第8話 霧湖の静寂とプリシラの囁き
湖面は、灰色の霧に包まれていた。
太陽の存在が霞み、昼なのか夕暮れなのかさえ分からない。水面から静かに立ち上る霧が、空と地の境界を曖昧にしていた。
ここは《霧湖》。
古の魔力が沈むというこの湖は、風も波も立たず、まるで“記憶”そのものが水に溶けて漂っているようだった。
匠真は、渡し舟の縁に手を置きながら霧の奥を見つめていた。隣には結那、反対側には、ひとりの少女が座っている。
プリシラ──それが彼女の名だった。
淡い銀髪に、控えめな刺繍のローブ。両手は膝の上で固く組まれ、視線はずっと湖面に落ちたままだ。
「……本当に、役に立たないんです、私」
静かな声だった。
結那が首をかしげる。
「そんなこと、誰も言ってないけど?」
「誰も言わないから……余計に、怖いんです。私だけ、何もできてない。誰の役にも立ててないのに、何も言われないのが、一番……苦しい」
その言葉に、匠真はペンを止めた。
彼女の話し方には、慎重すぎるほどの沈黙が織り込まれている。まるで話すこと自体が誰かに対する迷惑だとでも思っているように。
「器が小さいって、思われてる気がするんです。気にしすぎだって言われますけど、気にすることをやめたら、私は……」
言葉が霧に溶けていった。
結那が舟の縁に腰をかけ、裸足のまま水面に足先を浸した。
「ねえ、プリシラ。風って、形ないじゃん? 誰にも見えないし、つかめない。けどさ、誰かの髪を揺らしたり、帆を動かしたりすることで、“そこにいる”ってわかるんだよ」
「……それが、私にもできるでしょうか」
「できるよ。誰かに気を使いすぎるのって、優しいってことだしさ。あとはちょっとだけ、自分のために動いてみたら?」
プリシラの指先がかすかに動いた。
だが、まだ彼女の瞳は揺れていた。
匠真はそっと、ノートを一枚破り、短く文を書いて手渡した。
「器の大きさって、何かを全部抱えることじゃなくて、ひとつだけでも“守った”って言えることだと思う」
プリシラの手が震えた。紙を持つ指が、少しだけ強くなる。
「……ひとつだけ、なら……」
そのとき、風が湖面を渡った。霧がわずかに裂け、彼女の髪がそよいだ。
そして彼女は、地図を一枚、ゆっくりと差し出した。
「北壁図書館……あそこに、きっと“帰還の鍵”があります。でも、私は……そこへ行く勇気が……」
「伝えてくれて、ありがとう。それだけで十分、君は今、風を動かした」
匠真はそう言って、プリシラの手から地図を受け取った。
「僕たちが、その先に進む。君の“ひとつ”を守るよ」
霧の中、舟は静かに進んでいく。
その小さな囁きは、水面に溶けるように消えた──
霧が晴れ、渡し舟が湖岸に近づいていく。
プリシラは依然、俯いたままだった。けれども、彼女の背はほんのわずかに伸びていた。手の中には匠真から渡された一枚の紙──「器の大きさは、守ったものの数で測れる」と記された文が、しっかりと握られていた。
舟を下りた三人は、しばらく湖畔の小道を歩いた。
結那は先を歩きながら、ときおり振り返っては無言のまま、プリシラの表情をうかがっていた。
「……あの子、わたしとは正反対だね」
ぽつりと、誰に向けたでもないように呟く。
「何かを言うとき、ちゃんと相手を気にして、タイミングを測って、それでも足りないかもって悩んで……」
結那はふと立ち止まり、片手を広げて空を仰いだ。
「わたしなんて、いつも感情のまま動いて、風みたいに好き勝手に喋って、誰かの気持ちなんて考えたことなかったかも」
「そんなこと、ないと思うよ」と匠真が背後から応えた。
「プリシラに最初に声をかけたの、結那だった。君が彼女に“本音で話せば軽くなる”って言ったとき、彼女の顔、ほんの少しだけ明るくなったよ」
結那は目を細めた。
「……だとしたら、怖いね。誰かを動かすってことは、責任が生まれるんでしょ?」
「そうだね。でも、責任って“縛り”とは違うと思う。誰かと一緒に歩くために必要な“覚悟”っていうか」
「覚悟かあ……」
結那はしゃがみこみ、小さな石を拾った。それを投げるでもなく、ただ指先で転がす。
「わたし、自由が好きなんだ。風みたいに、縛られずに生きてたい。でもさ……プリシラを見てたら思っちゃった。“誰かのために動ける自由”って、案外かっこいいかもって」
匠真は静かに頷いた。
「自由は、誰かと一緒にいることと、矛盾しない。むしろ、そうやって選んだ道の方が、強いって思うよ」
結那は石をぽんと放り上げ、掌でキャッチした。
「……じゃあ、もう一つ約束しよっか」
「え?」
「プリシラが地図をくれた。だから、彼女の“守りたかった気持ち”を、わたしたちが持って北壁図書館へ行く。……それが、風を受け取ったってことだと思うから」
匠真はゆっくりと、右手を差し出した。
「うん、“守る”よ」
結那はそれを、くすぐったそうに笑って握り返す。
「まったく……あんたといると、風の流れが複雑になるね」
「でも、それも“自由”の一部でしょ?」
「……そうだね」
***
彼らが振り返ると、霧湖の舟着き場には、まだプリシラが立っていた。
だがその肩は、ほんの少し、風に押されるように前へ傾いていた。
彼女は言葉にせず、ただ静かに手を振った。
それは、「行ってください」という、小さな勇気のジェスチャー。
匠真と結那は頷き返し、北へ向かう小道を踏み出す。
その足音は、静かな水面には届かない。
けれども確かに、風を生んでいた。
(第8話【霧湖の静寂とプリシラの囁き】End)