第7話 帝国密偵ダンテの月下取引
サリエルの夜は、蒸気と煙の臭いにまみれていた。
月明かりが濁った煙の層を照らす中、路地裏の階段を降りていくと、そこには「もう一つのサリエル」があった。
影の広場。錬金街の表通りでは手に入らないものが揃う、非公式の市。売買されるのは物質だけではない。禁じられた魔導書、記録を消された兵器、そして「人の思念」さえも商品となる。
匠真はフードを深くかぶり、ゆりかと共に人混みに紛れていた。
「ねえ、本当にいるの? こんなとこにダンテ」
「うん。春樹の情報網で追った。彼は“帝国への手土産”を探してる。目をつけたのは──“禁呪書”」
「そっか。馬鹿だなぁ」
「判断力がないからね。けど……利用できる」
匠真は、手元の包みを見やった。表紙を巧妙に模した、内容空白の“偽の禁呪書”。
これは、罠だ。
だが、必要な罠だった。
***
少し離れた木箱の陰で、当のダンテは苛立っていた。
金髪をオールバックに撫でつけ、派手な外套を羽織り、周囲を睨みながら何度も腕時計を確認する。場違いなほど貴族然とした佇まいに、周囲の商人たちも目を細めていた。
「遅い……闇取引の癖に時間も守れんのか、下衆どもめ」
小声のつもりだが、思い切り聞こえていた。
その横で、ふらりと現れたのは、影の広場の仲介人。黒頭巾に白い仮面をつけ、地声を機械音のように歪めている。
「お望みの品は……こちら」
布をめくると、そこには一冊の古びた黒革の本。
ダンテの目が光る。
「これが……“双月の反響式”……禁呪の中でも最上位に属する、はずの……!」
「代金は前払いで」
「構わん。これさえあれば、帝国の情報部での立場も確実に……!」
ダンテが興奮気味に袋を開こうとしたそのとき──
「すみません、少しよろしいですか?」
滑り込むように声をかけたのは、書物売りに扮した匠真だった。
「私、そちらの書籍と“非常によく似た本”を持っていまして。購入前に比較をお願いできればと──こちらです」
ダンテの目が点になる。
差し出されたもう一冊。見た目は、完全に同一。
「……まさか、偽物?」
「さあ、どちらでしょう。そちらの本に“中身”があるか、確かめてみては?」
「なっ……」
ダンテは焦ったように黒革の本を開いた。
数ページめくる。
……白紙。
「こ、これは!? 中身が……っ!」
その瞬間、背後の商人たちがざわめき始める。
「ニセモノだ」「情報部の失態だ」「あれ、帝国の密偵じゃねぇの?」
嘲笑と好奇の視線。
ダンテは、顔を真っ赤にしながら叫んだ。
「き、貴様……貴様あああああっ!!」
「わざとだよ、ダンテさん」
匠真が低く、冷静に言い放った。
「僕の意見を“軽視した”よね? じゃあ、その意見を“偽書の形で渡す”ことにした。君がそれを読めないのは、君自身が“白紙”だからだ」
***
ダンテは絶叫しながらその場から逃げ去った。誰も追わない。
ただ、残された偽書だけが、月明かりに照らされていた。
「やったね、匠真。あんた、ああいうのになると別人みたい」
ゆりかがぽんと肩を叩く。
「怒ってるわけじゃないんだ。ただ──“記憶しておきたい”。馬鹿にされた悔しさも、ここでやり返せたって実感も」
「それ、全部ノートに書くんでしょ?」
「うん。全部」
匠真は月下の広場で、また一頁、新たな記録を書き始めた。
影の広場の喧騒は、徐々に沈静していた。
仮面の仲介人はすでに姿を消し、偽書を手に入れられなかった商人たちはそれぞれ持ち場へ戻っていく。月は高く、まるで何事もなかったかのように夜空を照らしていた。
だが──匠真はひとつ、気がかりを覚えていた。
(ダンテが去った後……“本物の禁呪書”は、どこに消えた?)
あの一件は、たしかに彼を罠に嵌めるには成功だった。だが、肝心の本物の禁呪書が商人の手元から回収されていない。
不安が胸を過ったそのとき、結那の声が背後から届いた。
「──お疲れ。かっこよかったよ。……けど、顔怖かった」
いつもの調子に戻った彼女は、石畳に腰を下ろし、月を見上げている。
「正直……ちょっと後味悪かった」
匠真は隣に腰を下ろした。
「僕、怒ってたわけじゃないんだ。ただ、“軽視される”って、どうしても悔しくて」
「うん、わかる。……わたしも、自分が“ただの風使い”って見下されると、イラッとするから」
「風は、軽く見られやすい。けど、形がないからって、意味がないわけじゃない」
「ふふ……匠真、たまに詩人みたいなこと言うよね」
「そんなつもりはないけど……記録すると、考えがまとまるだけだよ」
そう言って、彼はまたノートを開いた。
「今日の記録、書いてもいい?」
「もちろん。わたし、ちゃんと“旅の記録”に残ってたいし」
風がそっと吹いた。
彼はペンを走らせながら、問わず語りにつぶやいた。
「ダンテは、きっとまたやるよ。何か“取り返すため”に。あの人、自分の判断力のなさを他人のせいにしそうだから」
「それ、怖いね。でも……わたしたちが、それを先に読めばいいんだよ」
結那の言葉に、匠真は頷いた。
「うん。未来を読むってことは、学びを重ねることだから」
遠くで、風車の羽が静かに回っていた。
***
その日の深夜、人気のない路地の奥で、一冊の本が捨てられていた。
それは、禁呪書“風姿の第二頁”。ただし、表紙と目次は偽物だが──内部にはわずかに、“本物”の残留魔力が転写されていた。
気付かれぬまま、それは風に巻かれ、北の方角──北壁図書館の方向へと転がっていった。
そして、その運命の先には、まだ誰も知らない“崩落”の兆しが待っていた。
(第7話【帝国密偵ダンテの月下取引】End)




