1話 転生と極寒
左右からけたたましいほどの赤子の泣き声が、僕の耳を激しく叩いた。
僕は深い眠りから目覚めた時のような心地の良いまどろみの中、その騒音に意識をはっきりとさせられた。
うるさいな。
赤ちゃんが泣くのは仕方がない。
けどこれだけ近くで泣かれると誰だって文句の一つも言いたくなるものだ。
僕は近くにいるだろう二人の赤子の保護者に文句を言ってやろうと口を動かした。
あれ?
上手く口が動かない。
あぅ、あぅ。
元気に泣く両隣の赤子に比べ、上手く泣けずにいるような赤子の声がすぐ近くから聞こえた。
というかこれ、僕の声だ。
え?
なんだこれ。
僕は満足に動かせない身体に気付いて、顔を身体に向けた。
そこにはぷにぷに全裸の赤子の体があった。
「おぎゃぁぁああああああああああ!!!」
僕の絶叫はまるで産声だった。
「────……──────!」
真上から女が僕の顔を覗きこんだ。
疲れ切って憔悴した、今にも泣きだしそうな顔をした女。
見たこともの無い綺麗な銀髪のその女についつい見惚れてしまう。
ブリーチしているのだろうか?それにしては艶のある髪をしている。
日本語でもなく、英語でもない言葉で何を言っているのか、全く分からないが、それでも彼女がすごく喜んでいるのがひしひしと伝わってくる。
この左右の赤ちゃんの母親だろうか?
いや、となるとまさか僕も?
混乱するが、状況を整理すると僕はどうやら赤ちゃんになっていて、この女が母親なのだと推測できる。
すると必然的に左右のあかちゃんは僕の兄弟ということになるだろうか?
まさかの三つ子だ。
それは流石に大変な出産だっただろう。
これだけ憔悴するのも無理はない。
あれ?また銀髪の女が心配そうな顔を僕に向けてきている。
そうか、状況の整理に集中していたから、泣くのを忘れていた。
それで再び静かになった僕に心配の顔を向けたか。
少し申し訳ない気持ちになるな。
仕方ない。
元・成人男性、恥を忍んで泣くことに決める。
「おぎゃあぁぁぁぁああ!!」
それを見た女がほっと息を吐く。
安心したような女の顔を見ると、不思議と僕の胸も暖かくなった。
なんとなく、これが親子の繋がりのようにも感じられた。
彼女が僕の母親なのだと、直感的に確信する。
すると部屋の隅に大きな体をした男が立っている事に気付く。
洋画でしか見たことのないような筋骨をした大男だ。
銀髪を短く纏め、一部刈込を入れた厳めしい姿が恐ろしい。
この女の夫だろうか?
それにしても、子どもが生まれたばかりだというのに厳しい表情が気になる。
せめて三つ子を頑張って産んだ妻に労いの一つでもかけてあげたらどうだろうか?
「──────…………───」
「!……──────!……──────……」
ようやく女に近寄った男が、言葉を掛けると、女の様子が豹変した。
男を見上げる女の顔は僕からは見えないが、声の感じからして怒っているようにも聞き取れる。
しかし、女の強い口調にも、男は全く動じた様子を見せず、ただ黙って女を睨んでいる。
有無を言わせるつもりはない。
そう言っているようにも僕には見えた。
◆
どうやら転生というものらしい。
前世でいつの間にか死んでいたようで、幸運なことに僕は二度目の生に恵まれたようだ。
そう言った概念やジャンルは知っていたが、まさか自分の身に振る注ぐとは夢にも思っていなかった。
というかいつの間に僕は死んでしまったのだろうか。
記憶を探るも、一番古い記憶は友人と二人で秘湯巡のための山登りの最中に、石に躓いて友人のケツに顔面ダイブを決め込んだのが最後の記憶だ。
……なんて記憶だ。
よりにもよってそんな記憶しか残っていないだなんて。
まさか僕はそれで死んだというのだろうか?
あり得ない、と流石に思うが、心の中でもしかしたらそれもあり得るかもしれないと頷く自分がいることに気付く。
忘れよう。
終わったことだ。
余計な記憶を遥か彼方へと放り投げて、僕は揺れる母の腕の中で、気持ちよくなることに決める。
意識が揺蕩い始めた時、母が部屋の窓を開けた。
唯一露出している頬を冷たい空気に撫でられて眠気が少し遠のいた。
「──────……──────」
まだ母の言葉は分からないが、申し訳なさそうに目じりを下げた母が、僕の頬を優しく撫でる。
まぁ、眠気が飛んだからって怒っていはいないので、そう申し訳なさそうにしないでほしい。
日本人としてはそう謝られるとなぜかこっちもまた申し訳なくなってくる。
だから僕は母の手が触れると同時に笑い声を上げた。
それを見た母が、顔を明るくして僕の顔に頬を擦りつけてくる。
いい匂いがするから悪い気がしなかった。
思いっきり親バカな姿を見せる母に頬を擦られながら、僕は窓の外を見た。
草木の少ない、乾燥した寒空の広がった小さな村が目に入る。
遠くの山の頂上は白い。
雪が積もっているのだろう。
もうじき、この村も雪に覆われることになるだろうと、豪雪地帯に住んでいた僕の勘がそう告げた。
部屋の換気もそこそこに、母が窓を閉めると、僕をゆりかごへと戻す。
そして僕の別の兄弟を抱えて、また窓辺に立った。
僕の時と同じように身体を揺らしながら、自分の子どもに愛情を注ぐ姿はまさに母であった。
そして戻ってきた母は、胸に抱く子をベッドに戻すと、もう一人の子を抱き上げてまた窓際に立った。
自分の子を目一杯に可愛がる母の姿は、幸せそうな顔をしていた。
だけど、どこか悲しそうな顔にもは見えるのは気のせいだろうか?。
最後の子をベッドに戻した母の目には、涙が溜まっていた。
それを見て、僕は思わず手を伸ばす。
泣かないで、そう言いたくても声は上手くでないし、言葉も分からない。
だから僕は母に満面の笑みを送った。
それを見た母がまた僕を抱き上げて、毛布に包まる僕の身体に顔を埋めるようにして、泣き笑う。
産後鬱、というものだろうか。
この時期の母親はナイーブになりやすいというが、やはり女性は大変だ。
まったく父はなにをしているのだろうかと、僕は憤慨しそうになった。
そう思った矢先に家の扉が開いた。
父が帰ってきたのだ。
その手には小さなウサギのような動物が縄に吊るされていた。
あれウサギだよね?なんか角があるけど。
僕は見たこともないウサギの姿に目を擦ったが、現実は変わらない。
はえー、海外には角の生えたウサギもいるらしい。
まぁ、そんなこともあるか。
そんなことよりも気になるのは父の表情だ。
獲物を捕らえたというのに父の表情はどこか暗い。
表情の変化に乏しい父だが、何となく沈んているように見えた。
ウサギ肉は美味しいというからごちそうだと思うのだがどうしたのだろう。
父の焦燥感に満ちた表情に僕の胸もざわついた。
親の不穏な空気というのは子どもにもしっかりと伝わるものだ。
それを感じたのは僕だけではなかったのか、隣の兄弟が大きな声で泣き始める。
それに釣られて反対側の兄弟も泣き始めるものだから真ん中にいる僕からしたらまぁ、うるさい。
両隣で仲良く合唱をする三つ子の兄弟に、僕はそっと耳を塞いだ。
「──────……──────」
子どもの泣き声に母がこちらへとやってくる。
母親初心者の母が、子どもの泣く理由が分からずに少し慌てている。
そして母が一番右の子を抱き上げた。
母は肩を出すようにはだけさせて……おぉ……。
おっと、これ以上はなにかいけない気がする。
そっと顔を逸らす。
隣の僕の兄弟は、自分の兄弟が先に母に母乳を貰っているのが羨ましいのか、急に泣き止んでじっと見ている。
むっつりめ。
いや、赤子らしく単に腹を空かしているだけだろうけど。
そして、僕の右手にお腹を満たして満足した様子の兄弟が帰ってくる。
もうすぐにも寝てしまいそうなほどにうとうとしていた。
すると母に必死に手を伸ばして、僕も僕もとアピールする左の兄弟が母に抱きかかえられ、母乳を吸う音が聞こえ始めた。
これ、次は僕なのでは?
失念していたが、僕も赤子だ。
母の子なのだ。
と、すると当然次の番を僕という事になる。
ふむ。
いや、これは当然の権利だ。
僕は赤子で母乳を吸わなければ死んでしまうし、母の赤子なのだから、自分の母のおっぱいを吸うのは当然の権利であり、母の愛の元、子どもとしてすくすく育つ義務がある。
なにも恥ずかしがる必要も、後ろめたく感じる必要もない。
僕はもう、女性の裸に責任と節度を持たねばならない成人男性ではないのだ。
ただ赤子らしく、粛々と、黙って栄養補給をするだけ。
そこに邪な感情など塵一つとてない。
僕はただ静かに、心を凪のようにして、浮かれることなく母の愛を受けるのだ。
満足して目を細める兄弟が、僕の左手に戻され、母の手は遂に僕へと伸びた。
わーい。