第9話 北壁図書館の崩落
北壁図書館──それは山肌をえぐるように築かれた、七層の知識収蔵施設である。
風車都市フルール、錬金街サリエルを経た匠真たちは、渡された地図を手に、厳しい坂道と幾重もの階段を登りつめ、ついにその前に立っていた。
目の前に広がるのは、巨大な円柱の建築物。外壁には古代語で刻まれた碑文と、魔術式が組み込まれた扉。厚さ二尺の木扉が音もなく開き、淡く光る青の魔法灯が足元を照らした。
「……図書館というより、砦だなこれ」
佑弥がぽつりと呟く。
「でも、ここの書庫には“転移門の構造式”が保管されてるはずだよ」
匠真は高鳴る胸を抑えながら、慎重に足を踏み入れた。
通路は静まりかえっていた。
数段降りた地下階には、閲覧者の姿がまばらにあったが、どこか“違和感”があった。
――人が、少なすぎる。
受付係も、案内人もいない。閲覧台の光だけが等間隔に灯っていた。
「ねえ、妙に静かすぎない?」
ゆりかが声を潜める。
そのとき、匠真の視界の端に、一人の青年が目に入った。
漆黒の上衣、鋭く切りそろえた髪。無表情のまま動線を整理し、散らばる本を淡々と積み上げていく男──
「聖人……?」
彼の名を結那が口にした。
彼はその名に反応し、ただ一度だけ瞬きを返した。
「この施設は現在、一時閉館処理中だ。避難導線は三方向。第三階層を越えることは推奨されない」
感情のない声。それでも、彼の動きには一切の無駄がなかった。
「何が起きてるんだ?」
匠真の問いに、彼は一言だけ返した。
「“爆縮の予兆”。一部魔導媒体に残留魔力の過剰共振が観測された。起点は──“禁呪痕”」
その言葉に、全員が息を呑んだ。
「まさか、あの時の……!」
影の広場での“偽書騒動”。中身が白紙だったはずの禁呪書に、わずかに“本物”の痕跡が残っていた。
「ダンテだ……!」
匠真は走り出す。
「放っておいたら、図書館が吹き飛ぶ! 約束したんだ、プリシラに──この場所を守るって!」
***
第七書架──最上階。
そこで、匠真は見た。
怒りと混乱の中で魔力を放出するダンテ。そして、彼の前に立ち尽くすプリシラ。
「こんなはずじゃ……俺はただ、評価が欲しかっただけなのに!」
ダンテは白紙だったはずの書を地面に叩きつけ、両手を振り上げた。その指先から、赤黒い魔力が噴き出す。
プリシラの表情は、怯えと迷いで凍りついていた。
「プリシラ、下がって!」
匠真の声に、彼女ははっとして一歩下がる。
だがその瞬間、天井の魔導文様が発光し、崩落の兆しが始まった。
「間に合わない……!」
匠真は魔法支柱の展開式を頭の中で組み上げる。魔力と理論が交錯し、ページのように視界に広がる──
「“支柱展開式・三重骨構造”! 結那、補強風を!」
「了解! 風壁、外周展開っ!」
二人の魔力が合流する。
そして──
天井の瓦礫は、寸前のところで支柱に支えられ、落下を止めた。
風が渦巻く中、結那が目を細めた。
「やった?」
「まだ、終わってない」
匠真はそう言って、ダンテのもとに歩み寄る。
天井から剥がれ落ちた石片が、支柱の上で弾けた。
蒼く発光する風壁がその衝撃を吸収し、揺れる魔法陣が徐々に安定していく。
その中心で、ダンテは崩れ落ちるように膝をついていた。
「なぜ……どうして……俺はただ、評価が欲しかった……帝国で認められたかった……!」
その言葉に、誰も答えなかった。
ただひとり、匠真だけが静かに彼のそばに近づいた。
「僕だって、誰かに何かを証明したいと思ってるよ。だけど、それは“誰かを巻き込んでいい理由”にはならない」
「うるさい……!」
「でも、君の失敗は──“ここで終わらせる”。次は、繰り返させない」
匠真は倒れかけた禁呪書を拾い、周囲に散らばった魔導紙片を回収していく。その手は震えていた。
「もう崩れる、全員退避を!」
聖人の指示が響く。冷静に、無感情に、だが一歩の狂いもなく。
避難路を示す魔光杭が床に打ち込まれ、光が順に点灯していく。
「三十秒以内に全員、第五書架へ退避。途中、合流予定者四名。各自、割り振り通りに」
彼の声に従い、結那・ゆりか・佑弥・久美たちが一斉に動く。
「匠真! 来て!」
結那の声が響く。
だが彼は、最後の棚へ向かっていた。
「ちょっと待ってくれ! あの書架の中に、“帰還理論の補助式”がある。どうしても、どうしても持って帰らなきゃ──!」
瓦礫が落ちる。
重たい魔力のうねりが、天井から圧し掛かってくる。
それでも──
彼は書架に手を伸ばした。
埃と火花が舞うなか、手にしたのは、一冊の革装丁書と……ずっしりと重たい写本。
それは、誰も読まなくなった“未完成の理論書”だった。
「これが、帰る鍵になる……絶対に!」
振り向いた時、聖人が支柱の端に立っていた。
「下がれ。ここは私が支える。君は、運ぶ方だ」
「でも──」
「私は、変わるためにここにいる」
聖人の視線が、ほんの一瞬、熱を帯びた。
「感情を抑えることはできる。でも、変わらなければ意味がない。だから君が残る意味はない。“守る”という目的は、共有された」
匠真は迷わなかった。
彼は走り出す。
瓦礫が背後で崩れる音が響く。
だがその音の向こうから、確かに聞こえたのだ。
──「守る価値がある」と伝える、誰かの声が。
***
脱出後、図書館は部分的に崩落した。
天井の一部はすでに塞がれており、禁呪書の残響を帯びた魔導媒体はすべて焼失したと確認された。
ダンテは拘束され、帝国に引き渡されることになった。
プリシラは、書庫の外で静かに泣いていた。
「……あの人、悪い人じゃなかった。だけど、自分の器を他人に測らせようとした……」
匠真は彼女の隣にしゃがみ、持っていたノートを差し出した。
「君の“器”は、ちゃんと見てた人がいる。それだけで、十分だよ」
プリシラは頷いた。
結那は、誰にも気づかれないように後ろを向いた。
何かが、胸の奥で、ふわりとほどけたような気がして。
***
その夜。
テントのランタンの光の中、匠真は一冊の写本をノートに写し始めていた。
帰還理論の断片。魔力共鳴の式。転移門の核となる構造式──
その手元には、“守り抜いた証”があった。
彼は静かに、記した。
「知識は、逃げない。守れば、応えてくれる」
(第9話【北壁図書館の崩落】End)