第12話 樹海の鏡面湖と鏡写しの心
霧と光が交じり合うような静けさの中──そこはまるで、世界が呼吸をやめたような空間だった。
匠真たちは〈樹海〉の奥深く、伝承にしか残されていなかった湖──〈鏡面湖〉へと足を踏み入れていた。
「まるで……空を歩いてるみたい」
結那が呟いた通り、水面は風もなく、鏡のように空を映していた。だが、覗き込めば“それ以上のもの”が映るという。
ゆりかが一歩、湖の中心へと進む。
「ここで、魔法を使う。私の“共感魔法”で、みんなの本音がこの湖に映る」
「本音って……言葉じゃない、想いの方か?」
聖人が尋ねた。
ゆりかは小さく頷いた。
「うん。声に出さない、出せない、でも心にある……本音」
彼女は魔法陣を湖面に描く。水面がわずかに震え、波紋のように光が広がっていく。
次の瞬間、湖面が霧のように白んだ。
そして──それぞれの“心”が、映し出された。
***
最初に浮かんだのは、佑弥の影だった。
孤独に背を向け、誰かと比較されることを拒絶する──それは、かつて競争に疲れた過去の記憶だった。
「俺は……誰かの“上”に立ちたくて、ここにいるんじゃない。ただ、俺は俺で、在りたいんだ」
ゆりかが静かに言った。
「それは、あなたが“誰とも重ならない”って信じてる証。強いわね」
次に浮かんだのは、久美の姿。
必死にノートを開いても、試薬が濁っても、それでも誰かに「まだ足りない」と言われる。努力を否定される恐怖。
「わかってるのに、反発しちゃう……やれるって、見せなきゃって……なのに、結果が出ないと、自分ごと全部否定された気がするの」
匠真は一歩、彼女のそばに寄った。
「僕は、君のノート、全部読んだ。ちゃんと、意味がある努力だったよ」
久美は黙ってうつむいたが、その肩の力は、ほんの少しだけ抜けた。
***
湖面がまた揺れる。
今度は──聖人。
映ったのは、過去の自分を振り切ろうとした姿。
無感情を装いながら、常に誰かを“正解”へ導こうとする反射的な癖。
「俺は……感情を抑えることに慣れすぎて、“人としての反応”まで捨てかけてた」
聖人の言葉に、プリシラが静かに口を開いた。
「抑えなくてもいいと思う。怖がらないで、動いてくれたの……うれしかった」
聖人の手が、わずかに震えた。
***
そして──結那。
水面に映ったのは、“旅の終わり”を恐れる少女だった。
「私ね……あんまり考えたことなかったの。“旅が終わったら何が残るの?”って。だって自由って、“何も持たないこと”だと思ってたから」
匠真はノートを手に取り、彼女の前に立った。
「でも、僕たちは“残す”ために旅してるんだと思う。出会った人、交わした約束、全部書いて、忘れないようにするために」
結那の目が揺れる。
「……それって、自由の反対みたいだね」
「違う。自由の中に、“残したいって思える何か”が生まれるなら、それはきっと、強さなんだ」
結那はふっと笑った。
「匠真って、ほんと理屈っぽい。でも、嫌いじゃないよ。そういうの」
水面が静かに閉じ、再び鏡のように空を映した。
水面は静かに戻った。
だがその場にいる誰もが、それぞれの心に波紋を残していた。
重く沈んでいた感情、言葉にできなかった孤独、そして──それでもここまで歩いてきたという誇り。
匠真は、胸元のノートを開いた。
「この旅で、僕はいろんなことを学んだ。魔法も、戦い方も、人の在り方も……でも、何より忘れたくないのは、今日みんなが見せてくれた“本音”なんだ」
誰も言葉を返さなかったが、その空気はやわらかく、温かかった。
彼は湖面の前にしゃがみ込む。
ゆっくりと、ページをめくりながらペンを走らせる。
「佑弥──『誰かと比べずに立ちたい』。
久美──『努力が報われないことが一番怖い』。
聖人──『無感情でいることで、仲間を見失っていた』。
結那──『旅の終わりが、怖い』。
……どれも、大事な“言葉”だよ。絶対に忘れたくない。だから僕は、書き続ける」
風が木々を揺らし、鏡面湖の水面をわずかに波立たせた。
そのさざ波が、匠真のノートのページを、まるで肯定するようにめくる。
結那がひとつ深く息を吐いた。
「……私もね、ひとつ決めた。自由っていうのは、ただ好き勝手に動くことじゃない。“誰かのそばに居続ける”って選ぶことも、自由の一つなんだって」
それを聞いたプリシラが、そっと小さく笑った。
「……あの時、私も怖かった。ダンテを助けるって決めたことが、裏切りになるんじゃないかって……でも今は思う。“選ぶ”って、きっと、誰かを裏切ることじゃない。誰かを信じることなんだって」
誰かが涙を拭った音が聞こえた。
そして、静かに──聖人が呟いた。
「……感情を持つのは、悪くないな」
誰もそれに茶化さず、ただ静かに頷いた。
***
湖畔を後にしながら、侑子が言った。
「ねえ匠真。さっきの“本音のノート”、帰ったらどうするの?」
匠真は歩きながら笑った。
「学校に戻ったら、きっと普通の生活が待ってる。でも、それだけじゃ足りないと思う。僕は──学び続けたい。次は、誰かに“伝える側”になりたいんだ」
結那が肩をすくめる。
「教師とか、言い出すんじゃないでしょうね?」
「……まあ、それもいいかなって思ってる」
「本気で? 変わったね、ほんとに」
「ううん、変わったんじゃない。“知った”だけだよ。旅ってそういうものだろ?」
侑子がふふっと笑った。
「じゃあさ、そのノート、旅が終わっても続けなよ。次のページには、また新しい“誰かの心”が載るかもしれないんだから」
匠真は深く頷いた。
ノートの表紙に、指先でひと文字刻む。
『ルーメリア心記録』。
──それは、旅が記憶に変わるための第一歩だった。
(第12話【樹海の鏡面湖と鏡写しの心】End)




