟の名前の次に覚えた言葉は「ごめんなさい」だった。
どうしてあんな選別のようなことを父が強行したのか、その意味を知るのは大分後になってからだった。
この地域の食事事情はとても厳しい。
極寒の気候のせいで作物は十分に育たないし、動物だってそう多いわけではない。
雪が終わらない冬の時期。
母の食べる食事の量がだんだんと減っていくのを見て、僕は察した。
僕の体が大きくなり、授乳量が増えるにつれて、母の母乳の量はギリギリになっていった。
僕一人であってもだ。
もし兄弟が生きていたら、三人を平等に育てることは困難になっていただろう。
そう、あの父の凶行とも呼べる行いは、口減らしのためだったのだ。
そうだと知った時、僕はやるせない気持ちになった。
計画的に産めよ、と言いたくても三つ子が生まれてくるなんて予想外だっただろうし、母の顔を見れば、母を責めたくなる気持ちなんて湧くはずもなかった。
問題は父だ。
父を憎んでいられれば気が楽になったのに、あれが必要なことだったと理解してしまえば、憎むに憎めない。
もっと別の手段があっただろうと今でも強く思うし、父の冷たい選択に忌避感は否めない。
理性的な思考が先行するせいで、どうしても父に憎悪を向けるのが間違っていると考えてしまって、僕の胸の中にあるこの激しい情動をどこにぶつければいいか分からなくなってしまった。
父のことは嫌いだ。
あの時から父は更に家に帰ってくる頻度が少なくなったし、子育ても母に任せっきりだ。
それにどうしても、あの雪の日に見た父の顔が、恐怖の対象として僕の脳裏から離れてくれない。
だから嫌いだ。
だけど大人としての思考が、父に対する憎悪の矛先を鈍らせる。
この気持ちとどう付き合っていくのかが今後の課題かもしれないな。
食事を終えた頃、家の扉が開いた。
母が驚いて、僕を庇う様に抱きしめる。
「──────……フィオナ」
そんな母に父が冷静な声を掛ける。
どこか諭すような様子にも見える。
母は渋々と言った様子で僕を手放すと小さく言葉を掛けてくれた。
「ごめんね、リオン」
母の言葉は僕の知っている単語だけで構成されていた。
「リオン──────……」
父の平坦な声。
ついてこいと言っているように感じた。
素直についていくのは癪だが、逆らうのも恐ろしい。
ここは素直に父の言う事に従うべきだろう。
◆
父に連れて来られたのは、村の中にある、あの時の段差だった。
「────……──────」
父がなにを言っているのかさっぱりだが、多分、今何か説明をしているのだろう。
もうそれだけで自分の身にこれからなにが起きるのか理解できた。
段差の淵に立たされた僕の背中に父の足裏がピタリとつけられる。
マジ?
頭では分かっていたし、そんな風景も前に見た。
だけど人の親が自分の子どもに本当にこんなことするのか?
振り返って父の顔を見る。
真剣そのものの顔だ。
あ、これマジじゃん。
そう思った直後、父の足が僕の背中を押した。
「うやぁぁああああああ!!」
咄嗟に体を丸める。
全身を打ち付けながら下へと転がり落ちていく。
両手で後頭部を守るので精一杯だ。
子どもの頭の骨は柔らかいんだぞ!
発語能力の低い僕は、父に罵詈雑言の言葉をぶつける事も出来ないまま、ようやく地面に落ち着いた。
地面と段差が土でよかった。
これが石畳とかコンクリだったら間違いなく重傷だった。
コンクリがあるのかはしらんけど。
良く見ればこの辺りには大きな石は転がっていない。
ちゃんと気遣いはあるらしい。
いや、そもそも子どもにこんなことする村がどこにあるよ。
僕はがくがくと震える体を起こして父を睨んだ。
真っすぐに僕を見据える父の目が怖くて僕はすぐに目を逸らした。
情けない。
「──────……リオン!」
父が何かを叫び最後に僕の名前を呼んだ。
上がって来いと言っているのだろう。
どうやらこの虐待染みた村の教育はたった一度では終わらないらしい。
まぁ、そんな気はしてたけど……
◆
幼児服を真っ黒に汚して帰ってきた僕を母が優しく抱きしめてくれた。
いくらこの村では当たり前の風景とは言え、母は気が気でなかったと思う。
僕はそんな優しい母の体を抱きしめ返そうとしたが、この短い腕ではその背中まで届かない。
今日は久しぶりに父が家で食事を摂るらしい。
母がいつもより豪勢な食事を用意してくれた。
豪勢とは言え、食事事情の厳しい我が家の事。
前世に比べれば慎ましやかなものだった。
父が大きな剣をテーブルに立てかけた。
母がそれを注意するが、父は耳を貸さずに食事を始める。
ランタンの灯りに鈍く光る身の丈もありそうな父の大剣。
時々見ることのできるそれを僕は凝視した。
これが異世界転生だっていうのは今更だが、実際にあっちで見る機会のなかった武器をこうも無造作に扱うところを見るのは未だに慣れない。
当然だが、誰かと戦うためのものだと思う。
やはり魔物とかいるのだろうか。
そう考えに浸っていると、父が剣を握って僕の方に柄を寄せた。
「──────……──?───」
僕が興味を持っていると勘違いしたのだろう。
握れとでも言うように、僕に差し出された剣を見て母の反応を伺ったが、父のその行動には文句が無いみたいだ。
母が良いなら良いか。
僕は十分に指の回らないその太い柄を掴んだ。
僕の手と、父の手が近い。
僕は初めて握る剣に、心臓が一つ高鳴った気がした。
僕も男の子ということだろう。
満足した父がテーブルに立てかけ直そうと、剣を引っ張る。
どこか物足りさを感じた僕は、それに少し抵抗して見せたが、父の力に敵うはずもなく、代わりにスプーンが僕の口に放り込まれた。
父が無造作に突っ込むものだから、口の奥にスプーンが当たってえずいてしまう。
母が慌てて僕の背中を擦ってくれたが、父は目を逸らすばかり。
クソ親父め。
母に怒られながらも素知らぬ顔で食事を再開した父に蔑んだ目を僕は送った。




